Pigeon Blood「渡辺殿は尻が軽いそうで」
にたり、と梟のような笑顔で言われ、綱は食事の手を止めた。
「それは、どういう」
こんなところでいわれるとは夢にも思わない言葉を吐かれ、微かに眉間を寄せる。端から見たら殆どわからない程度だろう。
一体どういうつもりで、自分に向かってその侮辱の言葉を吐くのか。言葉の意味に心当たりはない。少なくとも、ここでそんな風に表現されるようなことをした覚えはなかった。
しかし、綱を侮辱した英霊は、何が悪いのかわからないとでも言いたげに首を傾げる。
「坂田殿が、そのように」
はて、誤りでしたか、と。
にたりにたりと嗤う顔は、死にかけの月に似ている。
綱は、表情筋から意識して力を抜き、小さく首を振った。
シュ、と空気が駆け抜けるような音を立ててドアが閉まる。
今日はやけに、首元が苦しく感じた。いつも通りの着慣れた黒い詰め襟だ。綱は、喉元の留め具を外し、細く息を吐いた。
心臓の底の方が、いやに冷たい。
身体の表面を撫でるようにして手を下ろす。
「……」
自分の吐息の音が耳障りだった。
金時が、そんなことを言うはずがないのは、理解している。よりにもよって、そんな言葉を自分に向かっていうなどと、少しも思ってはいない。
理性は、綱にそう言っている。それは疑いようのないことで、たとえばあの単語以外であっても、あの男が、それに類する認識を自分に向けているとは、思ったことはない。
思ったことはないが、考えたことなら、あるのだ。
何故なら、金時はあの言葉が事実であることを知っているからだ。
綱の貞操観念は比較的硬い。
本来であれば、心を許しあった者同士だけがそういった行為をすべきだと考えている。
同時に、それが儘ならない場合もあるということも、知っていた。
強いられる行為は綱にとっては、ただの暴力に等しかったが、それをわかっているのは綱だけだ。しがらみ、立場、上下関係、損得、理由は色々ある。あるが、しかし、甘んじていたことは、事実である。
じん、と喉の奥が震える。
わざわざ金時にそのことを確かめたことはない。だが、知っているだろう。初心でも、聡い男だ。
英霊となって、いわば心身ともにリセットされた状態であり、今の綱の身体はあの男のことしかしらない。だが、望む望まざるとに関わらず、数多の腕に抱かれたことを覚えてはいる。それは真っ新とは、言い難い。
金時が、そのことを軽蔑しているとは思わない。そんなことは理解している。
理解しているからこそ、もしも、におびえているのだ。決してそんな風には考えない男だからこそ、”もしも”不潔に思われていたら、そんな男であっても忌避するような自分であったらどうしようか、と。
ありえないとわかっているのに、それは理性を超えて、純然な恐怖としてせり上がってくる。
あの頃の綱は、己の責務を全うしただけだ。それが必要だったから、すべきことであったから。
わかっている。
「わかっている」
物の少ない広い部屋に、うわんとその声は広がって、まるで自分に言い聞かせているようだ。
綱は鳩尾をぐっと撫でて、さっきと同じように小さく首を振った。
ぱさぱさと淡い色の髪が人工の灯りを反射させる。
足元には、まるでシミのように黒い影がうずくまっていた。