桃花園 肆水平線の向こうがやたらに騒がしい。カイニスは、怪訝さに片眉を跳ね上げた。今はまだ嵐の季節ではない。やっと生き物が息を吹き返し始め、鳥たちが快晴を割って帰ってくる頃合いである。嵐に来られてはたまらない。それなのに、黒い雲が湧き上がり、海面と眩しい糸を結んでいる。カイニスは湯につかる時のように岩にあげていた腕を下ろし、ばちゃんと海へと沈む。そのまま、流れに逆らって河口を目指した。
「金時!」
ざばっと水面から出てきた顔に、金時はよおと手を上げた。
「お前の仕業か?アァ?!」
やたらと物騒な喧嘩腰だが、金時は慣れた物である。あげていた手を懐に戻し黒いグラスをこして、仁王立ちの姿をみやった。
その姿から女のようだとは見えるのだが、筋肉ののった四肢はあまり柔らかそうではなく、ひきしまったからだは、むしろそこいらの男連中よりよほど雄々しい。
カイニスはその逞しい腕を上げて、海の方角を指さした。
「この辺で雷呼びつけるのはお前ぐらいだろうが、何してくれてんだ」
渡り鳥が渡れねえと眉をしかめる。
「悪ィな、すぐに止む」
「あ?」
「お天道さんに気付かれる前に止めるからよ、目ぇ瞑ってくんねぇか」
頼む、と。
金時の目はサングラスに阻まれて、見えはしない。しかし、カイニスにはわかった。ずっと前から聞かされていたこの男の計画が、今夜決行されるのだ。
そうであれば、止めることなどできはしない。むしろ、なんで言わないんだという水くささが気に触る。
こうみえて、カイニスは真面目だし情に篤い。
「手伝うか?」
「いや、オレだけで問題ねえ。サンキューな」
「……」
じっとみあげる。金時はうんと頷き川上を見た。
「オレっちだけで、やりてえのさ」
カイニスの背後ではゴロゴロと空が唸っている。金時の気持ちはわかる。その意志のかたさも。
「わぁったよ。ま、必要な時は呼べよ」
来てやる、と言い残し、カイニスは来たときと同じく水中に消えた。
空は徐々に暗くなる。月を隠し星を隠し、金時の陰も見えなくなった。暗闇に、雷雲のうなり声が響く。
「やっとだぜ」
やっとだ。長年、この日を待っていた。決して人間に負けない頭脳と力を蓄え鍛え、いつか助け出すと誓って、もういくつ春を越しただろう。
やっと、師である烏天狗から、お許しが出たのだ。
そしてあの花が外に出される満月をまって、ついに、今夜である。
幼い頃、どうしようもない暴力にさらされた。その儘ならない理不尽の渦中にある、あの美しいひとを助け出す、そして自由にする、それだけを目標に今日まで己を鼓舞してきた。
もう二度と目の前が昏くなるような怒りにも憤りにも、屈したくはない。
「なあ、待っててくれよ」
今行く、と。あのときの約束を守る。悲しい程に待たせてしまったが、決して違えない。
踏みしめた砂利が、がりがりと音を立てる。川面に、ひとひらの花びらが流れてきた。涙のように、ひらりひらりと波に遊ばれるそれを、金時は憎らしさを耐え、見つめた。
あのときは大きく見えた柳も、今ではただの木だとわかる。
空が鳴く。暗闇に稲光がさす。
雷光は、怒りに燃える男を浮かび上がらせた。白亜の花園に、その姿は降り立つ龍のようだ。
「来たぜ」
カッと空が明滅し、爆発するかのような音を立てて雷が落ちる。
数年ぶりの景色。恐ろしいほどになにも変わらない桃源郷。漂う甘さに、鼻に皺を寄せる。
「バッドゴールデン、だぜ」
気に入らねえ、と落ちたつぶやきと共に、雷に打たれた桃の木がドオンと地に伏した。
落雷の夜が、華やかに、幕を開けた。