斎藤一、勘違いをする「斎藤殿、今夜は空いているだろうか」
デスクの横に立つ、すらりとした美しい男。すらりとして見えるのは、スーツの合わせ方が完璧だからであり、逆にスーツの着方をわかっている者がみれば、その下にはスーツを似合わせるだけの肉体があることも理解できるだろう。
男は、すだれのような睫の間から黒々とした視線を落とし、微かに首を傾げた。
「駄目だろうか……」
ああ馬鹿やめろ、やめて。尋ねられた斎藤はあわわと口に手を当てた。
美形がそんなことするから、周囲のお嬢さん方が色めきだっている。一部の人々から実は出来ているだとかなんだとか、噂されているのをしっているのだろうか。斎藤としてはまったくの誤解であり、いろんな意味で1ミリも可能性がない噂話は早々に否定したいのだった。いっそのこと誰か正面から尋ねて欲しい。そうすれば、きっぱりと否定できる。けれども当然そんな猛者はおらず、いまもチラチラと意味深な視線が飛んでくるのみだ。
「食事に行かないか?」
「えっあー」
勿論斎藤だって暇ではない。恋に仕事に忙しい身だ。そうそう金曜日の夜に身体が空いているわけはない。
わけはない、のだが。今日は暇だった。
「あー、いいですよ。空いてますよ」
「そうか」
よかった、と頷く表情は嬉しそうではない。というか、あまり表情が変わらない。美しいということだけはわかる。
長い付き合いで、よくよくみると嬉しそうだなとか残念そうだなとか、わかるときもあるのだが、それだって微かに口角が上がって見える、とかその程度だ。
斎藤は自分にはなかなかに観察眼があるタイプだとは思っているが、この美しい男に対しては自信がなかった。わかりにくすぎるのだ。それに、そんな些細な感情の変化を理解しあうような仲でもない。
連れだってやってきたのは、繁華街の外れにある小料理屋だった。料亭という程敷居は高くないが、居酒屋と言うほど庶民的ではない。仕事が出来ると言われるだけある男の選ぶ、隙のない選択だ。
ふたりは、薄暗い半個室に通された。通路からの目隠しには竹が植わっている。廊下の一部は硝子張りになっていて、床下には水が流れている。そのちゃらちゃらという音と微かなクラシックが、会話を妨げず、かつ静まりもしない適度な音量で室内に満ちていた。
斎藤は早々にジョッキを半分あけ、一息ついてからお通しに箸を伸ばした。帆立の梅肉和えが、口の中でとろりととける。
「それで? 最近恋人ができて平日も週末も忙しくしているはずの渡辺さんが花金に僕を誘うなんて」
暫く片想いをしていた相手と両思いになり、はれてお付き合いすることになりました、と斎藤はきっちり報告をうけている。そもそもお付き合いに至るまで、諸々アドバイスなどをしたのは斎藤である。あまりに容姿が整っているせいなのか、それとも優秀すぎる故なのか、はたまた生まれ持ったものなのか斎藤には知るよしもないが、渡辺は時折浮世離れしたことをしでかす。
中身は、外見を鼻に掛けることもなく、面倒見がよく責任感も強く、本来の意味で優しい良い男なのだが、それを理解してもらうのはなかなかの至難のわざだ。そこで、斎藤は簡単な贈り物をしてみたらどうかとか、相手の些細な言葉を覚えているのは良いだとか、基礎の基礎的なアドバイスを重ねていた。その結果、付き合うことになったと報告を聞いて、喜ばしく思ってたのだ。写真も見たことはないが、年下で働き者で良い子だと聞いていた。きっと穏やかで優しくて、良いパートナーになりそうなタイプに違いない。
渡辺のような人目を引く美形の横に立つには気苦労もあるかもしれないが、渡辺は不安を抱かせない程、相手を大事にしているようだった。
「……そのことなのだが」
江戸切子のぐい飲みを置き、渡辺はじっと手元を見つめる。控えめな照明が伏せた睫の陰をやたらに長く見せていた。
「付き合っていると、言って良いのだろうか、と……」
「ええ?だって、しょっちゅう食事してるんじゃなかった?」
「……週に、2,3度はうちで俺が料理を」
惚気かもしれない。斎藤はぐっと残りのビールをあおった。
「それでなんで付き合ってないのよ」
「食事しか、しない、のはどうなのだろうと……」
あの渡辺が視線を彷徨わせる。斎藤は、その様子に言わんとしていることを察し、ああと頷いた。
「大事すぎて手が出せないってこと?」
「そう、なのだろうか……?」
「あんまりそういうの慣れてない子なんでしたっけ」
惚気かとも思ったが、どうやら渡辺は本当に相手のことを思って悩んでいるらしい。斎藤は、ふんふんと頷いて姿勢をただした。
「ああ、そう、だな。忙しくてあまりそういうこととは縁がなかったと」
「あーなるほどね、初めてっぽいんだ」
渡辺は彷徨わせた視線を帆立で止めて、こくんと頷いた。
「それなら確かに慎重になるかもしれないけど、もう三ヶ月とかでしょ?」
「ああ」
「それなら、なんにもないっていうのも……相手も待ってるんじゃない?」
「まってる……」
「もしかしたらだけどさ、それこそ慣れてなければどう進めたら良いかもわからないだろうし、一度話しあったら?」
遠い昔の記憶。初めて出来た彼女は中学生の頃だった。あのときは、手を繋ぐタイミングさえわからなかったものだ。もし本当に全てが初めてに近いのであれば、渡辺からアクションを起こしてあげた方が良い場合もあるだろう。
「話し合う、か」
「そうそう」
「確かに、準備もあるからな……」
うん、と。
確かに、初めてであれば心の準備は大切だ。
「じゃあ、頑張って」
ね、とジョッキを掲げる。渡辺は、ふ、と口角を上げ、女がみたら心臓がギュワっとなりそうな笑みを浮かべて、ぐい飲みを掲げた。
このとき斎藤一は、後日、己がとんでもない思い込みをしていたことに気付かされるとは、夢にも思っていないのであった。