やがて染まりゆく世界によせて 始まりは花壇の隅の紺碧だった。
いつもならてきぱきと、けれども丁寧に花壇の手入れに取り組んでいる彼女が、珍しく何か悩んだ様子でちょこんと花壇の端でしゃがみこんでいる。
そんな小波美奈子の様子が気になって、御影小次郎は軍手についた土や枯れ葉をパタパタとはたき落としながら、ゆっくりと彼女のほうに近づいていった。
「おう、美奈子。どうかしたのか?」
「あっ、小次郎先生…。」
「なんかおまえの手止まってたけど、なんかあったか?大丈夫か?」
極力明るい声を装って俺は声をかけた。そうして、彼女の視線のあった先をサッとたどると、夏の名残の露草たちが、紺碧の花をキリッと秋の青空にもたげていた。
「ん…?露草?」
「そうなんです。雑草といえば雑草なんですけど、私なんだかこの子達を抜きたくなくて…」
「まぁ、綺麗だもんなぁ。お前の言ってること、わかる気がするよ。」
そう微笑みかけると、美奈子はほっとした様子でようやく笑みを見せた。
「お前、露草好きだったのか?」
やわらかい雰囲気の彼女が、この紺碧の凛々しい花に特別な想いを持っているようなのが、俺にはなんだか少し意外な気がしたのだ。
「うーん、好き…。そうですね。どちらかというと好きなのかもしれません。
私、子供のころにこのきれいな青色を手に入れたくて、買ってもらったばかりの白いハンカチを、露草で作った色水に浸したことがあったんです。」
当時を思い出して懐かしそうにしている美奈子の優し気なほほえみと、いかにも子どもらしい遊びの話に俺の頬も自然と緩むようだった。
「んで、その綺麗な青は手に入れられたのか?」
「そうなんです!すごくきれいな空色のハンカチができたから、嬉しくてすぐに乾くようにおひさまのしっかり当たるところに干したんです。
ところが、他のところで遊んだ後にそのハンカチを見に行ったら、あっという間に、本当に魔法のようにあの青が退色しちゃってたんです。今でもちょっと残念で、この露草を見ながらあのハンカチを思い出してました。本当にきれいな空色だったのに…。」
昔の話なのに、まだ少し残念そうにつぶやく美奈子の姿がなんだか少し可笑しくて、俺はフッと笑いをこぼした。
「あっ!先生、笑いましたね?私真剣だったんですよ?」
「いや、悪い悪い。昔っから、それこそ万葉の昔から、露草って水や光で退色しやすいっていうので有名な花だったんだ。露草の持つアントシアニン系の色素、コンメリニンとかって名前だったと思うけど、この色素は水溶性だし安定しにくくてな。その性質を使って、いまだに友禅とかの下絵描きに使われてるはずだ。つまり、お前は大昔の人たちが試行錯誤しながら手に入れようとした青に、子どもながらにチャレンジしてたってことで、それがなんだかお前らしくて可愛くてな。笑って悪かったよ。」
「そうだったんですね。本当にきれいな何とも言えないような青だったから、いつかまたチャレンジできたらいいなと思ってたけど、なかなか難しい花だったんだ…。」
「お前さ、もし草木染めに興味あるなら、今確か博物館で特別展やってるはずだぞ。」
「えっ?本当ですか?」
「おう。これだこれだ。『世界の染め・織り物展』。なんでも有名な染色家が染めた着物やら、昔の織物が展示されてるらしい。」
そういって俺はスマホでササっと調べた画面を彼女に向けた。美奈子はそんな俺の腕ごとスマホを引き寄せてじっと画面に見入ったかと思うと、おもむろにパッと顔を上げ、勢い込んで言った。
「先生!私これ見に行きたいです!!」
「うん、なかなかおもしろそうなテーマだよな。」
「先生さえよかったら、今週の日曜日一緒に見に行きませんか?」
「おう。俺は別に構わねえよ。」
「ふふっ。ありがとうございます。
ええと、待ち合わせ場所は公園入口でいいですか?」
よっぽど特別展が楽しみなのか、いつもよりもはずんだ美奈子の嬉しそうな声が爽やかな秋空に吸い込まれていった。
〈第一展示室:染め〉
「小次郎先生、この色見てください!すごく綺麗ですよ!」
日曜日だというのに、秋晴れのお出かけ日和のおかげでか人けの少ない博物館に、美奈子の透き通った声が少しだけ響いている。
展示室の壁のそこかしこには、優しげだったり凜々しかったりする様々な色の糸の束や、それらを使って織られた着物が展示され、部屋中に穏やかで落ち着いた雰囲気が漂っていた。展示室の入り口には、まだ染められる前の絹糸が見本のように飾られていて、糸の内側からほんのりと柔らかくて白い光を放っている。
博物館に入ったときから美奈子は既にわくわくした様子ではあったが、この部屋に一歩足を踏み入れた時から、彼女の瞳が好奇心でキラキラと輝いていた。青や赤や緑といったそれぞれの色がまとまってひとつずつコーナーを作り、そんなカラフルな中を優しげな彼女のピンクの髪が少し跳ねるように動き回っている。その光景がなんとも可愛くて、俺の口元には笑みが浮かんでいた。こんなに生き生きとした楽しそうな姿を見られるならば、こいつをここに連れてきてよかった、としみじみと思うのだった。普段学校では真面目ちゃんなこいつが、楽しそうにはしゃいでいる。そのことが俺の心も少なからず弾ませていた。
藍甕から鮮やかな水縹色や深みを帯びた藍色が生み出される過程を一緒に眺めたり、刈安やクチナシで下染めされた黄色の糸が、藍甕に浸って草色や常磐色といった爽やかな緑色に生まれ変わる様子を解説パネルで一緒に見ながら、ああでもないこうでもないと美奈子と話す時間はとても楽しくて、気がつくとあっという間に時がたっていた。
草木の持つ軽やかさのためか、この部屋には爽やかであたたかい空気がほんのりと漂っている。そんな優しい空気に包まれていると、あと少しでこの日本の草木染めコーナーが終わってしまうのが少し惜しくも感じる。展示をひとつずつじっくりと味わっている美奈子に歩調を合わせながら、ゆっくりと2人で最後のコーナーに向かった。
そこでは、匂い立つような桜色をはじめとした紅色や濃き紫色が、艶やかに鮮やかに俺たちを出迎えてくれていた。
美奈子は糸たちが放つ色彩の美しさにほぅっとため息をついて、そこに掲げられた解説パネルと染められた糸をじっくりと眺め始めた。
「ねぇ、先生。このピンク色、何からできてると思いますか?」
「ん?ここの説明のパネルに桜染めって書いてあるから、桜の花じゃないのか?」
「桜は桜でも、桜の花じゃなくて、桜の枝らしいですよ。
しかも、開花直前の桜の枝じゃないとこんなにきれいな桜色は出てこないらしいんです!枝からピンク色が出るんですね…」
「おお、本当だ…。確かに枝から染めたって書いてるな。じゃあ、こっちの桃やら梅やら葡萄やらって書いてある糸たちも、それぞれの植物の枝から生まれた色なのか…?」
なんでも、枝先の隅々まで花を咲かせる準備を整え、今か今かと開花の時を待っている枝からこそ、この優しげで純粋な桜色が得られるのだという。あのゴツゴツした木の枝や皮から、こんなに繊細で美しい色が生まれるというのはなんとも意外で、植物が秘密を俺たちにこっそり見せてくれているような不思議な心地がした。花が咲く直前の桃の枝からは桃色、梅の木の皮からは梅色、葡萄のツタからは葡萄色が生まれる。花の精髄とも言える繊細で艶やかな色を、あんなに無骨な木の皮や枝が隠し持っていることのおかしみを、俺たち2人は感じ取っていた。
黄の糸に藍を重ねて美しい緑を生み出すように。時には花よりも木の皮や枝が綺麗な色を隠し持っているように。人も染め物と同じように、その人の持つ美しさは表に現れるものばかりではなく、手間を重ねて生み出すものであり、体中にエネルギーが満ちている時こそ、その人の持つ美しさが滲み出るものなのかもしれない、なんて柄にもなく俺は思うのだった。
<第二展示室:モチーフ>
濃密。
この部屋に一歩足を踏み入れた俺たちの目に飛び込んできたのは、様々な大きさの色とりどりのキリムやギャッベ、絨毯だった。
身近な草木や花たちが放つ爽やかさの漂っていた先ほどの部屋から、この部屋に一歩足を踏み入れると、あまりの空気の濃度の違いに思わずくらりとする。
壁のそこかしこにかけられたアンティーク絨毯は、その鮮やかな色合いに圧倒されるとともに、今まで見てきたシルクや植物繊維からできた着物たちよりも幾分か荒々しく、勢いを感じるものだった。
羊の原毛から紡がれた糸が、様々な植物や鉱物の作り出す色に染まり、人の手によって模様が紡がれ、一つの作品になる。
木、羊、鳥、花、ザクロ、オオカミ、人、蔓草、水流…
日本でもよく目にする意匠から、その土地特有のデザインまで、様々な色と模様の洪水が混ざり合って、いっぺんに襲い掛かってくるようだった。
音もほとんどない博物館であるのに、この部屋には不思議な圧迫感がある。本来室内で使われる織り物たちのために、意図的に照明が絞られているのか、先ほどまでの部屋よりも少し薄暗くて、織物の迫力も相まってか空気が少し薄いようにも感じた。
そっと横に立つ美奈子の様子をうかがうと、さっきまでの俺と同じように、布たちの放つ力に驚いてなのか口をポカーンと開けていた。
「さて、この展示室が最後みたいだから、しっかり見ていこうぜ。」
俺も明るい声を出して、美奈子を部屋の奥へと誘った。そして、美奈子と一緒に数点の展示物を眺めるうちに、俺はふと何かに呼ばれたような気がしてそっと辺りを見回した。すると、出口付近に飾られていたいかにも年季の入ったようなアンティークキリムが俺の目に飛び込んできた。俺はなぜかそれに目を奪われ、気づくとほかの展示を飛ばしてその布に吸い寄せられるように近づいていた。キリムというのは中近東の遊牧民が敷物や間仕切りに使ったり、ゆりかごに掛けたりといった様々な用途で使われた平織りの織物のことをいうらしい。俺がどうしようもなく惹かれたそのキリムには、大きな木に鳥が数羽隠れるようにとまり、その木から子どもが楽しそうに花や果実を採取しているような模様が描かれていた。そして、その少年の周りには、三角を二つ繋いだような小さな模様が転がっている。それらすべての模様のぐるりを取り囲むように蔓草が、美しく、けれどもしっかりと絡み合っていて、その子どもをとりまくすべてが、まるでツタに囲われた一つの世界であるようだった。彼は自分がツタに覆われた世界にいることにはまったく気づいた様子もなく、楽しそうに自然と遊んでいる。
真面目ちゃんが勉強から離れて楽しんでいる姿を見られればいいと思って誘った特別展だったはずなのに、気づけば俺もこの世界に魅せられていたようだった。
この織り物の描き出す物語に囚われたように見入り、時間も忘れてぼんやりと立ち尽くす俺の横に、いつの間にか小さな影がそっと寄り添っていた。全ての展示をしっかり見終わったのだろうか、美奈子も俺と同じキリムをじっと静かに眺めていた。
この子はぽんやりとしているように見えて、その場の空気をさりげなく読んですっとなじむようなところがある。今もそうやってそっと静かに俺の横に立っていた。そうして、まるで呼吸をするかのように自然にゆるりと話し始めた。
「ねぇ、先生。知ってましたか。
こういうモチーフひとつずつに祈りや願いが込められているそうなんです。
健康だとか永遠の命を表す生命の樹に、幸福の使者である鳥が寄り添っていて。
豊かな実りを手にした子どもは、親から健やかな成長を願われつつ丁寧に織り込まれている…。
所々に転がったこの三角が結ばれた模様は「足かせ」らしいんですが、繋がりを意味しているそうです。
そして、全体をぐるりと包み込むツタ。蔓草の生命力が子孫繁栄だとか、「不滅」っていう意味を持っているみたいです。
このキリムや、この部屋のあちこちの織り物に昔の人たちが込めた想い…子どもたちが、家族が栄えますように、ずっと続いていきますようにって願って作った祈りが今まで織り物の形をとって続いているなんて、なんだか素敵で胸がいっぱいになりますね…。
きっとたくさんの模様を何個も重ねて、この子のこの先が健やかで栄えていますようにって何度も何度も願いを込めたのでしょうね…。」
彼女の、美奈子の目を通して語られた世界は、まるで俺の世界の色を一瞬にして染め変えてしまったようだった。
このキリムのなかにいたのはツタに囚われた少年では決してなく、周りからの温かい想いに包まれた少年なのかもしれない。
俺がここの空間に入って感じた空気の重さは、模様の発する祈りや願いの重さを我知らず感じ取っていたようだった。
織り手が込めたさまざまな期待や願いが、どろりとツタのように巻き付いて、それの持つ濃密な想いの強さのせいで空気が重く感じられていたけれども、俺が美奈子を始めとした生徒たち、モーリィや生き物たちに愛しさを感じて、健やかで伸びやかに育ってほしいと願っているのと同じように、昔から人は同じように願い、祈ってきたのだろう。時にはそんな願いや祈りを重く思うこともあるけれど、その想いの根底には確かに優しさや思いやりがあるのだ。
俺の思考はまた遠くをさまよい始め、再びぼんやりとし出したが、美奈子はそんな俺を急かすでもなく、静かに同じアンティークキリムを眺めていた。
この部屋に入ってからの俺が、いつもの「小次郎先生」らしくないことに、きっとこいつはとっくに気付いているだろう。けれど、触れられたくないところには決して踏み込まず、そっと静かに寄り添ってくれる、そんなこの子の優しさと聡明さに、俺は確かに救われているんだ。
そして、 美奈子のそんな優しさに少しだけ甘えるように、俺はポツリと思いをこぼした。
「なぁ、よく人生を紡ぐっていうじゃねぇか。
俺たちは一生懸命に命の糸を紡いで、その時の想いの色でその糸を染め上げる。いろんな人と関わるうちに色んな影響を受けて、きっとその時々に自分の色が変わっていったりするんだろうな。人生を紡ぐってそういうことなのかもしれない。その時々で出会う人や生き物、環境と化学反応を起こして、紡いだ糸の色が変わっていくのかもしれないよな…。」
「先生のその考え、素敵ですね。
このまま時が止まってしまえばいい、なんて思うこともあるけれど、時を止めることができないならば、せめてそれぞれの命の糸一生懸命紡いでいくしかないんですよね。」
「おまえでも時を止めたいなんて思うことがあるのか?」
「もちろんありますよ?なんなら、今だってそうです。」
「今?」
「ふふっ。
ねぇ、先生。時を止めることはどうしたってできないんだから、できるならたくさん思い出を作っていきたいですね。楽しかった今日のお出かけみたいな思い出を。
先生がさっきおっしゃったように、その時々の私の色を土台にしながら、友達や、家族や、先生や、色んな人からもらった想いを織り込んでいって、やがて私の人生もこんな風な一枚のタペストリーになるといいなって先生の横で私は思ってました。
嬉しいこと、楽しいこと、そうじゃないこと。一生懸命私の命を紡いで、色んな想いと、思い出と、祈りの詰まった私だけのタペストリーを作っていけたならいいな…。」
そう言って、まっすぐ前を向いて立つ彼女の凜とした強い横顔は、秋空の清い青さにも負けずに自らの色を誇る、あの露草の潔さにも重なって見えた。
「できるよ、おまえなら。きっとな。」
励ますように彼女の頭にポンっと手を置くと、美奈子の頬や耳がさっと一瞬にして朱に染まった。そして、その色は、この特別展で見たどの色よりも綺麗だった。
どこからか入ってきた甘い金木犀の香りが二人の間をふわりと通り過ぎていく。その時々を懸命に生きること。命を尽くすこと。どれだけ迷いながらでも、自分の中にある綺麗な色を求めて諦めないこと。彼女なら、美奈子ならきっとその身を尽くして丁寧に彼女の人生を織り上げていけるだろう。
「俺も、おまえに負けてられねえよな…。」
教師としてなのか、男としてなのか、一人の人としてなのか、今はまだわからないけれど、美奈子の放つ清らかさに釣り合う人間でありたいとは思うんだ。
博物館を出ると、空は既に薄紅に染まり始めていた。
「先生、綺麗な夕焼けですね。さっき見た茜色の糸とそっくり!」
「おう、本当だな。さて、家まで送るぞ。ちょっとゆっくり歩いてさ、今日の感想でも話していこうぜ。」
「ふふっ。いつも送ってくださってありがとうございます。」
夕陽のオレンジに染まった二つの不揃いの影は、楽しげにゆっくりと博物館から遠ざかってゆく。少し冷たくなり始めた夕風は、色づき始めた楓や紅葉をさわさわとそよがせ、「これから」に向かって歩いて行こうとする二人の背中をそっと後押しするようだった。
始まりは、ほんのわずかな紺碧だった。
晴れた空にも負けないその凛々しい青は、今を懸命に生きることでしか生み出せない色の存在と、祈りと願いの作り出す新しい模様のことを二人に教えたのだった。
新しい色と新しい模様で自らの世界を作り上げていくために、今日を丁寧に紡いで、想いを染めて、新しい世界を懸命に織り上げていく。それぞれの、二人の、新しい世界を、新しい色彩で。