君のひだりがわ好きな人がいる。
初めは言葉が噛み合わなくて、怖いなぁと思っていたけれど。
コミュニケーションが取れるようになってくると、その優しさに気付いてしまった。
棘は1年生の頃から単独の任務に出ていた。
制服に血を付けて帰ってくる事も多くて。
心配で。私なんかが心配しても、変わらないし、そう言う世界なんだと頭では理解はしているけれど。
だからせめて、任務の後は「おかえり」と。
無事で良かったと「おかえり」に載せて伝えてみた。
いつも彼は目を細めて、優しく笑って返してくれた。
真希もパンダもいない放課後。
唯はしっかりと準備体操をしてからグラウンドを走っていた。本当は体育は嫌いだ。この特殊な学校に入る前は、5段階評価の3だった。限りなく2に近い3。呪力があっても確実に体力が足りない。
放課後は真希たち同級生に稽古をつけてもらったりもしているが、毎日お願いする訳にも行かないので、週に何日かはこうしてひとりでグラウンドにいる。
お陰で10周くらいなら余裕が出てきた。
今日も10周走り切った所で徐々にペースを落とし、ゆっくりと歩き出す。
肩で息をして立ち止まると、背後から人の気配を感じた。振り向けば、ネッグウォーマーを目深に被る同級生の姿。
「ツナマヨ」
差し出されたペットボトルが頬に当たる。冷たくて気持ちがいい。
「…ありがとう」
少し驚いたけれど、唯は素直にペットボトルを受け取った。
やっぱり優しい。
端の階段に座って休憩をとる。
学生は少ないのにやたらと広いグラウンド。
陽が傾きかけ、建物の影が伸びたその場所には、棘と唯の2人しかいなかった。
もらったスポーツ飲料を飲んで、ちらりと隣の棘を見れば、ネッグウォーマーをズラして彼もペットボトルのお茶を飲んでいた。
「ツナ」
言われて呼びかけられる。
棘は体勢を変えないで、目線だけこちらに向けた。
「……」
けれど言葉は続かない。
棘の言葉にはハッキリした意味がない。ニュアンスで何となく聞いているけれど、今の短い言葉と視線だけでは、正直よくわからなかった。
何か物言いた気に迷っている…とは、思うのだけど。
少しだけ待って、唯が口を開いた。
「知ってたんだね。私が此処にいたの」
ペットボトルはスポーツ飲料だった。対して、棘が持っているのはお茶。
たぶんそれは、グラウンドを走る唯を見掛けて用意してくれたんだと思うけれど。唯は誰にもグラウンドに来る事を告げてはいない。
「しゃけ」
頷いて笑ってくれた。
棘は唯の顔を覗き込む。
恥ずかしくて目を逸らすと。
「ツナマヨ〜」
腕を伸ばして、唯の頭にぽんぽんっと軽く触れた。
まるで子どもを褒めるみたいだ。
「そんな褒められる事でもないよ。週に何日か走ってるだけだし。なんか恥ずかしいから、みんなには内緒にしてたんだけど。棘くんにバレちゃった」
「ツナ」
「また今度。体術教えてね」
「しゃけしゃけ〜」
ピースして笑う棘。
こうしていつも人を気に掛けてくれて。唯を、励ましてくれる。でもそれを、あまり表には出さない。
やっぱり、棘くんは優しい。
「ねぇ、棘くんは、その…」
唯はもらったペットボトルをぎゅっと握った。その印刷されたラベルを見る。
「好きな子とか付き合ってる子とか、いないの?」
言ったその手が、微かに震えていた。
棘と出会って半年以上が過ぎたけど。こう言う話には触れていいのか分からなくて。
…いると言われるのが怖くて、聞けずにいた。
しゃけ。おかか。
そんな風に軽く返ってくると思っていたけど。
「……」
隣で、息を呑む気配を感じて。
唯は顔を上げる。ゆっくりと棘を見れば、明らかに動揺して狼狽える彼の顔があった。
目を大きく見開いて、その瞳が揺れていた。
唯は目を逸らす。
好きな人、いるんだ。
簡単に聞いちゃいけなかった。
「…ごめん」
力なく呟くことしか出来なかった。
唯はその場に立ち上がる。
持っていたペットボトルを力いっぱい握りしめて、溢れそうになる涙を堪えた。
「ごめん、私。無神経な事、聞いちゃって…」
声が震えているのが自分でもわかる。
情ない。
最低だ、私。
一度言ってしまった言葉は取り消せない。
それはたぶん、彼が一番知っている。
後ろから溜息にも似た息遣いが聞こえて。
また、涙が溢れそうになる。目元を袖で拭った。
「私、部屋に…、」
戻るね。
と、言い掛けた言葉は、そこで止まる。
「おかか」
後ろで立ち上がる気配がして。
「いくら、明太子っ!」
とんっと軽く階段を降りるように駆ける棘に、手を引かれた。
「ツナツナ」と、数段の階段の下を指差した。
「……?」
戸惑う唯の腕を軽く引っ張る。
唯はペットボトルを階段に置いて、素直にそれに従って階段を降りた。
階段を降りると、棘は唯の手を離して砂地の地面にしゃがみ込んだ。
人差し指で、ゆっくりと、迷いながら何かを書いている。
「棘くん?」
「…ツナマヨ」
座ったまま振り向く棘に、笑顔はなくて。
ネッグウォーマーを握って、目元近くまでいっぱいに顔を隠していた。
少しだけ動いて、目線で地面を指す。
“ 唯 が 好 き ”
その言葉に、唯は真っ赤になる顔を覆った。
「………っ」
堪えていた涙が溢れる。
それは次から次へと溢れて、止まらなくて。
「…こんぶ…?ツナ…ッ、お、おかか?」
棘が慌てて立ち上がり、困ったように唯を覗き込む。
「こんぶ?たかなっ」
ごめんと謝る棘に、唯は首を振った。ふるふると何度も首を振る。
「…違う。違うの…。嬉、しくて…っ」
唯は袖で涙を拭った。
「私も、棘くんが、好き…」
歪む視界を真っ直ぐに棘に向ければ。
やはり驚いた顔でこちらを見ていた。
眉を顰めて。泣きそうにも見える揺らぐ瞳が。
「…しゃけ?」
小さく息を吐いて、唯を見る。
唯が頷くと、目深に被っていたネッグウォーマーをズラして、優しく笑った。
涙が止まらない。
棘の両手がゆっくりと伸びて、唯の背中に周る。唯よりもひと回り大きな身体が、ぎゅっと包み込む。唯は棘に身体を預けた。
片腕が、そっと唯の頭に触れた。さっきみたいな子どもにするとは違う感触。
静かに唯の頭を撫でた。
棘の口元がゆっくりと動く。
す き 。
微かに揺れるその声が、聞こえた気がした。
End***