日常…っ、くしゅんっ!
くしゃみをひとつ。
季節は間もなく秋を迎える。
刺すような日差しは日に日に少なくなり、朝夕はぐんと気温が落ちて来た。
唯は上下長袖のジャージを着てグラウンド脇の階段に三角に足を折って座る。
澄んだ青空が天高く綺麗だった。
然程離れていないグラウンドで、真希とパンダから指導を受けている後輩たちから目を離し、空を仰ぎ見る。
頬を撫でる風が気持ちいい。
でもやはり、少し肌寒いかもしれない。
後ろから階段を下る音がして。けれど、それも誰だか分かる唯は、変わらず空をぼんやり見上げていた。
「ツナツナ」
棘は、唯のすぐ後ろに立って顔を覗くように空を遮る。軽く腰を屈めて唯を見下ろす。
「おかえり、買い出し当番」
「しゃけ」
左手にはビニールに袋を下げている。袋の中はお茶などのペットボトルが入っていた。
空いた方の手が、唯の頬に伸びて優しく触れる。
「こんぶ?」
首を傾げて尋ねる棘。
唯の頬はすっかり冷えて冷たい。くしゃみしてたのを見られていたようだ。
「大丈夫。今日は少し寒いね」
笑う唯に、棘は頷く。
「身体動かしてれば温かいんだけどね。何回やっても、今日は真希とパンダに勝てないから諦めて休憩してる」
勝率は4割ほど。やや唯が劣性だが、何とかついて行っている…つもりでいる。今日は上手く行かないと不貞腐れる唯に、棘はただ笑った。
唯はグラウンドに向き直る。
棘の手は唯の髪に触れて頬から離れていった。
グラウンドにいるメンバーは誰もこちらを気にする様子はない。棘はビニール袋を階段に置いた。
「ツナ」
呼び掛けたかと思うと、その両手が唯の首筋に回る。
「………っ?」
戸惑う唯に構わずその腕は伸びて、そのまま唯を後ろから包み込んだ。唯の背中に身体を寄せて、両足で挟み込むように一段上の階段に腰を下ろす。棘の手は唯のお腹辺りで組まれた。
棘の匂いがふわりと香り、その体温が直に感じられる。思わず身体が硬直して、顔が真っ赤に染まるのが自分でもわかった。
振り向く唯に、棘は顔を覗かせる。
「……棘?」
「ツナマヨっ」
ネッグウォーマー越しに唯の頬に、棘が口付ける。
それは一瞬の事だが、慌ててグラウンドを見れば、やはり誰もこちらを見てはいない。
棘は唯の髪を掻き分けて整え、唯の白い首元にも、頬と同じように軽く口付けてから顔を上げる。
棘の髪が首筋にかかってくすぐったい。
唯の心臓は煩く響く。
少しだけ身体を動かしてみたが、離す気はないらしく、棘の腕には一層力が入る。唯の力では全く歯が立たない。
「おかか」
棘は唯を抱きしめたままグラウンドを眺めた。
唯もそちらを見る。
温かいを通り越して身体が熱いのは、体感だけではない気がする。
そのまま、静かに時間は流れる。
棘は口をつぐんだままだった。
唯は棘の腕に自分の手を重ねた。
その片方の手を伸ばして、棘の髪に触れる。
サラサラした髪を撫でてみた。
棘は静かに目を瞑る。
「何かあった?」
小さく呟く。
後ろで微かに動く気配があった。
しゃけも、おかかも返ってこない。
これが棘の返事なのだろう。
棘は俯き、唯の首元に顔を埋めた。
「しお…こんぶ…」
ネッグウォーマー越しにくぐもった声が小さく聞こえた。あまり聞き慣れない単語。
「…そっか」
一昨日まで任務に出ていた棘。
何事もなく無事に帰って来たように見えたけれど。
きっと彼は、こうして突かなければ何も言わない。他人に優しい分、自分の傷には疎いのかもしれない。
「…こんぶ」
肩越しに伝わる声が、小さく響く。
唯は首を傾けて自分の頬を棘の頭にくっつけた。爽やかなシャンプーの香りがした。
そのまま、しばらく。
スパーン!っと、大きな音が聞こえて。
転がる虎杖に、笑う真希とパンダ。野薔薇に伏黒。
…決着が付いたようだ。
「痛ーってぇ!!」
呻く虎杖を笑いつつ、みんながこちらに歩いてくる。
棘が唯の首元から顔を上げた。
「買い出しご苦労様」
「ありがとうございます」
「しゃけ」
パンダと伏黒、野薔薇たちが棘に礼を言う。
棘は片手で、何事もなかったように袋のペットボトルを差し出した。それぞれが飲み物や頼んでいたお菓子やパンを受け取っていた。
ペットボトルを空けながら真希が唯を見る。
「唯はいつまでサボってんだよ」
「だって寒いもーん。勝てないもーん!」
「しゃけしゃけー!」
頭上から唯を肯定する声が聞こえる。
いつも通りの棘だった。
真希が呆れた顔でこちらを見た。
「あんま唯を甘やかすな、棘」
「おーかかー」
言って棘は唯をわざとらしくぎゅうっと抱きしめる。唯は苦笑いで2人を見た。
「何笑ってんだ。唯、私から一本取るまで今日は帰れないからな」
「えぇ…酷い…」
「おかか!」
真希が笑う。
文句を言う唯に便乗する棘。
ほんの少しだけ元気になった気がする棘の声に、唯は胸を撫で下ろす。
日常と非日常が、日常になるこの場所で。
こうして日々は過ぎていく。
辛い事全部、話さなくてもいいから。
優しくて。
弱音を吐かない、この人の。
ただ、隣で。
End***