君だけに「お願いします」
声にして唯が構えれば、口元をネッグウォーマーで隠した狗巻先輩は微かに頷いた。ジャージにラフなTシャツ。笑顔はなく、その眼光は鋭く唯を見る。
静かな屋内の武道場だった。
夕方の傾きかけた陽射しがやんわりと差し込んで、影になった畳を照らす。
唯は一度呼吸を整えて、相手の出方や様子を見ながらも走って間合いを詰めた。
迷いなく真っ直ぐに進み、まずは上段蹴りでその頭上を狙う。右足を振り上げるが、一歩引いた先輩に難なく交わされてしまった。
地面に着いた右足を軸にして回転を加え、左足で回し蹴りを入れるが、先輩は当然のようにひらりと交わして体制を低く持って行く。
足だ。
と、すぐに気付く。
小柄な狗巻先輩はよく、相手の足元を狙う。
警戒して瞬時にその足元を注視すれば、やはり狗巻先輩の足が伸びた。
ーー早い。
理解はしていてもスピードが追い付かずにギリギリで飛び上がって交わすと、体勢が崩れて倒れ込みそうになる。それを寸前で踏ん張って立て直すが。
顔を上げると、狗巻先輩は微かに笑っていた。
あ。これはダメなヤツだ。
分かってはいてもその手を伸ばした。
着地に失敗しているので上手く伸ばせないが、実戦だったら文字通り「終わり」だから。
首を狙って手刀を出すが、それはやはり狗巻先輩の片手で阻止される。空いた手で唯の手首をぎゅっと握られて、力一杯引っ張られた。
声もなく前に倒れ込む唯の身体を支えつつ、背中に周る狗巻先輩は。
「高菜」
唯の耳元で小さく呟く。
首に軽く触れた狗巻先輩は、唯を覗き込む。
「………っ?!」
掠れた低い男性の声に、唯の意識は一瞬でそちらに向かう。振り返り見るとすぐ隣にある狗巻先輩の顔。目が合ったが、愉しげに笑ういつもの揶揄いまじりの笑顔はない。
「ツナマヨ」
もう一度耳元で囁かれれば、唯はその静かな吐息に顔に熱が昇るのを感じた。
足の力が抜けてゆるゆるとその場に座り込む。真っ赤になる顔を隠して耳を抑える。
「唯の負けだな」
控えていた真希先輩が告げる。
「足に注目したのは良かったと思うぞ。スピードが追い付いてないけどな。唯は普段から棘の事よく見てる」
息を切らす唯に、余裕のある狗巻先輩。
普段から見ているのは正解だ。体格が似ている狗巻先輩の体術を盗みたくてよく見ていた。
…が、今はそれ所ではない。
鼓動が早いのはたぶん、身体を動かしたからだけではないだろう。
狗巻先輩はへたり込む唯の後ろで、ネッグウォーマーを掴んで鼻先まで顔を隠していた。唯を見る。
「最後のはセクハラだな、棘」
「何言ったかは聞こえんかったけど、女の子を揶揄うと嫌われるんだぞ」
真っ赤になってうずくまる唯に、パンダ先輩と真希先輩は呆れたように声を上げる。
「おかかぁ」
狗巻先輩は直立で、先輩たちに向けて不満そうに抗議する。
しゃがんで唯の顔を覗き込んだ。
「こんぶ?」
目線を合わせて首を傾げる狗巻先輩。
大丈夫か尋ねられているんだと思うけれど。大丈夫な訳もなく、その顔に声も出ない唯は真っ赤な顔を隠すように目を逸らす。
そんな唯の耳元にまた、狗巻先輩は近付く。耳元を隠すように抑えた唯の手を握って外し、向こうに居る先輩たちには聞こえないくらいに小さく囁いた。
「高菜」
恥ずかしくて頭が真っ白で。目尻には微かに涙が浮かぶ。
「……か、揶揄わないで、ください…」
その目線に耐え切れずにいると、狗巻先輩は唯の頭に手を伸ばした。ぽんぽんっと軽く唯の頭を叩く。
「ツナマヨ」
真っ赤な顔を上げると、目が合った先輩は唯を見て笑った。頑張ったね、と目元が細くなる。
「…狗巻先輩…?」
「ツナツナ、明太子。しゃけ」
ジェスチャー交じりに笑う先輩は、先までの事を気にする風もなく普通に体術を褒めてくれた。
以前よりはスピードも上がってはいるそうで。判断は割と早いから、成長はしている、と。
そのいつも通りの言葉にホッとして、唯も明るく笑顔を咲かせる。
狗巻先輩はしゃがんでいた腰を上げて立ち上がる。唯に手を差し出した。
「いくら」
思わず手を出すが、ふと我に返って僅かに逡巡しその手を止める。今更だけど、体術のそれとは違う狗巻先輩の掌。また鼓動が脈打って、顔が熱くなる。
固まる唯には構わず、狗巻先輩はその手をとった。大きな男性の掌に包み込まれる唯の小さな手。
狗巻先輩が片手に力を入れて、唯を引っ張り上げると、
「……っ、あっ」
お互いのタイミングが合わずにバランスを崩した唯の腰を、空いていた片方の手で狗巻先輩が支えて受け止める。
「………っっ?!」
心臓が煩く鳴る。
ドキドキとその心音が伝わるくらいのその距離に、気付いた唯は慌てふためくが、動くことも出来ず。
「こんぶ」
「……っだ、だ大丈夫です」
唯は身体を立て直して一歩引く。腰にあった手はすぐに離れて行ったが、繋がれた手は離されずそのままで、唯を引きずるように真希先輩たちのいる壁際に向かって歩き出す。
「…狗巻先輩?……??」
「棘、その辺にしとけよ」
「おかかー」
唯困ってるぞ、と真希先輩に言われたが、狗巻先輩が見たのは唯の同級生である1年生がいる方だった。
虎杖くんと伏黒くんの目線が狗巻先輩に行く。きょとんとする虎杖くん。伏黒くんはやや面倒そうに、すぐに目線を外した。野薔薇ちゃんも2人を見ている。
唯はそのまま手を引かれ、2年生のいる壁際まで来る。ようやく解かれた手。その温もりにまだドキドキと心臓を鳴らしながら、狗巻先輩の隣に収まる。
特別何をする訳でもないが、そこに2人で座って道場を見た。真希先輩の指示で次はパンダ先輩と伏黒くんが組むらしい。
あまり思考回路が働かず、ぼんやりと組手を眺めながらその原因をちらりと盗み見れば。
視線に気付いたのか、狗巻先輩も唯を見た。先輩は唯に、軽く笑いかける。
そっとネッグウォーマーをずらして、呪印の見える口元をゆっくりと動かした。
“ す き ”
笑って人差し指を口元に立てる狗巻先輩に。
唯はまた、頬を染める。
End***