「おはよう」温かい感触が頬に触れた気がして。気持ちがいいような、少しくすぐったいような。
唯は閉じていた重い瞼を開く。
最初に目に入ったのは、見覚えのある柔らかなTシャツとズボン。少し硬いけれど人の温もりだとわかる足の感触が頭にあって。ふわりと香る、大好きな狗巻先輩の匂い。
「つーなー?」
呼び掛けられて、急に意識がハッキリとした。唯は大好きな彼の膝枕で目が覚める。その頬には唯よりもひと回り程大きな掌が、包み込むように触れていた。
「…………っっ?!」
驚いて宙を仰ぎ見れば、俯いて唯を見る狗巻先輩と目があった。紫の瞳が唯を見る。
目を閉じるだけ、と思っていたけれど、うっかり眠ってしまった。
ーーどの位、眠っていたのだろう。
授業に実技に、2年生との合同の夕練に。疲れて帰宅したはずなのに、昨夜はあまり眠れなくて。
うつらうつらと船を漕ぐ唯に、隣に居た先輩は笑っていた。任務も学校もない、静かな土曜の午後だった。
冷静になった頭に、現実が目に入る。唯は急に顔に熱が上るのが分かった。
「…ぁ、う、えっと…。その。あの…すみませ…ん…」
しどろもどろの唯に狗巻先輩は声もなく笑った。普段は隠れている呪印のある口元は、楽し気に唯を見て弧を描く。
ゆっくりとその口が開いて、唯に声をかけた。
“ お は よ ”
音の乗らない先輩の声が、聞こえた気がした。
「……ぉ…、おはよう、ございます…」
吸い込まれそうなくらいの深い色の瞳で、こんな風に大好きな人に笑顔を向けられれば。それだけで更に顔が赤くなるのがわかる。
顔を隠すように、唯はゆるゆると身体を起こした。ベッドにもたれ掛かり、足を投げ出してラグに座る狗巻先輩。
床に手を付いて唯は上半身を持ち上げながら、まだ眠い目を擦った。頬にあった先輩の手は足元に落ちて行く。唯は先輩の隣に向き合う形で座り込んだ。
顔を上げて部屋の時計を確認すると、最後に見た時の長針よりも半分くらい進んでいた。
「…すみません。爆睡かましてしまいました」
先輩は少し不思議そうに首を傾げる。
「すじこ?」
「起こしてくれれば良かったのに…」
言ってみたけれど、狗巻先輩はたぶん起こしもしないし退かしもしないだろう事は何となく知っていた。そう言う人だから。
長い時間を拘束してしまったみたいで申し訳ない。ついでに頭はスイカ一個分の重さがあると聞く。
「おかか」
狗巻先輩は笑って首を振って見せる。
そんな起こしてくれなかった先輩を見れば。不意にその両手が唯の顔に伸びる。
「いくらっ」
唯の両頬を捉えて捏ねるようにぎゅっと潰されて。唯の変顔に、悪戯に笑う。
「…なにするんですか」
「すじこ!いくらー!ツナマヨ」
ムッとして返す唯に、先輩はいくつかおにぎりの具を並べた。軽く笑って謝罪されるけれど、その手はまだ離れない。ただ、少しだけ力が抜けて、狗巻先輩の口がまたゆっくりと動く。
“ か わ い い ”
一旦区切って唯を見る。
目が合って、ニヤリと笑う。
“ ね が お ”
唯はまた、赤くなる。
寝顔を見られた事はあるけれど。そんな事を言われるとやっぱり恥ずかしくて。
「おかかっ」
狗巻先輩は、語彙が少ない分たくさんの好きを唯にくれる。たくさんの思いを、色んなおにぎりの具に乗せて。
「…だから起こさなかった、と?」
「しゃけー」
触れたままの頬は熱いくらいに熱を帯びる。顔を掴むように囚われて。近付くその顔はゆっくりと唯の唇を奪う。舌先でノックするように唇を舐められ、くすぐったくて思わず小さく声が漏れた。
真っ赤になって視線を逸らせば、先輩は唯の目の前で愉しげに笑う。
触れていた頬の手は緩んで唯の頭の後ろに回り。もう一度塞がれた唇は僅かに開いた唯の口内に舌先を捩じ込む。瞳を閉じて、唯もそれに応えた。漏れる吐息に、絡め取られるぬるりとした舌先の感触。僅かに聞こえる息遣いに、心臓が煩く鳴った。
「……ん、っ」
唯が苦し気に狗巻先輩のTシャツをぎゅっと掴むと、ゆっくりとその唇は離れて行った。物言いた気に僅かに目を細めて唯を見る。
肩で息をしながら唯は先輩の胸元に顔を埋めた。
「…狗巻、先輩…」
静かな部屋に。ドキドキと、聞こえるのは誰の鼓動だろう。
「おかか」
「…………?」
「…こんぶ」
唯の頭をひと撫でした先輩の掌は、やっぱり温かい。けれどその顔は、口をへの字に曲げて、わざとらしく頬を膨らませた。
「おかかー。明太子」
否定される言葉とは反対に、先輩の手は唯の身体の線をなぞるように唯の背に回る。ぞわりと、背中にくすぐったくて甘い感覚が走った。
「…狗巻…、先輩?」
その手は唯の脇に回り、軽々と持ち上げられて身体を引き寄せる。狗巻先輩の膝の上。
先輩よりもひと回り小さい唯の身体は、温かなその場所に座れば、ほんの少しだけ先輩よりも目線が高くなる。
密着した身体にドキドキしながら目線を下げる。見上げるように顔を上げた狗巻先輩。
「おかか」
腰に回された腕に、思わず身体が反応する。
「…狗巻…先輩?」
「おかかー」
言いながら微かに笑い唯を見る。ここまで来れば意を汲む事は出来るけれど。
狗巻先輩はじっと唯を見上げた。吸い込まれそうなくらいの綺麗なアメジストに、反射する唯の顔。
ゆっくりとその瞳が近付いて、唯の唇が触れそうなくらいのその距離で止まる。
「…ツナ?」
掠れた小さな声で呟く。甘い吐息が唯の顔に掛かる。ドキドキと煩く響く心臓。
「ツナツナ?」
もう一度、その距離で呟く。拘束されている訳でもないのに、逃げ場もなく。視線すら逸らす事が出来ない距離。
「……と…げ…、先輩…?」
小さく呟くと、彼はもっとと瞳を揺らす。
「ツナ?」
「……棘先輩…」
真っ赤になって呟けば。
先輩は嬉しそうに、愛おしそうに唯を見て笑っていた。
“ ”
口元が動いて、空気が揺れる。
唯も上手く聞き取れずに首を傾げるが。
先輩は気にする事もなく顔を近付けて、唇が重なる。喰むように唇を啄み、すぐに離れて行った。
狗巻先輩が、唯の首元に顔を埋める。音を立てて首筋に軽く吸い付くと、そのままぎゅっと唯を抱きしめた。静かに瞳を閉じる。
首元の素肌に触れる、狗巻先輩の髪がくすぐったい。
「こんぶ?」
と、顔を持ち上げて。
熱を帯びた視線が唯を見上げて刺す。
問われたのはたぶん、唯に気遣った先輩の優しさ。
唯は狗巻先輩の首に絡み付くように手を回して、ぎこちなく唇に触れるだけのキスをして応えた。
「…棘先輩、」
そんな顔を見れば、元より断る選択肢はない。
ドキドキと胸が大きく鳴りっぱなしだ。
「…大好きです」
たぶん、一言じゃないたくさんの想いを乗せて。先輩が笑ってくれて。
「ツナマヨ」
膝元に、心地良い彼女の温もりがあった。
ベッドを背にして床のラグに腰を下ろし、足を投げ出して座る。もう唯が寝入ってしばらく経つ。手にしていたスマホを閉じて床に置いた。
見慣れたいつもの部屋。窓から入る柔らかい休日の午後の日差し。
覗き込めば、後輩の彼女は少し俯き加減でこちらに顔を向け、棘の膝を枕に瞳を閉じていた。規則的に上下する肩、膝に掛かる唯の髪が微かに揺れている。
そっと手を伸ばして触れてみれば、温かくて柔らかい頬。指を髪に絡めて持ち上げてみれば、閉じた瞳に長い睫毛の影。
無防備に眠る彼女に、目を細める。
ゆっくりと、静かに顔を落として。
その柔らかな頬に口を付けた。
End***