側にいるだけ陽が沈んで、夕方のオレンジは夜の闇に呑まれていった。ひとつ、ふたつと星が輝き出す。
珍しく何もない日曜日だった。
昼食の後に、唯がお出掛けしたいと狗巻先輩を誘って、何とはなしに電車に乗って出掛けた。特に用事がある訳でもないけれど。服や雑貨を見て買い物をしたり、お茶をしたり、よくある普通のデートを楽しんだ。
握り締めた紙袋には、桜色のワンピース。迷っていた唯に、狗巻先輩が選んでくれたものだった。
電車を降りたのは高専に近い小さな最寄り駅。
段差で振り向く狗巻先輩は、お洒落な私服に黒のマスクで口元を隠している。街中を歩く時、振り返る女性が居た事をたぶん唯だけが知っていた。
ツナ、と唯を見て伸ばされた先輩の手。躊躇いがちにその手を取れば、包み込むように握られた狗巻先輩の手はやっぱり温かい。
ほんの少し会話をしながら2人で並んで歩く。東京だと言うのに人通りも車の通行も少ない道だった。街灯がぽつりぽつりと夜道を照らす。
後1つ信号を越えて、角を曲がって山道を登れば高専が見える。
明日は朝一から任務が入ったと、電車に乗る前に唯のスマホに連絡が来た。授業に任務に実技の実地訓練。朝練や昼練、夕練も少なくはない、普通とは少し違う生活。
先輩と過ごす休日も、後少しで終わってしまう。
来週もまた、2人きりで過ごせる保証はどこにもない。
唯は静かに立ち止まった。それに気付いた狗巻先輩も、踏み出した一歩を止める。
「ツナ」
唯は立ち止まったまま、先輩の手をぎゅっと握った。
「こんぶ?」
狗巻先輩は動かない唯を振り返り、心配そうに顔を覗く。
「ツナツナ?」
唯はそのまま静かに俯いた。
「…帰りたく、ない…です…」
高専に戻ったら、楽しい時間はもう終わり。
明日の朝一で唯に任務が入った事も、狗巻先輩は知っていた。このまま食堂で夕飯を一緒に食べて、おやすみと告げて。きっと、いつもより早めにそれぞれの部屋に戻る。
そして明日からはまた、いつもの忙しい日常。
ーー次はいつ、こんなにゆっくりと時間が取れるんだろう。
俯いた目元が微かに滲む。
狗巻先輩は唯の言葉に僅かに目を見開く。
「高菜」
小さく返す声が聞こえた。
「おかか」
言って頭にぽんと置かれた、狗巻先輩の掌。幼い子どもをあやすように、ぽんぽんと撫でて触れる。
こんなのはただのわがままだと、唯にもわかっていた。言った所で明日の任務も何も変わらない。
先輩は優しいから、そんな唯に「しゃけ」とは言わない事も知っている。
困らせたい訳ではないけれど。
唯は握った手を解いて離した。
「なんちゃって。嘘です、嘘!先輩が困った所を見てみたかっただけです」
顔を上げて、狗巻先輩を見た。勤めて笑顔を向ける。
「お腹空いちゃいました。早く帰って、食堂行きましょう。今日は早く寝て、明日に備えますね」
見上げた狗巻先輩は、目を瞬かせて唯を見た。笑顔もなくただ困ったように、おかかと唯に告げた。
聞こえないフリをして、唯は1歩前に出る。こっそりと袖で涙を拭って歩き出した。
「先輩、何食べます?」と、適当に話題を変え、「お腹減ったし、私はガッツリ食べたいです」笑いながら、歩を進める。
そんな唯に、小さく漏らす溜息が聞こえた。
「おーかーか!」
瞬時にするりと伸びた狗巻先輩の腕は、唯の首筋を掠めて行く。髪を巻き込んで、背中からぎゅっと唯を抱き締めるように捕まえた。
「おかか」
肩口から覗き込まれた狗巻先輩の目は、少しだけムッとして不機嫌そうに唯を見た。振り返る唯の目尻に、先輩の親指が触れて。かさついた指先が、今にも溢れそうな滴をゆっくりとなぞって掬った。
「こんぶ」
その手は唯の髪に触れ、そっと優しく撫でていく。黒のマスク越しに、キスをするように唯の柔らかな頬に顔を寄せた。
「狗巻先輩…?」
マスク越しに感じる狗巻先輩の息に、ふわりと香る先輩の匂いに。ドキドキと胸が鳴る。
「あの…すみません。わがまま言って。本当に、大丈夫です」
言って目を逸らすけれど。
「いくら、明太子」
あと少し、もうちょっと。
目を細め、笑った狗巻先輩は唯の手をもう一度握る。指を差して引っ張ったのは、高専とは別方向の道だった。
「ツナツナ」
手を引かれて、本当にほんの僅か夜道をお散歩して。
夜空に星が満点に輝く頃にはコンビニに立ち寄り、また来た道を引き返して高専に戻る。
「ツナ」
狗巻先輩はコンビニでプリンを2つ手に取って唯に見せた。紫がかった瞳が、微かに笑う。
「ツナマヨ」
“ 後で一緒に食べよっか ”
End***