①とある良家の第一子として生まれたのがファルガーだった。女の子とは言え、やはり一番目に生まれた子供なだけあり、蝶よ花よと育てられた。ファルガーは家族に大切にされているということを自覚していた分、それを返せる人間になりたいと思っていた。自分は男ではないがいつの日かこの家を継ぎ、既に立派なこの家をさらに盛り立てるのだと意気込んで厳しい勉学や習い事に励んでいた。だがそれは、ファルガーが十歳を迎えると大きく変わった。
弟が生まれた。自分を産んでからいうもの母は具合を悪くしがちになり、男の子はもはや望めぬものという認識だった。だから皆、自分に期待を寄せていた。それがどうだ。母の十年ぶりの懐妊に父も召使いも大喜び。自分ももちろん嬉しかった。弟だろうか妹だろうかと母のお腹をさすりながらその日をずっと待っていた。
そしてその子は生まれた。見るもの全てを引き寄せるような美貌を持って。赤ん坊がこれほどまでに整った顔で生まれるものだろうか。またただ美しいだけでなく利発さも感じさせる顔立ちだった。それに加えて何もかもを見透かすかのような蜜色の瞳。ファルガーは瞬時に悟った。
この子はきっと、凄い子になる。自分など、足元に及ばないくらい。だがまだこの子は生まれたばかりだ。この子がある程度大きくなって、大きくなって…?自分はその時どうなってしまうのだろう。
父母や召使い達がその生まれたばかりの子に夢中になっているのを横目にファルガーは母の寝室を後にした。生まれる前までは自分もあんなに楽しみにしていたのに、いざ生まれてからは大きな不安感がファルガーを襲った。部屋に入ると鍵をかけ、枕に顔を押し込み声も出さずに静かに涙した。明日には祖父母や親族の者達も弟の誕生を祝いに屋敷にやって来る。目が腫れないことを祈り、ファルガーは深い眠りについた。
結論から言うと、ファルガーの予感は的中した。
ヴォックスと名付けられた弟は美貌だけでなく頭の良さやカリスマ性も兼ね揃えていたのである。五歳になる頃には勉学に関するあらゆる物事を理解していたし、その年齢にそぐわぬ落ち着き払った態度に召使い達も恐れを抱き、子供の世話をしているとは思えないと囁き合った。ファルガーは昔程勉学にも習い事にも打ち込まなくなったが、そのかわり元々好きであった読書の時間が大幅に増えることとなった。それと反比例するように今度はヴォックスの勉学と習い事の時間が増えていった。ヴォックスが成長するにつれほとんど姉弟での交流の時間はなかった。
ヴォックスが六歳になる頃、ファルガーは社交デビューをすることになった。所謂デビュタントだ。十六歳になったら行われるそれを、ファルガーはとても楽しみにしていた。
「母さんどうかな?私にこのドレス似合ってるか?」
純白のドレスと純白の長い手袋。そして同じく純白の靴。まるで物語のお姫様みたいで少し気恥ずかしい。
「その口調、気をつけて。少し男勝りに聞こえるから。そしてとっても似合ってるわ。あなたのシルバーの髪色が美しさをさらに引き立ててる。」
少し跳ねた髪を撫で付けた後、母は優しくファルガーを抱きしめた。男に生まれなかったのだからせめて男らしくあろうと思っていた幼少期の口調が未だ抜けない。今から自分は社交界にデビューしようと言うのに。
デビュタントの際には絶対気をつけよう。今はまだ、家だから許されたい。
そう思いながらファルガーも母を抱きしめ返す。母はこんなに細かっただろうか。いつのまにか母の背中を追い越してしまったからそう感じるのだろうか。ふと思い返せばここ六年程母と抱擁する回数が以前に比べて減っていたような気がする。どうしてだっけ。ファルガーはなんとなく疑問に思った。その時だった。コンコン。ドアがノックされる。
「どうぞ。」
召使いだろうと思いすぐにファルガーは返事をした。
「失礼する。」
ああヴォックスが生まれたからか。入ってきたその人物を見てファルガーは思った。父母はこの六年間、ヴォックスを立派に育てようと熱心だった。
「母上、もう馬車の準備ができていると。」
「あらそうなの、じゃあ最後の確認をしてくるわね。少しここで待ってて。」
そう言って母は部屋を出て行った。
「私も一緒に行く。」
と言う前に出て行かれ、ドアをただ見つめることしかできない。ヴォックスと二人きりになるのはなんとなく私には気まずいのだが、ヴォックスは今どんな顔をしているのだろうか。話を切り出そうにも何も浮かばない。どれほど時間が経ったのだろう。きっと一瞬だったのだろうが、ファルガーにとっては永遠とも思えるような沈黙をヴォックスが破った。
「姉さん、いや、ファルガー、こうやって話すのは久々だな。デビューおめでとう。」
初めて呼び捨てにされた。そして昔とは大きく変わってしまった口調。
「もう姉さんって呼んでくれないのか?」
驚きから思わず目を見開いてきいてしまう。
「一族の当主らしくあるべきだと父上に言われた。」
ヴォックスの返事にさらに目は見開いた。当主?まだ六歳の子供にそんな事を?ヴォックスが当主になるならば私は一体?突然のことにファルガーは黙り込んでしまった。いや薄々わかってはいた。別に当主の座が欲しかったのかと言われたらそうではない。だが、与えられていた期待がこうもあっさりと別の人に移ってしまうことに少し拍子抜けというか、ああ、この気持ちはなんというのだろう。
「そう、なんだ。」
姉弟なのに、ここ最近ヴォックスと交流を重ねていたとは言えない。食事の時もあまり顔を上げることはなかったし、そもそも食事中の会話は我が家では禁じられている。彼が三歳から四歳の時に「姉さん、絵本を読んで。」と可愛く強請られるため彼の部屋に潜り込み週に一回程読んでいたが、それももう二年も前の話だ。あの時のふわふわとした可愛さは目の前に立つ人物からは微塵も感じられない。それが寂しく感じた。また沈黙が訪れる。そしてそれをまた破るのもヴォックスであった。
「ファルガーは覚えているか?」
「何を?」
「二年前、お、私に言ったことだ。」
「俺って言ってもいい。ここには私しかいないから。」
昔読んであげた絵本に出てくる悪魔のキャラクターの一人称が俺で、彼は大層そのキャラクターを気に入り一人称が俺だったことがあった。基本的に私であるように教育されていたが、ある日思わず父の前で俺と言ってしまい怒られたという話を聞いたことがある。
「すまない、ファルガーの前ではやっぱりまだまだだな。」
「徐々にいろんなことに慣れればいい。あんまり無理はしないようにな。昔からそこは心配。ヴォックスは私の弟で、どんな時でも大切な存在だから。」
厳しい勉学や習い事から多少解放され、のうのうと暮らしているように見える自分から言われるのは癪かもしれない。でもファルガーは別にヴォックスを嫌っているわけでは決してなかった。むしろ父母を含め多くの人に愛されていたから、家族を想う気持ちは人一倍ある。ただ複雑な気持ちになるだけで。
「それだよ。姉さん。」
ヴォックスはファルガーの方に向き直り、しっかりと目を合わせた。呼び方も昔のものに戻っている。
「姉さんのその言葉が、俺にはとても嬉しかったんだ。今でこそそんなこともないけれど、やはり少し前までは父上や母上の期待が重荷に感じたしプレッシャーもあった。でもそんな時に姉さんがどんな俺でも大切だと言ったことが本当に嬉しかった。どんな俺でも愛してくれると言うことが。」
蜜色の瞳の奥で瞳孔が開く。吸い寄せられるかのようにファルガーは目を離せない。まるで悪魔に魅入られたかのようだ。
「姉さんには純白のドレスがシルバーの髪に似合うが、俺は赤色の方がもっと似合うと思うな。」
突然話題をドレスの話に変えられる。それと同時に蜜色の瞳から視線を外すことができた。
「赤色?何でまた。というか、少し前までって言ってもまだ六歳だろ?召使いの皆が『ヴォックス様は子供のように思えない。』とは言っていたけど、確かに子供とは思えない言葉選びだな。」
「父上が選んだ講師陣による教育の賜物と言ってくれないか?話を戻すが、赤色の方が姉さんの髪色がよく映える。純白は清楚感を醸し出すが、紅のドレスを着た姉さんはきっと、誰もが目を引く存在になる。」
純白だろうが漆黒だろうが濃紺だろうが紅だろうが何色を着用しようが目を引く存在にそれを言われても。ファルガーは曖昧に微笑んだ。
「まあ覚えておくよ。機会があれば赤いドレスを着ようかな。」
「赤い靴も履いてな。」
「私に永遠に踊り続けろって?」
「今から踊りに行くじゃないか。ちょうどいい、俺がお相手しよう。」
そう言ってヴォックスは手を差し出した。ファルガーの三分の二ほどしかない身長でそれをする彼が何だか可愛くておかしくて笑いながらファルガーは手を取った。ヴォックスのことは、嫌いではない。決して。大切な家族であり、たった一人の弟だ。ただ少し、家での自分の立ち位置や今後の事を考えると不安になってしまう。それだけだ。それをファルガーは自覚した。コンコンとドアがノックされる。ヴォックスはファルガーに腕を差し出したかったが、如何せん身長が足りない。仕方なく二人は手を繋ぎ部屋を出た。普段ヴォックスを子供として見ることのできない召使い達も、流石にこの時は彼を年相応に見ることができた。
馬車に乗り込み、会場へと向かう。とっぷり日は暮れていて満月が輝いていた。粛々と馬は歩を進めていたが、突然声高く嘶き馬車は急停止した。
「何事だ?」
窓から外を見ると真っ黒の服を着た男が数人馬車を取り囲んでいる。近頃深夜に金目のものを盗む輩がいるとは聞いていたが、まさか人目につきやすい満月の日に現れるとは。御者は完全に慌てふためき、震えてばかりで返事をする様子がない。ファルガーは仕方なく自身で対応することにした。窓を少し開け、一番近くにいた一人に声をかける。その人物は輩達の中では一際身長の高い男だった。
「何用だ?金目のものは今何もない。解放してくれ。」
「あんた、いいところのお嬢ちゃんだろ?馬車やその格好を見ればわかる。あんた自身が金目のものさ。」
「身代金か?あまり期待しない方がいい。家族の中で今、私の優先順位は一番じゃない。」
「一番じゃなくても出してはくれるだろ。馬車から降りろ。」
埒が明きそうになかった。馬車のドアを開けられ、手は引っ張られ、無理やり馬車から降ろされる。派手な音を立ててドアは閉められた。
「手を離してくれ。お前のその手でせっかくの手袋が汚れたらどうするんだ。」
「叫んだりしないんだな。まあこちらとしては好都合だが。仲間から合図があり次第お前を袋に入れて運ぶ。それまでおとなしく待ってろ。」
「叫んでお前達に逆上されても困る。それに、」
叫ばないだけで怖くないわけではない。口をついて出そうになったところをグッと堪えた。せっかくのデビュタントだったのに。どうなってしまうかわからないが、思い描いていたような一日を迎えられそうにないことは確かだ。満月を見上げそれから背高に目線を移した後、目を瞑った。すると前方のさほど距離のないところから馬の嘶きが聞こえた。
「まさか他の人にも同じような事を?」
「当たり前だろ。だから合図だ。一斉に動き出さないとバレるリスクが高まる。いやしかしこんなあっさり御令嬢が見つかるとは。ノックスの言っていたことは正しかったな。なあ?」
隣の少し横にガタイのいい輩に背高の輩は話しかける。ノックスとは彼らの仲間の名前だろうか。
「ノックスは『明日はデビュタントが開催されるから夜中に多くの令嬢達の馬車が行き交う。目撃される可能性も増える上に満月だからやめた方がいい。』と言ってなかったか?」
「でも実際うまくいってるだろ?この女はまだこんな狭い表通りに出る前の道で抑えてるわけだし、まあ合わせて五人くらい回収できたらお釣りが来るな。ああ、お釣りじゃなくて、身代金か!」
汚い声で輩達はガハハと笑う。何一つ面白くない。自分はともかく、他の人にも危害が及ぶのは嫌だった。だってこの日の為に自身が、家族が、召使いが、どれだけ皆が力を注いできたか分かっていたからだ。お釣りではなく確実性を取って、私だけにしろ。そう言おうと思った時、再び先程の馬の嘶きが聞こえた。そして御者だったのであろう男の「皆!逃げてくれ!」と言う声も。二頭分の馬の蹄の音が近づいてくる。何があったんだろうか?
「おい、何事だ!」
背高でもガタイがいいがわけでもない輩がどこかの屋根に向かって叫んだ。仲間が周囲を見張っているのだろう。
「何かシクったみたいだ!馬が二頭とも興奮して突然走り出した!あんた達の馬車前方からだ!逃げろ!」
輩達は散開し、ファルガーの御者の男も弾かれたように走り出した。ファルガーも走り出そうとしたが、ドレスが馬車のドアに挟まっていた。ドアを開けようとしたが、取っ手の部分が壊れている。背高が勢いよく閉めたからに違いない。頼む、頼む、開いてくれ。全身の力を振り絞っても開きそうにない。それかドレスを破ってでも走れないだろうか?勢いよくドレスを引っ張ってみるも、全く破れそうにない。こうしている間にも馬は近づいてくる。汗も止まらなくなる。
ああ、どうして、何故、こんなことに。
ファルガーは馬が走ってくる方向を見据えた。ふと、何故か部屋で言われたヴォックスの言葉を思い出した。『俺は赤色の方がもっと似合うと思うな。』それが例え美しく纏うためのドレスではなく、自身に流れる血だとしても?ファルガーは静かに目を閉じた。直後に激しい痛みが襲いかかり、意識は彼方へ飛んでいった。
長い長い時間が経ったように思える。遠くから誰かの泣き声が聞こえる。ああ泣かないで。私ができることならなんでもするから、どうか泣き止んで。泣き声の方へ手を伸ばして、そこでやっと目が覚める。灯が眩しい。ここは自室のベッドの上か。視界に入ったのは父母とヴォックスと、白い髭の男性。この人は確か父専属の医師だったような。父が「目が覚めたのか。」と言い、母はその場で崩れ落ち、視界から消えていった。ぼんやりとした意識が徐々にはっきりしていくと同時にファルガーは気がついた。先程の伸ばしたと思った手はもうどこにもなかった。そして手だけではなく足も。今私はどうなってる?瞬きを何度も繰り返し状況を把握しようとした。その時白い髭の医師が口を開いた。
「名前は言えますか?」
困惑しながらも答える。
「ファルガー。羊をモチーフにした紋章を持つ、ラム一族のファルガー。」
「そうです。ファルガー、どうしてこうなったか覚えていますか?」
「デビュタントに行こうとして、輩に襲われた。それから馬が暴走して、」
「ありがとう。そこまでで結構です。脳に大きな異常はないようですね。不幸中の幸いと言えます。」
「先生、私、」
「順を追って説明しますから、落ち着いて。息を吸って。吐いて。そうそう、良いですよ。」
身体に違和感しかない。これからどうなってしまうのか?大量の汗が背中を伝う。
医師はベットの隣においてある椅子に座り、話し始めた。
「馬があなたを踏みつけた後、近所の住民が何事かと外に出たところあなたを見つけました。あなたの四肢は馬による外傷が酷く、切断以外の方法がありませんでした。お父様やお母様にも念のため相談したところそれしか道がないのならと。手術は無事成功し、今のところ術後の経過も良好と思われます。義手や義足はあなたのお父様がご用意してくださるとこのことです。そしてこれから時折幻肢痛による激しい痛みが起こると思いますが、あなたのために私も全力を尽くすと約束します。どうか一緒に頑張って頂けませんか?」
一度にたくさんの情報を浴びてファルガーの頭は真っ白になった。切断しか方法がなかった?いや死ぬよりは確かにマシかもしれないが。義手義足?もうそんな話まで出ているのか。幻肢痛って何だ?激しい痛み?わからない。怖い。怖い。怖い。怖い。恐怖に挫けそうになる。医師以外に視線を移すも、父は目を瞑り母は先程の状態のままだ。だがヴォックスと目が合った。今にも涙ぐみそうな目だ。口は真一文字に結んでいる。先程の泣き声はヴォックスだったのだろうか?泣かないでほしい。いやまだヴォックスは泣いてはいないのだが。たった一人の弟の悲しい顔は見たくない。どんなに大人びて見えようとも、彼はまだ六歳なのだ。
「頑張ります。私。」
先生の目をまっすぐ見つめてそう言う。父は目を開き、母はよろよろと立ち上がり、そしてヴォックスは息を呑んだ。命があっただけマシだ。やれることはやろう。家族の為に。そう思うしかなかった。医師はうなずくと言葉を続けた。
「わかりました。そう言ってくださりとても嬉しいです。ぜひ一緒に頑張りましょう。ああそうだ、義手や義足についてなのですが、サイズや諸々はまたきちんと測ったり細かく決めましょう。技師の方に連絡も取ります。色は銀色ですが、問題ないですね?」
「色を変えることができるのか?」
「できないことはないですが、まあ聞いたことはないですね。そもそも多くの人がつけているものではありませんし。」
「赤、赤色にしてくれ。」
「え?」
「赤色がいいんだ。赤色にしてくれ。」
ファルガーは力強くそう言った。父と母と医師は互いに目を合わせて困惑する。だがヴォックスだけは違った。今度は大きく口を開けて息を吸い込む。ファルガーはヴォックスと目を合わせてもう一度言った。
「赤色がいい。私に似合う色だから。」
ヴォックスはベットの上に飛び乗る勢いでファルガーに抱きついた。ファルガーには彼を抱きしめ返す腕はもうなかったが、その代わりにヴォックスの頭に頬を擦り寄せた。ヴォックスのふわふわとした髪の毛はとても心地が良かった。