②義手義足を赤色にすると決めてからそれはもう大変だった。意識が覚醒したことにより昼夜問わず酷い幻肢痛がファルガーを襲ったからだ。あまりの痛さに声も出ず大量の脂汗が流れるばかり。鎮痛剤もほぼ無意味に等しかった。昼間は召使いが汗を拭いてくれるから良かったものの、夜は誰もいない一人きりの部屋で痛みに堪える日々だった。上着だけですっかり自分の体が覆われてしまうことに、違和感を覚える暇もなかった。
痛みに苦しんでいるうちに一ヶ月があっという間に過ぎていった。その一ヶ月の間で例の輩達は捕まり、アジトとなっている場所も見つかった。警察に引っ張られていったらしいが詳しいことはよく知らない。だがこの一ヶ月で家族は比較的今まで通りの生活に戻っていた。父は当主としての仕事、母はより一層ヴォックスの教育に力を入れ、ヴォックスは勉学その他に励んでいた。痛みに苦しむ自分にずっと付き添ってくれとは言わない。ただ、家族は一ヶ月で変化を受け入れ、普段の生活に戻れるものなんだとぼんやり思った。そしてまた痛みがファルガーを襲う。夜は孤独をより一層感じさせた。
痛い。痛い。苦しい。誰か助けて。一人にしないで。お願いだから。私の、そばに、いて。
目から涙が零れ落ちる。もしかしたら、あのまま死んでいた方が良かったのかも知れない。微かにそんなことを思ってしまう。それ程の痛みだった。誰かに助けを求めたいが、誰に助けを求めたら良いのかわからない。ベッドの上でモゾモゾと動きながら朝が来るのをひたすら待つ。早く夜が明けて欲しい。夜はあの日のことを思い出してしまう。今日はあの日と同じく満月だから余計に。月の光が怖い。誰か。誰かそばにいて。
涙がさらに溢れ痛みに意識が朦朧としてきた時、カチャリと自室のドアが開く音がした。入ってきた人物はファルガーのベットの隣にある椅子に座る。ヴォックスだった。
「ぁ、ヴォックス…?」
「姉さん、気分はどうだ?ここ最近会えてなくてすまなかった。」
濡れたタオルを片手に持った寝巻き姿のヴォックスは、静かにそう告げファルガーの顔や首元の汗を拭き取っていく。そんなことしなくて良いと言いたかったが、ひんやりとしたタオルはとても心地良く伝えることができない。拭き取りながら再びヴォックスが口を開く。
「何かして欲しいことはあるか?俺ができることならなんでもする。」
何もしなくて良い。私のことなんて気にせず早くベッドに入って寝ろ。
姉としてそう言いたかった。そう言うつもりだった。だが長い長い地獄のような痛みによって意識があやふやな中突然ヴォックスが現れたものだから、つい本当の気持ちを溢してしまう。
「そばにいて…。一人に…しないで…。」
ヴォックスは目を見開きファルガーを見つめる。
「寂しい…。」
美しく才能ある十個年下の弟にそれを言うのは滑稽だろうか。まだたった六歳の弟に縋りつきたくなるのは愚かだろうか。だが彼は私の元に来てくれた。私が助けを呼ばなくても、来てくれたのだ。嬉しい。すごく、すごく、嬉しい。私を一番に思ってくれてるみたいだ。そんなわけないのに。
ファルガーはそんなことを考えながら、意識を手放した。
ヴォックスは暫し固まった後、ファルガーの涙を拭き取った。初めてだった。ファルガーのそのような弱音を聞くのは。普通のきょうだいのように常に共に行動して育ったわけではないが、ファルガーは見ている限りいつも誰にでも優しく、時に細かくその人の良いところを列挙して励まし、そしてあまり人を頼らず、弱音を滅多に吐かない人だった。どんなヴォックスでも大切な存在だ。そう言って抱きしめてくれたことを昨日のことのように覚えている。そんなファルガーが「そばにいて」「一人にしないで」「寂しい」だなんて。優しく気高い十個上の姉のこんな姿が見られるなんて、なんと幸運なことだろう。まだ十六歳なのに両手足を失っても家族の為気丈に振舞っていた姉の弱っている姿は、なんと可愛らしいことか。ああ、来てよかった。こっそりと部屋を出てきた甲斐があった。きっとファルガーのこんな言葉を聞いたのは自分だけに違いない。嬉しい。とても、とても嬉しい。自分を頼ってくれている。
光り輝くキラキラとしたものとは程遠い、黒いドロドロとした気持ちが広がっていく。この時、ヴォックスの中でファルガーは姉という年功序列で言えば尊敬するべき存在から、庇護の対象へと変わった。
「どんな時でも俺がいる。姉さんを、ファルガーを、一人になんて絶対しない。ファルガー、愛しているよ。」
そう言ってヴォックスは静かにファルガーのおでこにキスをした。満月の光はヴォックスの瞳の色のように輝いていた。
それから一年が経った。まず、ファルガーは表舞台に出ることはしなかった。事故からある程度経ちオーダーメイドされた義手義足を使用する事によって全く問題なく文字を書いたり走ったりできるようになったが、好奇の目には晒されるであろうと考えたこと、後悔はしていないが自ら目立つ赤色を選択したこと、そして何より、一族の当主になるのはヴォックスだから自分がわざわざ表舞台に出る必要性はないだろうと判断したからだった。家族は「いつかする結婚のためにそんな事をするべきではない」と大反対したが、ファルガーの「こんな両手足のない女を、一体どんな人が欲しがるって言うんだ?」という一言によって何も言い返すことができなかった。またそれだけでなく外出することもほとんどしなくなった。上記の理由に加えて義手義足が外出中に万が一壊れた場合、自身も困るし周囲が騒ぎ出すのは目に見えているからだ。基本的に屋敷内と屋敷の大きな書斎と大きな庭のみがファルガーの訪れる場所となった。ヴォックスは相変わらず勉学その他に追われていた。
ファルガーが屋敷の外に出ないと決めてから二年は滞りなく過ぎた。変わらず本をたくさん読んだり、誰に見せるわけでもなくノートに小説を書いたりした。ヴォックスが父に強くねだったことで大きな犬を飼うようになり、庭でその犬と戯れあった。本当に稀に、ヴォックスもそこに混じって二人と一匹でボール遊びをした。慎ましく、穏やかな日々。今ある幸せが目一杯詰め込まれたような時が流れていった。
だが事故から四年目、ファルガーが二十歳、ヴォックスが十歳の時に状況が大きく変わる出来事が起きた。父が突然亡くなったのだ。朝、同じベットで眠る母が朝の準備を終えても起きない父を不審に思い、起こそうとしたところ息をしていなかった。屋敷に常に滞在している主治医を呼んだが、もはや手遅れ。前日の夕方に一緒に食事を取り「おやすみなさい」と夜に挨拶したのが父との最後のやり取りになるとは。ファルガーはもちろん、ヴォックスも流石に動揺を隠しきれなかった。そして一番動揺し、衝撃を隠せず、精神が壊れてしまったのは母だった。母は父の亡骸に抱きつき散々泣いた後、ファルガーを睨みつけて言った。
「あなたが悪いのよ。」
「え、?」
母を見守るように後ろで立っていたファルガーは、突然の母からの糾弾に困惑した。
「あなたを産んでから碌なことが起きてない!あなたが男の子じゃなくておばあ様やおじい様に責められたことも、あなたを産んでから私が体調を崩して十年間子供を授かれなかったのも、あなたが事故で手足を失って結婚という義務を果たさないことも、それによって他の家との繋がりを持てないのも、お父さんが死んだのも!あなたが!あなたが悪いのよ!」
涙でグシャグシャな顔で母はそう言った。
母の言ってることはファルガーの責任ではないことばかりで、ヴォックスは聞くに耐えないと思ったがファルガーはそう思わなかった。
ずっとそう思っていたのか。違う、父が死んだことが完全に引き金になっただけで、いや引き金になったとしたらやっぱりずっと私のことが憎かったのか?わからない。ああでもヴォックスが産まれてから母はヴォックスに付きっきりだった。腕も足もをなくして一番辛かった時もあまり私の元に来てくれずヴォックスを優先していた。寂しかったけど仕方ないって。だって私と違ってヴォックスはよくできた子で。ああ。何故もっと早く気づかなかったんだろう。いや気づかないふりをしていただけか。
私さえいなければ良かったんだ。
一度自分でそれを認めるともう止まることはできなかった。自分は何故平気な顔をしてこの家にいたのだろう。恥ずかしくてたまらない。どうして母は今まで文句を言わず自分を育ててくれたんだろう。感謝と申し訳なさでいっぱいになる。ヴォックスも本心では私を邪魔に思ってるに違いない。十も年が離れているのに威厳も何もない姉の存在など、目障りだっただろう。父がどのように自分のことを考えていたかはもう知ることができないが、自分がいてもいなくてもきっと大きな違いはなかったはずだ。
ファルガーはそう考えるとベッドに眠る父をチラリと見た後、母に目をあわせ言った。
「今までごめんなさい。」
ファルガーの頬に涙がこぼれ落ちる。ファルガーのその時の笑顔と言ったら、ゾッとするほどの美しさだった。ヴォックスは姉の予想外の言葉とその艶やかさに声も出なかった。母も同じだった。ファルガーはそのまま振り返らず、部屋を出ていった。誰もその場から動けず、しかし目だけはしっかりとファルガーを追った。扉を閉じた音が部屋に響くと同時に、ヴォックスは飛び出すようにファルガーを追いかけた。
「ファルガー!」
ヴォックスは大声で姉に呼びかける。
「来ないでくれ!」
ファルガーはこちらを見向きもせず足速に部屋へと向かう。自室に入ると同時にドアを閉めようとしたが、ヴォックスがすかさず足を挟んだ。
「足を退けてくれないか?ドアが閉められない。」
優しいファルガーはヴォックスの足を気遣ってか、ドアノブを握りつつもそれ以上強く引っ張ることはしない。
「退けるから俺を入れてくれ。」
「一人にしてくれ!」
「一人にするなと言ったのはファルガー、お前だ!」
弟の初めてのお前呼びに驚き思わず力が抜ける。その隙にヴォックスは勢いよくドアを開けて部屋に入り、ファルガーは思わず後ずさった。だがヴォックスは距離を詰め、静かに姉の両手を握る。その色にするとファルガーが決めた、赤色の腕。ひんやりとしていて気持ちがいい。握り返されることはなかったが、邪険にはされなかった。視線が交わることもなかった。いくらかしてファルガーが口を開いた。
「…何年も前に一回しか言ったことないだろ。」
「俺はずっと覚えている。ファルガーが唯一俺を頼ってくれた瞬間だったから。」
「そんな言い方やめてくれ。まるで嬉しかったみたいな言い方じゃないか。」
「そうだ。嬉しかった。俺だけが特別に選ばれたみたいな、そんな気分になれた。」
「お前はいつだって特別だろ。母さんもみんなもそう思ってる。」
「そんなことはない。それと、さっきの母上の発言は気にしなくていい。」
「気にしないわけないだろ!あれはきっと母さんがずっと思ってたことなんだ。私が、私がいなければ…。」
ファルガーは、優しい。優しいから、相手をよく褒める。優しいから、相手ではなく自分を責める。優しいから、自分より相手を優先する。今だってヴォックスが手を握りやすいよう、少し前屈みになっている。ファルガーはどこか自己犠牲的で、それが魅力でもあり不安要素でもあった。
ヴォックスが改めてギュッと手を握った時、
「あの時あのまま、死んでいたら良かったな。」
とポツリとファルガーは呟いた。
愛しいけど複雑な気持ちになる弟。高いカリスマ性と賢い頭脳と落ち着き払った態度。皆が彼に視線を奪われるのも無理はない。だが、自分はまるでいなかったかのような、そんな扱いをされるのが辛かった。誰か見て!と言うのも変だし、弟を愛していないわけではないし、でも心はどんどんすり減っていくし。弟に対してこんな綺麗じゃない感情を抱くのが嫌だった。私はどんなヴォックスでも大切だが、周りにとっては私はそうではなかった。それだけだ。もうこの問答を自分の中で何度繰り返したことだろう。何度も何度も提示しては何度も何度も抑え込んできた。だけど、ああやっぱり、あの時。事故の後遺症で苦しくてたまらなかった時にヴォックスが会いに来てくれたあの時。本当に嬉しかった。自分に会いに来てくれる人がいることが。一人じゃないと思わせてくれたことが。ヴォックスにとって自分は大切な人だと一瞬でも思わせてくれたことが。母にとって自分は邪魔でしかないのだとわかったのなら、どうせいらない存在ならば、あの幸せが絶頂の時に死んでしまいたかった。
そんな思いが思わず口から出た。
口に出してから幼い弟の前でなんてことを言ってしまったのかと焦り、ヴォックスを見ると呆然としていた。気まずくなって手を振り払い、とにかく一人になりたくて部屋を出ようとすると、ヴォックスがファルガーに向かって体当たりをした。
どうすればファルガーを止められるのかわからなかったヴォックスは、ファルガーに体当たりして押し倒した。それから右足の接合部を触って右の義足を取り外す。ヴォックスが何度も何度もファルガーにお願いして着脱方法を教えてもらっていたのだ。
「おい!返せ!」
ファルガーの言葉を無視し、取り外した義足をそのまま部屋の隅に向かって投げた後、ファルガーに馬乗りになる。投げられた義足のガシャンと重たい音が響いた。壊れていないといいが。ファルガーをこのまま部屋から出したらもう二度と帰ってこないような、そんな恐怖から思わず行動に移した。どうすればファルガーを繋ぎ止めることができるだろう。どうすればファルガーを必要としていることがわかってくれるだろう。きっとこの人は自分がどれだけ言葉を尽くしても自分の価値を自覚することはないだろう。こんなにも魅力的な人なのに。こんなにも素晴らしい人なのに。ならばもう、この人の優しさにつけ込むしかない。
ヴォックスは馬乗りになったままファルガーをひしと抱きしめ言った。
「俺のために生きてくれ。父上が亡くなった今、俺はこれからもっと大変な生活を暮らすことになるだろう。俺のためにこの家に居てくれ。俺のために笑いかけてくれ。俺のために死なないでくれ。頼む。ファルガーが俺にとって日々の中で癒しの存在なんだ。」
起き上がり、表情を無にして続ける。
「そうしてくれないのなら、俺も一緒に死ぬ。」
「…は?」
「ファルガーが死ぬと言うのなら、俺も一緒に死ぬ。ファルガーが生きると言うのなら、俺も一緒に生きる。それだけだ。」
蜜色の鋭い視線がファルガーを貫くかのように見つめる。
「何言ってるんだ、やめろそんなこと。」
「ファルガーが生きてくれれば問題ない。わかるだろう?優しい姉さんなら。」
何故、どうしてこんなにもヴォックスが自分に執着しているのかわからない。だがこの人はやると言ったらやる。それを姉として自分は知っている。ヴォックスが死ぬ。それだけは何としても避けたい。彼が父上の跡を継ぐのはどれだけ早くても二十歳だろう。ヴォックスが跡を継ぎ、彼がもう誰にも指図をされないと言う立場になるまであと、十年か。意外と長いようで短い。弟が大きくなり、家を継ぎ、母の懸念も消え、もうこれで我が家は安泰というところで消えるのが一番良いのかもしれない。あと十年だけ生きてみよう。
ジワジワと身体を蝕む孤独感が永遠に続くのではなく、期限が決められたことにむしろ少しの安堵を覚えた。十年間生きればその後全てから自由になれる。
ファルガーはヴォックスを抱きしめ返した。
ヴォックスはファルガーを更に強く抱きしめた。
ああ良かったこれで
十年後に死ねる
ずっとそばに居てくれる
二人は身体を離すと、何事もなかったかのように顔を合わせた。
「…足、返してくれるか?」
ヴォックスの頭を撫でながらそう問う。やはりふわふわの髪の毛は撫でていて気持ちがいい。
「ああ!」
ヴォックスは笑顔で足を取りに走る。その後ろ姿に声をかける。
「あと、私はもう部屋から出ないから。」
足を掴みヴォックスは振り返った。肩をすくめてファルガーは言う。
「母さん、私の顔とか見たくないだろうしそうする。トイレもバスタブも、一緒にある部屋で良かった。」
そう、ファルガー達の住む屋敷には一人一人の部屋にトイレとバスタブが存在した。だから部屋を出る必要があるかと問われると、ご飯さえ持ってきてもらえるのなら不要と言う感じだった。不可抗力によって塔に閉じ込められるお姫様の童話があるが、ただでさえ行動する範囲が狭かったのに、更に自ら狭めるとは。だが母から寵愛を受けているヴォックスは自分と相反する立場にいるファルガーに文句を言う資格はなかった。
「わかった…。」
足をゆっくりと装着する。問題なく繋げることができ、手を引っ張って立ち上がらせた。
「私はいつでもここにいるから。いつでも会いに来るといい。」
ヴォックスは頷いた。
「俺は今から母上の元に戻るけど、ファルガーは?」
「私はいい。父さんによろしく言っておいてくれ。」
よろしくも何ももう話せないよと言うのは野暮なのでまた再び頷いた。
部屋を出て母の元へ向かう。振り返るとファルガーはドアの前で自分を見送ってくれていた。この愛がどこに分類されるのかわからないが、やはり自分はファルガーが好きだ。愛している。どうしたって生きていてほしい。どうしたって自分のそばに居てほしい。そんな気持ちが強まるのを痛感しつつ、廊下を駆け抜けた。
ファルガーは結局、父の葬式には出なかった。