まどろみの楽園霧の深い夜だった。
森を満たす細かな水滴は、辺りにあるものの表面を舐め取って複雑な匂いを成す。生い茂る木々から、ぶよぶよした腐葉土から。そして、そこら中に転がった細切れの死骸から立ち昇る血煙から。
地に伏す骸はいずれも鬼殺隊士たちのものだった。背中に負った「滅」の文字は千切れ、どす黒く染まり、最早夜闇と同化しつつある。ただ独り残った隊士は、恐怖と疲労で荒くなった呼吸で、同胞の血を吸った霧を取り込み続けている。
対するのは洋套を纏った少年だった。揺らめく炎のような痣で顔中が覆われ、うすく開いた唇からは尖った牙が覗いている。そして、かつて彼の象徴でもあった花札のような耳飾りは外され、耳朶に空いた穴だけがくろぐろと夜にその虚ろを晒していた。
竈門炭治郎。
かつて鬼を連れた鬼殺隊士として異端視されていたが、その鬼である妹と共に功績を上げ続け、遂には柱たちにすら認められるまで至った高潔な少年。
けれど、もうそんな人間はどこにもいない。
今の彼は無惨に代わる新たな鬼の王だ。人に仇成す、鬼殺隊の新たなる敵。
仲間の死骸を努めて視界に入れぬように顔を上げ、鬼狩りの青年は勇気を振り絞って叫ぶ。
「最早身も心も鬼に成り果てたか、竈門隊士!」
その言葉に炭治郎はひく、と鼻を鳴らす。悲しげに寄せられる眉とともに、外套の下から伸びた触手が引き潮のように収まっていく。
どうやら、聞き入れる余地はあるらしい。ひんやりとした夜気と共に凍りつきそうな頭を必死で回転させて、呼吸を鬼の王へとぶつけるための言葉へと変えていく。
「折角ひとに戻れた妹を、いくつもの任務を共に戦った仲間をその手にかけて……それでもまだ足りないというのか!?」
「酷いこと言いますね……」
ふう、と炭治郎は血腥い霧の中へ息を吐き出す。
「俺はずっと自分の立場に相応わしい人間になれるよう全力で尽くしてきたつもりです。鬼殺隊士として、長男として、兄として」
その言葉と呼応して、ゆら、と炭治郎の背後の闇が裂けた。
あの連なった背骨のような触手が、また外套をいっぱいに押し広げて展開されようとしている。
そうして、牙の生えた口で、笑った。
「だから、今も新しい役割を精一杯果たしているだけなんです。鬼の王という、大切な役割を」
舌打ちと共に、鬼狩りの青年は刀の掬を握り直す。
これ以上話の通じる相手ではない。あの鬼にすら慈悲を向ける優しい少年では、もう。
例え敵わないとしても、少しでも足止めをしなければ。そう、後に残る者たちのために。
鬼殺隊は明らかに疲弊していた。先の無惨との死闘とその後の鬼の王の誕生で、柱をはじめとした主力の隊士は殆ど命を落とした。そのうえ新たな敵となった鬼の王は陽光をものともしない為、残り少ない隊士をやりくりし昼にも人員を裂かねばならない。となれば組織が少しずつ瓦解していくのも必然だった。
不幸中の幸いといえば、炭治郎が他の鬼を増やす気配がないことだ。たまさか生還することができた隊士からの報告によれば常に彼はひとりであったし、同時多発的に鬼の被害が観測されることもない。であれば、道はある。
蟲柱の遺志と技術を継いだ蝶屋敷の娘たちが、鬼の王すら屠る毒を創り上げようと今この瞬間も努力を重ねている筈だ。そして薬学の知識がない一般隊士たちは、少しでも鬼の王を足止めし一般人への被害防止と製薬部隊の秘匿に努める。それが、鬼殺隊が今打てる最良の手だった。
だから、己がここで力尽きるとしても無駄ではない。一秒でも時間が稼げれば、あとの者たちへの積み重ねになる。そうやって、人は未来を作る。鬼殺隊は、いつだってそうして人知を超えた鬼の力へと立ち向かってきたのだから。
血の匂いの染み付いた空気を無理矢理に吸い込んで、青年は日輪刀を構えた。
「水の呼吸ーー」
思い切り振りかぶった刀。
けれどそれは背後からの何者かに腕ごと巻き取られ、中空で止められた。
手首を支点に青年の身体が慣性に揺れる。頭上を見れば肉色の柔らかい触手が絡みつき、腕をまとめて締め上げている。
さくり、と湿った地面を踏む音がした。自分の背後から迫る鬼の気配が、青年を圧し精神的な拘束として動きを止める。
その誰かを認めたのか、炭治郎の顔が慈愛の微笑みに染まった。
「もう、炭治郎ったら話が長すぎ。俺の方はもう終わっちゃったよ」
歌うような声に、炭治郎は肩をすくめた。
「すまない、少し乗せられてしまったかな。俺としたことが不甲斐ない」
霧を従えて現れた洋装の青年は、殆ど人間と変わらない見目だった。顔に鬼特有の紋様があることと、勿忘草色の瞳の深くに、『下壱』の文字が刻まれている以外は。
長い裾を翻した下から、鬼狩りの彼を拘束する触手が伸びている。それを固定したまま、青年は炭治郎の身体にしなだれかかり、まるで愛しい恋人にでもするように首へと腕を回す。
すると左手の甲に、異形の唇が笑み割れた。舌なめずりと共にニタニタとこちらを嘲笑うそれを目にした瞬間、彼の脳裏をよぎったのはかつて受けた鬼の討伐報告だった。
それは竈門隊士が鬼となる前のこと。あの誇り高い炎柱の訃報と共に伝えられたから、特に印象へ残っている。下弦の壱。夢と現の境界を操る眠り鬼。確かに討ち果たされたはずの、過去の鬼。
嫌な汗と共に、全身の肌が粟立つのがわかった。
あの鬼の王が、過去に存在した鬼を自在に蘇らせることができるのだとしたら、相当にまずい状況ではないのか。しかも、あの下弦の壱が使うのは精神干渉の血鬼術だ。これまで生還した隊士たちの報告すら、あの鬼が用意した罠だという可能性も高い。
とにかく、鎹烏に伝達を。
鬼狩りの青年は空を仰ぐ。けれど先程まで控えていた鳥たちの姿は木立のどこにもなかった。激化した戦闘のために隠れているのだろうか。そう考えて合図の口笛を吹くが、甲高い烏の声どころか葉擦れひとつ聞こえなかった。
狼狽する青年に向けて、下弦の壱がくすくすと笑う。
「もしかして、これのこと?」
その言葉と共に触手が腕から引き、鬼狩りの青年は地面に投げ出された。離れた肉の鞭はしなり、下弦の壱の懐から何かを探り出す。その間も眠り鬼本体の腕は鬼の王の首に絡みついたままだ。
やがて触手が先端に細いものを携え、彼の目の前に戻ってくる。夜の闇よりなおか暗い色のそれは、紛れもなくカラスの羽だった。
「あ……」
打てる手を全て塞がれ、溢れるのは意味のないつぶやきだけだった。
この場にある情報は何も伝えることが出来ない。
自分は無駄死にでしかない。
そう悟った途端、青年の中で何かが弾けた。
「う、うぁああああぁっ!!」
慟哭と共に取り落とした刀を拾い、二匹の鬼の懐目掛けて地を蹴った。呼吸の型も忘れ、ただ闇雲に突っ込んでいく。その蛮勇に、鬼たちもほんの僅か反応が遅れた。けれどその一瞬も、鬼の身体能力ならすぐ取り返せる程度の隙でしかない。
刃先が炭治郎に届く直前、目にも止まらぬ速度で何かが飛んだ。尖ったそれが首に刺さり、青年の動きが止まる。
「ぁ……か、は……」
炭治郎の外套から伸びた触手が、青年の身体に鬼の王の血を分け与えていく。人間を鬼に変え、大量に注がれればその変化に耐えきれず自壊する唯ならぬ毒を。
脈打つ鼓動がだんだんと激しさを増していき、遂には痙攣に変わっていく。皮膚を突き破らんばかりに暴れ出す多量の鬼の血液が、人間の身体を壊すべく体内を駆け巡る。
炭治郎はその様子に憐みのこもった視線を向けていた。腕の中の眠り鬼を離さぬままに。
「ごめんなさい、あんまり苦しませたくはないんですが……ここまで踏み込まれたら、首を飛ばした時に外套が汚れるので」
細胞膜が破裂し、原形質が溶解する。
鬼狩りの青年は瞬く間に日輪刀と隊服を残して溶け落ちた。
森の中に静寂が戻る。
それを裂いたのは、眠り鬼ーー魘夢の不満げな声だった。
「んもぅ」
頬をふくれさせて、魘夢は炭治郎の顔を見上げる。普段から下がり調子の眉がさらに下がって寄せられていた。
「ずるいよ、炭治郎……あんな奴に血を分けてやるなんて」
炭治郎はその言葉に目を丸くする。
匂いと、鬼の血脈から読み取れる思考には明らかな嫉妬が滲んでいた。未熟で、人らしい感情。そんなものを、この鬼は覚えるのか。
それがまた、愛おしい。
人間のように立つ眠り鬼の髪を優しく撫でて、背中に回す腕へ力を込める。自分の傍にあるべきはただひとり。この、聡く忠実な眠り鬼だけ。炭治郎は牙を剥き出して笑った。
「心配しなくても、おまえ以外の鬼なんて作るつもりはないよ」
「ふふっ」
よかったぁ、と笑って、魘夢は炭治郎の胸に顔を埋める。鬼の王はそんな愛しい眠り鬼に微笑み返し、右手の人差し指を第二関節から食いちぎった。滴る血を咥内に含み、魘夢の唇へと口移しに注いでやる。
「ぁん…っ」
重なった唇の間から、艶めかしい囁きが漏れた。ひくつく背中を自分の身体に押し付けるみたく抱き留める。泡立った唾液が絡まる舌の間でぱちぱち弾けた。
空の青さを沈めた瞳が熱を帯びるのを、炭治郎はほんの数寸の距離で見つめる。やがて唇を離すと、陶酔に頬を染める魘夢をまた強く抱きしめる。
長い口づけの間に、既にちぎれた指は完治していた。再生した部位の周りにこびりつく血は、魘夢の唇へと指を差し込んで舐めとらせる。胼胝やささくれだらけの無骨な掌を両手で恭しく包み込み、仔猫のように血を吸う魘夢を、鬼の王は満足げに見つめている。
このままずっとこうしていたいけれど、そうもいかない。立ち込める霧がうっすらと青みがかり、そろそろ夜明けが近いことを教えている。自分はともかく、魘夢は未だ日光を克服することができていない。今日は雲が厚いからそれなりの猶予はあるようだが、なるたけこの辺で切り上げて鬼狩り達の後始末をしなくては。
炭治郎は周囲を見渡す。
血の染み込んだ地面はそのうちに霧が洗い流すだろう。大して強い鬼狩りではなかったから、肉片は腹塞ぎていどにしかならないかもしれない。そんな打算と共に血の海に目を巡らせていると、暗がりの中いやに白く目に入るものがあった。
視線をそちらへ向ければ、先程溶解した鬼狩りの服が、そのまま残されていた。ふたりに向けて倒れ込んだ彼の背にあった筈の「滅」の字が、白々とこちらを見上げているのが見えた。かつての自分達が掲げた志。
それが、今は自分を討つための刃に変わった。人を傷つけ、踏み躙る鬼の王への、叛逆の理として。
その文字から目も離せず、炭治郎の唇が震え出す。唇の端に残っていた血のひとすじが、擦れて色を無くしていく。そうして、腕のなかにいる眠り鬼を、見下ろす。
「魘夢……」
呟いた名は、弱々しかった。
柘榴石の目が、潤んで揺れている。
まるでほんの小さな子供のように。
「俺がやっているのは、正しいことなんだよな?鬼として、その王として……かつての同胞だった鬼狩りを葬って、その肉を食って……」
震えて掠れた語尾は立ち消え、薄靄の中に拡散していく。
魘夢は何度か瞬きをして、鬼の王のゆらぐ瞳を覗き込む。そうして、小さくため息をついて。
……炭治郎はときどき、こうなる。
人としての在り方を思い出し、苦悩と共に涙を流す。彼の人間の部分の、最後の抵抗。
その度魘夢は優しくそれを受け止めて、鬼としての彼を肯定する。その豆粒くらいの人間性を甘やかして、蕩して、見えなくなるくらいに。
鬼の王が、鬼の王であるために。
「大丈夫だよ、炭治郎」
そっと、魘夢は炭治郎の頭を撫でる。きし、と音を立てる癖毛が、指の間に絡まっては通り過ぎる。それを炭治郎は身じろぎもせずに甘受していた。
鬼の王となった炭治郎が、蘇らせる鬼として魘夢を選んだ理由。人間に寝返る可能性がなく実力も相応にある側近が欲しかったから。
そう、以前に聞いたことがある。
けれど、きっとそれは半分程度しか正解ではない。
人に混じり、取り入ったうえで鬼であることを心底楽しんでいた魘夢は、炭治郎にとって「人に仇成す鬼」の象徴だったのだろう。
だから、自分がそうなった時に魘夢を甦らせた。鬼の王という立場を正当化するための鏡として。
ただの、自己愛の産物として。
だとしても。
魘夢はひとりごち、炭治郎の頭をぽんぽんと優しく叩いてやる。
だとしても、二度目の生を受けた以上はそれを全うしたかった。かつて自分の頸を斬ったいけすかないガキからいいように使われることに、最初は抵抗はあった。それでも、彼から与えられ、そして自分が彼から与える全てが今では喜びだった。
人を陥れて、苦しめて。
こんなに、鬼というのは楽しいものなのだから。
「そう、そうだよ。君はもう戻れない。だから、せめて最大限に正しい道を進まなきゃ」
鬼としての生を享けてまだほんの数年しか経っていない、ちいさな鬼の王。
そんなひとりのこどもをあやすみたく、魘夢は優しく抱きしめて、こんどは背中を叩いてやった。心臓の鼓動に合わせて、ひとつ、ふたつ。段々と、呼吸が落ち着いてくる。彼が鬼の王に戻っていく。
敬愛した鬼の始祖はもういない。
だとしたら、育てれば良い。
新たに自分が仕えるに相応しい、残酷で強大な鬼の王を。
魘夢は地面に散らばった肉片たちを仰ぎ見た。
「さぁ、お腹が空いたでしょ。炭治郎」
ふたりには、これからやらねばならないことがある。