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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    精神科の患者タンジロと医者たみおさんの炭魘シーズン2です。失われてしまったたみおさんを見つけるべくタンジロがもう一度手を伸ばす話。今回ぜんねず要素あり。

    #ジョハリの箱庭
    joharisBoxGarden

    星屑の証明・Ⅰ 部屋の中には、部屋があった。
     机の上に乗るほどの小さな人形の家は、しかし締め切られた居室の中でそれ自身がこの空間を構成する主体であるかのような存在感を放っている。少なくとも、部屋の主である炭治郎にはそう感じられていた。
     家の壁は隣接した二辺だけに張られ、開けた残り二辺から中が覗けるようになっている。淡い色彩で統一されたシールで平面上に内装が表現されていて、そのなかにふたつだけ、ぽつんと浮き出したように人形が立っていた。紙粘土で拙くこね上げられたそれは、床に貼られた鉄道模型のシールを覗き込むかたちで慎ましく身を寄せ合っている。
     そのうちの黒髪の人形に向けて、炭治郎は話しかける。机の上に半ば寝そべるように視線を合わせ、縋るように。
    「先生、民尾先生……聞こえますか」
     何度だって繰り返したいのを飲み込んで、返事を待つ。帰ってきた言葉を、聞き逃さないために。固唾を呑んで見守る炭治郎の耳に、けれどあの柔らかく夢を誘う声が聞こえてくることはなかった。クーラーの人工的な空寒さのなかで、沈黙だけが大きくなっていく。帰らぬ声を待っているうちに飲み込んでいた息が耐え切れなくなり、炭治郎は大きく喉を開いた。
    「民尾先生……」
     数日前からというもの、箱庭からは民尾の声が聞こえなくなっていた。
     夢の中で何度も追い求めてきた彼を、やっと現実へと連れ帰ることが出来た。そんな歓喜から病室のベッドで目覚めたときに、この箱庭は炭治郎の枕元にあった。さっきまで見ていた夢の中で、民尾から貰った大事なもの。自分が作った人形こそくっついていなかったものの、内装は正に民尾から譲り受けたそれと寸分違わなかった。
     自分のすぐ横に鎮座している箱庭を見るなり炭治郎は驚愕し、そこから民尾の声が聞こえてきたことでやっと己の目的が果たされたことを知ったのだった。すなわち、夢を現実に変えることができたのだと。
     そう確信した炭治郎は退院までの時間で看護師の後藤に頼んで紙粘土と画材を貰い、同じ人形をこしらえた。あの夢の世界で作り上げたのと全く同じ、自分達の姿を模したものを。ピアスまでしっかりと細かく造形したけれど、完成したところで自分の耳朶が塞がっているのに気づいて、もぎ取った。これは自分達の形代なのだから、いまの姿を模しておかなければと。
     その思惑を民尾に話して聞かせたときは、彼も声だけで苦く笑っていた。全く、真面目なんだから、と。
     今の変調を考えれば、民尾の言うとおり早計だったのかもしれない。もしかしたら、あの夢と現実の箱庭との間に乖離が生まれることで、民尾の存在も押し流されてしまったのかも知れないのだから。炭治郎は溜息のままに、己の耳たぶに手を寄せる。父の形見である花札に似た耳飾りが、指先で涼やかな音を立てた。
     入院中は規則により禰豆子たちに預かって貰っていたが、代々伝わるそれを外すことなど考えられなかった。父に、祖父に、その前の先祖たちにと連綿と伝わってきた矜持を、自分の勝手な我が儘で捨てることでしかない。だから炭治郎は、ただ自分の浅慮を恥じることしか出来なかった。
     身体を起こすことなく、鼻先を近づける。紙粘土のケミカルな匂いも、病室の潔癖な空気も、もうすでに薄い。それらが掻き消えていくのと一緒に、民尾を連れ去ってしまったように。或いは、民尾がそれらへの馴染みを供にしてどこかへ帰っていったのが正しいのか。
     そっと両手で箱庭を包み込む。プラスチックの無機質なつめたさに、だんだんと体温が移っていく。炭治郎と箱庭のさかいがなくなっていく。炭治郎は夢見るようにそっと目を閉じた。
     夢の中で見た箱庭を、またこの現実にも持ち込んでいることが、何故かとてつもない禁忌のように思えた。夢を現実に変えた筈が、目覚めたそこもまた夢であることを否定できなくなっている。
     視界が闇に包まれてからほどなく、背後から部屋のドアをノックする音が聞こえた。途端に、心臓が跳ねる。この箱庭に民尾の存在を求めることに疚しい気持ちがないといえば嘘になる。端から見ればどう好意的に解釈したって病人の妄想がまだ消えていないという証明になってしまうだろう。下手をすれば、入院生活に逆戻りと言うこともあり得る。
     けれど、民尾へのこの想いをなかったことになんてしたくない。それが湧き上がる理由などわからなくても、厳然として在るということは事実なのだから。だから炭治郎は箱庭の存在を隠してはいなかった。それが、民尾に向き合う為の自分なりの誠実さだと思ったから。
     あたふたと振り返り、扉に向けて返事を投げる。ほどなく開いた戸の隙間から、涼やかな微笑みが顔を出した。従姉の真菰だ。
    「炭治郎、そろそろ夕ご飯だよ」
    「あ、真菰……ありがとう」
     そういえば、今日は真菰が夕飯当番の日だったか。炭治郎の意識に、漸く現実が先立ってくる。
     大学生の彼女は兄の錆兎とともに鱗滝家に同居している。ふたりの両親は仕事の関係で外国にいるとかでほとんど顔を合わせたことはないが、彼女たちの祖父である鱗滝と竈門家との交流は昔から篤く、炭治郎と禰豆子も小さい頃よく彼女たちから面倒を見て貰ったものだった。
     だから接すること自体への気後れはないが、やはり長期にわたる入院で様々な負担をかけてしまったことへの申し訳なさは根深い。いちどそれを訴えたものの、鱗滝は『子供がそんなことを気にする必要はない』と全く取り合う様子はなかった。錆兎と真菰も同様で、炭治郎はその度むやみに焦燥を募らせていくばかりだった。
     確かに家族を失った自分は何も後ろ盾のない子供で、そのうえ残った妹を守らなくてはならないのにこの体たらく。彼らに世話にならなければふたりともマトモに暮らしていくことすらできない。夢ばかり見てはいられないと誓ったというのに、今度は現実の厚みに押し潰されそうになっている。どうにも、ままならない。その上、夢の名残が未だ尾を引いて混じり合おうとしているのだから。
     真菰は部屋の中に足を踏み入れると、炭治郎の手元を覗き込んできた。あまりにも軽やかなその足取りに、炭治郎は半ば唖然としたまま彼女の行動を見守っていることしかできない。肩越しに揺れた髪の名残が、空間を舞っていた。
     机の上に乗った箱庭を見下ろして、真菰は何か思案げに首を傾ける。
    「ここのところ、ずっとこれ見てるね」
    「ああ……」
    「大事な人から貰ったもの、なんだよね」
     真菰の言葉に、炭治郎は曖昧に頷いた。
    「ここのところ、連絡がなくって……それで、心配で。こっちからそうそう会いに行くことは出来ないひとだから……」
     嘘にはぎりぎりならないと思う形で、婉曲にたどたどしく言葉を紡ぐ。民尾への追憶を素直に追いかけることができない自分が、どうにも情けない。そのせいで、浮かんできたイメージをそのままに口に出してしまう。
    「錆兎に聞かれたら怒られるかな……男らしくないって」
     言葉にしてから、また肩の荷が重くなっていく。胸の痛みを感じているのは他ならぬ自分自身なのに、よりによって他人に責任転嫁してしまうなんて。
    「そんなことないよ」
     真菰は後ろ手にゆるりと腕を組み、柔らかく笑った。
    「あれで結構炭治郎のこと心配してたんだよ、錆兎」
    「そうなのか?」
    「うん、本人は絶対言うなって言ってたから……それ以上は秘密だけど」
     真菰はくすくすと声を立てて笑う。きっとそのときの錆兎を思い出しているのだろう。きっと彼女にとっては微笑ましい一幕だったのかも知れないが、炭治郎にとってはまたそれが気を重くさせていく。大事な人達にまた心配をかけてしまったと、事実だけが何倍にも重複されて、のしかかって。
     その様子が顔にも出ていたのだろう。真菰はくすりと唇を綻ばせ、炭治郎の顔を覗き込んだ。
    「みんなに心配も負担もいっぱいかけて申し訳ない、って思ってるでしょ、炭治郎」
     図星を突かれて、炭治郎はしどろもどろに絡まった言葉が吐き出される。空間を掻くように両手を所在なく動かして。
    「あっ……え……っと」
    「いいんだよ。そんなこと思わなくて。ううん、思っちゃうのは仕方ないけれど……」
     ふと、真菰の青い目が窓の外へと向いた。カーテンの隙間に、桃色と紫が混じり合った空が見える。いつかそれらは溶け合って、一面の黒へと沈んでいくのだろう。けれど、真菰の視線はそれらに注がれてはいなかった。更に遠く、遙か宇を臨んで、まるで何処か遠くの世界の自分達を見ているかのような。
    「ショックなことがあったときって、そのことしか見えなくなってどんなに頑張ってるつもりでも狭い世界だけで動いてしまって……結局、失敗しちゃうものでしょ」
     炭治郎は傍らで、ただ真菰の言葉を受け取っていた。彼女が引き出した言葉を。炭治郎に伝えられる為にいつか何処かから引き出されてくるそれを。
    「炭治郎には、そうなってほしくないの。だから、ひとりでは出来ないことは私たちにも任せて欲しいんだ」
    「真菰にも、そういうことがあったのか?」
     炭治郎の問いに、真菰の唇が引き攣れるようにひくついた。一瞬だけ降りた影は、どこから来たものなのか。それを伺わせる前に、真菰はいつもの柔和な微笑みを取り戻していた。
    「わかんない……けど、なんでだろうね? 炭治郎見てたらそう、思ったの」
     彼女の意識が目指した先が何処なのかは、わからない。けれど、何故かそれがとても懐かしい記憶のように思えた。この、民尾に対する気持ちと同じように、己の根源に刻まれた何かが、彼女の見た何処かに共鳴しているようで。
     だから、ただいちどだけ、炭治郎は頷いた。

     真菰に促されて廊下に出ると、熱気が身体中に纏わり付いてきた。八月も盛りを過ぎたというのに、未だ暑さは緩まない。冷房馴れした首を振るってそれらを振り払う。
    廊下の角に差し掛かったところで、錆兎と鉢合わせた。丁度帰宅したところらしい。ネクタイを緩めながら、今しがた上がってきた玄関の方を手で指し示す。
    「炭治郎、善逸が来てるぞ」
    「善逸が?」
    「ああ、ちょうど帰ってきたところでかち合ったんだ。折角だからな、元気な顔を見せてやれ」
     炭治郎はぱっと顔を明るくして、頷く。診療所では通信機器の持ち込みが制限されていたため、入院生活が始まってからこの方、友人たちとは殆ど連絡を取れていなかった。時折禰豆子たちから貰う手紙の中から彼らの近況を読み取っていたくらいで。だから、長い付き合いの彼や伊之助には少なくとも近いうちに顔を見せなければと考えていたところだ。
     鱗滝家の玄関と台所はほぼ隣接しており、移動もそれ程手間ではない。着替えのために自室へ向かった錆兎へ軽く礼を言って、真菰と一緒にそのまま玄関へと向かう。
     玄関の三和土に立っている金髪の少年を見るなり、思わず炭治郎の唇が綻んだ。見間違える筈もない、懐かしい友人の姿。
     善逸はにっこりと笑って、炭治郎に向けて軽く手を掲げた。蛍光灯の暖色の光が、金色の髪を生ぬるく照らしていた。
    「よ、炭治郎。久しぶり」
    「善逸! ああ、元気そうでよかった」
    「それはこっちの台詞だっての! この前まで入院してたやつがさぁ……」
     苦いような笑っているような、複雑な表情。それでも、久方ぶりに再開した友人の無事を目の当たりにした喜びが、確かに善逸の目には滲んでいた。
    「善逸くん、いらっしゃい」
    「真菰ちゃん!」
     炭治郎の後ろで微笑む真菰を認め、善逸はだらしなく緩んだ笑顔を一瞬だけ浮かべた。けれどすぐに表情を引き締めると、炭治郎の肩をぐいと引き寄せた。
    「すんません、ちょっと炭治郎借りてって良いですか?」
     問いの形ではあるけれど、有無を言わさぬ雰囲気が語気からは読み取れた。炭治郎は戸惑いながら真菰のほうをちらりと見る。それから、すぐ近くにある台所の戸口を。
     湯気の漏れる入り口からは、食器の擦れる音が聞こえてくる。鱗滝は今日町内会の寄り合いで遅くなると行っていたから、おそらく禰豆子が準備をしているのだろう。
     鱗滝家に迎え入れられてからというもの、禰豆子は甲斐甲斐しく家事の手伝いをしていた。病み上がりの炭治郎の分もと気負っている部分もあるのだろう。自分がそれとなく手伝いを申し出ても、きっぱりと断られてしまう。確かに彼女の方に理があるのはわかるのだが、それも炭治郎の焦燥を一層掻き立てる要因にもなっていた。あの蛍の川で告げられた言葉を信じたい気持ちはあれど、禰豆子の心労はいかばかりだろう。家族を失ったのは、妹だって同じなのだ。その上、唯一生き残った肉親である炭治郎が病床に伏したときには、どれほど彼女が不安だったことか。炭治郎は無意識に唇を噛む。
     禰豆子たちにこれ以上の負担をかけることに、気後れもある。けれど、善逸がこうまでも自分に伝えたいことがあるのなら。
    「大丈夫だよ。今日はカレーだから、遅くなるようならあとであっためて食べられるし。行ってきなよ」
     炭治郎のそんな迷いを振り払うようにひらひらと手を振って、真菰は目を細めた。
    「禰豆子ちゃんには、私から言っておくから。言ったでしょ? 頼ってって」
     そう伝えると、真菰はさっさと踵を返し台所へと歩いて行ってしまった。とりつくしまもなくその場に佇む炭治郎は、呆けた声でその背中に頭を下げる。まるで自分の苦悩が肩すかしに思えて、急に抜けた力に目眩すらしてくる。
    「あ、うん……ありがとう」
    「じゃ、行くぞ」
     手を強く掴まれて、引かれる。それをなんとか宥めてサンダルをつっかけると、炭治郎は善逸の足取りに合わせた。その間、友人は一度も振り返ることはなかった。部屋に置いてきた箱庭のことが頭を掠めるけれど、それを言い出せるような雰囲気ではなかった。
     善逸は、こんなに強引なやつだったっけ。
     ふとした疑問を押し込めて、炭治郎はかぶりを振った。痛む手首がどうにも遠く感じる。
     きっと、変わるものなのだ。
     自分が、無数の夢に揉まれ己を殺していく内に、こうも身勝手になってしまったように。

         *

     善逸に伴われて赴いたのは、近くの児童公園だった。住宅街の中にぽかりと開いた間隙のようなそこは地域の子供たちの遊び場で、炭治郎も幼少の頃よく善逸をはじめとした友人たちと訪れ、長じてからもきょうだい達を遊ばせていた馴染みの場所だ。
     辺りは水っぽく薄い桃色の光で満たされ、団地の壁も枝を広げた街路樹も、すべてが同じ色に塗り込められていた。かはりと開いた喉にすら、色のついた光が流れ込んできそうな湿度と熱。まるで、何かの生き物の体内に居るようだった。沈み行く太陽に、東の方の空が焼かれて黒く焦がされていくのが見えた。それでも尚冷めない温度に、汗が流れ落ちる。
     歩いて行くうちに、ふたりはぽつりぽつりと会話を交わす。
    「久しぶりだな」
    「ああ……」
    「もうすっかり、良くなったんだって?」
    「うん、事故の骨折の方はとっくに治ってたし……それに嗜眠症も、いまは」
     完治した、という言葉はとても使えなかった。精神の病は、寛解はしても完全にその根が絶たれたという証明は出来ない。だからしっかりと心身に気を配ること。そう珠世から再三言い聞かされていたのもあるし、何より夢とうつつを分かち難く混ぜ合わせるあの箱庭の存在が、炭治郎を引き戻してしまう。
     はぐらかすような語尾を掴むこともなく、善逸はそう、とだけ相槌を打った。
    「学校は?」
    「鱗滝さんが休学の手続きをしてくれてたから、来年からってことになるって。リハビリもまだあるし、夏休み明けから行っても、出席日数が足りないから」
    「そっか……じゃあ、一年後輩になっちゃうってことかぁ……」
     詠嘆を含んだ響きが、桃から大分紫色を強めてきた空へと消えていく。何かを話したくてこうして歩いているはずなのに、善逸は未だそれを切り出すことをしないでいる。それは炭治郎も同じで、迂遠なやりとりの中で彼の意図するところを聞けずに居るばかりで。
     お互い、核心には触れないまま、日は沈んでいく。太陽の巡りよりもゆったりとした足取り。紫を、桃色を、全て飲み込んで、夜が来る。街路灯が落とす人工の白い光がひときわ強いあかりと感じられるくらいに辺りが暗くなった頃に、漸くふたりは公園の入り口へと辿り着いていた。カラフルに塗られた車止めの間をすり抜けて内側に入り込めば、既にそこには人っ子一人いなかった。子供達はもう家に帰る時間だし、住宅地に隣接し開けた立地は不良がたまり場にするには分が悪い。煌々と照る背の高い街灯をよそにして、滑り台やシーソーがどこか空しさを纏って佇んでいた。
     ふたりは敷地の中程に立つブランコへと、並んで腰掛けた。尻の下で僅かに砂の擦れる感触がある。腰を浮かしてズボンを払うと、善逸も同じ感想だったのか思い切り座席を払っているのが目に入る。思わず微笑ましさに緩んだ口元を押さえながら、改めて炭治郎は切り出す。
    「ところで、何の用なんだ? こんなところに連れてきて」
     あの場では話しづらいことではあるのだろう。それとなく話させるという話術など自分にはないから、単刀直入に聞いてしまうのが一番気楽だった。善逸は小さく相槌を打つと、ほんの一瞬だけ視線を天頂に移してから口を開く。
    「ん、ああ。町内の納涼祭、明日だろ。一緒に回ろうぜ。伊之助も来るし、禰豆子ちゃんにも話してあるから」
    「ああ、そうか……今年もそんな季節だな」
     毎年、この町では八月の終わりに納涼祭が催される。大々的なものではないが、近所の子供達や町内会の人々が主体となって動くため、ある種の文化祭のような親密な活気を纏うなかなか賑やかなイベントだ。そういえばいま鱗滝が出ている町内会の集まりも、それの関係だと言っていたっけ。納得を交えて炭治郎は何度か頷く。
    「そうそう、今年は先生たちがなんか張り切っちゃってるみたいでさぁ。いろんなイベント企画してるんだって」
     そこから、近況について話があちこちへと飛ぶ。ふたりが通っている学校の校庭が納涼祭の舞台になるのだが、それぞれの屋台の区画決めについて宇髄と不死川の間で一悶着あっただとか、盆踊りのやぐらの飾り付けを今年は善逸たちが音頭を取って行っただとか。そのどれもが新鮮で、それでいて懐かしい。善逸の口から友人や教師達の名前が出てくる度にその思いは強くなっていき、代わりに炭治郎の肩からは段々と強ばりが抜けていった。
     拍子抜けしたけれど、思い直して再び身構え直す。善逸がこんな人気のない場所に自分を連れてきたのは、何も祭りの話をする為だけでもあるまい。他に何かあるに違いないのだから。他人の介在しない場所で、ふたりで交わさなければならない何かが。
    「用件としてはそれだけ。あとは……」
     濁した語尾を溜め込んで、善逸は表情を引き締めた。
    「俺の、個人的な用事。ってか文句」
    「……うん」
     どんなことだろうと、受け入れるつもりだった。
     改めて、炭治郎は神妙な面立ちで友人の方へと身体ごと振り向く。揺れたブランコに、思わず足下の砂を踏みしめる。善逸は迷っている素振りだったが、やがて意を決したのか、大きくこちらへ身を乗り出してくる。
    「なんかさ、ここんとこ禰豆子ちゃんが元気ないんだよ。学校で顔会わせる度聞くんだけど、なんでもないって言うばっかりで……」
     禰豆子。
     その名前が出てくるなり、また緩みかけていた緊張の糸が張り詰めるのが分かった。炭治郎は苦く唇を噛む。
     善逸が禰豆子のことを好きなのは、誰からも周知の事実だった。本人もそれを臆面なく発揮していたのだから当然ではあり、禰豆子もまんざらでもなく彼の好意を受け入れていたことから、兄である自分もそれを微笑ましく見守っていた。けれどその記憶が、これから炭治郎へ告げられるだろう言葉の重みを否応もなく補強していた。
    「禰豆子ちゃんは優しいし、俺たちに心配かけないようにって気ぃ張ってるんだろうけど……でも、やっぱり辛くない訳ないじゃん。家族が死んで、兄貴はずっと入院して……」
     途切れ途切れに、善逸は吐き出していく。途絶えた隙間に言葉を選んでいるのが、嫌と言うほど分かる。炭治郎を傷つけない言葉を。それでいて、自分の思いを最大限に伝えられる言い回しを。震える手が、それでもしっかりとブランコの鎖を握りしめていた。
    「なあ、炭治郎。お前、何したんだよ。お前が退院してきてからなんだよ、禰豆子ちゃんが様子おかしくなったの」
    「あ……」
     言葉が出ない。
     引き攣れた声だけが、水気の多い夜の空気に溶かされていくばかりだった。
     きっと、禰豆子にはわかっていたのだろう。自分があの箱庭に懸ける想いが、尋常のものではないことを。
     自分は上手く隠し通していたつもりでも、あの芯が強く周囲に気を配る妹のことだ。兄の変化を敏感に察知していたに違いない。自分の不甲斐なさは自覚していたつもりなのに、全く見えていなかった。その自責が、また炭治郎を追い詰めていく。
     思えば、禰豆子には我慢させてばかりだった。あの事故が起きる前も、己が入院し、無数の夢を渡り歩くことになっても。下の弟妹達がいるからと遠慮を繰り返し、彼らを失ってから後は自分の我が儘に付き合わせ……鱗滝や真菰たちが支えてくれているとはいえ、きっとその苦悩は自分にも計り知れぬものだろう。それに言い訳などする予知はないし、またするつもりもない。
     けれど。
    「……迎えに行きたい人が、いるんだ」
    「なんだよ、いきなり」
     唐突な言葉に、善逸は訝しげに眉を顰めた。けれど炭治郎が異様なまでの真剣さをその面持ちに湛えているのを認めたのか、遮ることはなかった。
    「その為に必死で、禰豆子に……たくさん心配をかけたと思う。本当に、すまないことをしたって、自分でも分かってる……だけど」
     ほんの一瞬、言い淀む。
     彼を追い求め続けるのが自分のエゴでしかないことはわかっている。ただ、何処かの夢の中で出会っただけの彼を、なりふり構わず追いかけて手を捕まえるのは、目覚めた途端に霧散してしまう夢を文字に書き留めようとするようなものだ。夢を綴る分だけ、現実は削られていく。その影で自分の在り方を思いに留めてくれる人間を悲しませるようなことは、決して炭治郎の本懐ではない。
     それでも、炭治郎は言葉を繰り出す。目の前の友人に伝えるため、或いは決意を再び築き上げるために。
    「あの人を迎えに行ってあげられるのは、俺だけなんだ。善逸が禰豆子のことを助けたいって思うように……俺は、あの人の手を取ってあげたい。一度でも、それがどんな感情からであろうと、俺を求めて手を伸ばしてくれたのなら」
     自分は必ず彼を救うと、決めたのだから。
     いつかの夢で、階段から落ちゆく自分に手を伸ばした彼を。
     夢を越えてきた無数の死骸を目の前にして尚、自分の手を取ってくれた彼を。
     その始まりは、いつに遡るのだろう。無限の夢の向こうで、いつか彼が自分に向けて手を伸ばした気がする。それがどのような記憶であったかは、もうわからない。血と、石炭の匂いに掻き消されて、杳として知れない果ての果て。けれど、今自分が在るのはそれがあったからなのだという思いだけは、確かだった。
     善逸は呆気にとられたようにしばらく黒目がちな大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていたが、やがてこれ見よがしに盛大なため息をついた。その響きに含まれているものを検分する間もなく、新しい言葉が二人の間に生まれる。
    「ホントはさ、お前のことぶん殴ってやりたいくらいなんだよ。そのつもりで、お前を呼んだくらいだった。俺の禰豆子ちゃんに辛い思いをさせるようなやつは、たとえ実の兄貴だって許せねえし」
     ぐ、と苦いものが炭治郎の喉に込み上げる。返す言葉もない。彼の言うとおり今この場で殴られたとしても、甘んじてそれを受けるつもりだった。
    けれど、善逸は立ち上がる素振りもなく、ただ俯いたまま軽く足下を揺らしているだけで。
    「だけどさぁ……そんなこと言われたら、信じない訳にいかないじゃん、お前のこと」
     蹴られた地面からの反動が思いのほか強かったのか、漕ぎ出されたブランコがきい、と音を立てる。またひとつ、ひとつと砂を蹴る音が鈍く響き、段々と振幅が大きくなっていく。
    「お前が何考えてるかはわかんないけどさぁ、禰豆子ちゃんを泣かさない炭治郎でいてくれるなら、俺はお前を信じるよ」
     不意に、ブランコの揺れの中に光るものが見えた。街路灯に照らされたそれはほんの小さな欠片だけれど、はらはらと流れては確かに輝いている。善逸のまなじりに浮かんだ涙。それは拭われる端からまたこぼれ落ちていく。
     ああ、変わっていない。
     とめどなく流れるそれをただ見つめながら、炭治郎はどこか安堵を覚えていた。
     臆病なところはあるけれど、優しくて、涙もろいともだち。彼が、変わることなく妹の側に居てくれたこと、そしてこうやって自分を慮ってくれていることが、どうにも嬉しくて。自然と、炭治郎の目元にも熱いものが込み上げる。
    「絶対泣かすなよ、ホントにだからな」
    「善逸……」
     しゃくり上げる善逸は、本来ならブランコの揺れで涙を隠したかったのだろう。けれど、そんな小細工も通用しないくらいに涙腺は決壊して、ぱたぱたと地面を塗らす雫が、弧を描いてブランコの軌道へとまき散らされている。そんな有様の友に、炭治郎は深く頷いて笑いかけた。
    「……ありがとう、心配してくれて。すごく、よく伝わったよ」
     途端にずざざ、と音がして、ブランコが止まった。ブレーキをかけた足下で、砂煙が立ちのぼっているのが見える。反動で前のめりになった善逸は、顔を上げるなり真っ赤な頬と瞼とを隠すこともせず炭治郎に向かってまくし立て始める。
    「あーもう! そうはっきり言うのが恥ずかしいから遠回しにしたんだろ!? ほんっと、とんでもねえ炭治郎だ!」
     散々に喚き散らしてから善逸はぷい、とそっぽを向いた。照れ隠しのつもりが騒いでいるうち涙も引っ込んだらしい。時折ぐす、と鼻を鳴らしてはいるものの、もう塩辛い匂いは漂ってこなかった。
    「必ず、約束する。もう絶対に禰豆子を泣かせたりしないし、その上で俺はあの人を迎えに行く。そう、決めたから」
     彼の声がもう箱庭から聞こえなくとも、あれがただの夢だったとしても、彼にもう一度会いたい。
     その想いは変わっていない。そして禰豆子に、周囲の皆に悲しい思いを抱かせたくないという気持ちも。だから、どっちも守ってみせる。分不相応で傲慢な挑戦かもしれないけれど、そのくらい出来ずして、どう現実を生きるというのか。
     自分は、民尾の現実になると言ったのだから。
     それなら、地に足をつけて精一杯に生きるだけだ。自分の出来ること、すべきことへ最大限に手を伸ばしながら。
    「……俺も、また周りのことが見えなくなることがあるかもしれない。そうしたら、善逸。禰豆子を守ってやってくれないか。善逸なら、絶対に禰豆子を気遣って大切にしてくれるだろ」
    「ばっ……」
     元から夜闇の中でも明らかなほど赤くなっていた善逸の顔が、更に赤みを増した。それまではなんとか引き締められていた表情が、また緩みきった笑顔へと崩れていく。
    「いやあ、ね! 実兄からのお墨付きとか……! これはもう結婚じゃない!? 俺と禰豆子ちゃんの門出……ねえ!?」
     大仰に手足を振り回し、善逸は奇声を上げる。じたばたと身体をくねらせる度にブランコの鎖が撓み、重たい音を立てる。暴走する彼をよそに、炭治郎はいかにも不思議そうに首を傾けた。
    「結婚って……それは善逸と禰豆子が決めることだろう? 俺がどうこう言う問題じゃない」
    「あ……」
     あまりにも朴訥で冗談の通じない炭治郎の言葉に、たちまち善逸の声が引っ込む。浮き足だった気色が途端に萎れて、ブランコの渡し板へと再び小さく収まる。
    「まあ、そうだよな……うん」
     二人の間になんだか妙な空気が漂うものの、炭治郎はお構いなしに空を見上げた。胸に満ちる暖かいものとともに。
     黒い空。針で突いた程度の光の穴が数えるほどに空いている、べったりと暗い色の。強い地上の明かりに遮られて、どこか淀んでいる。
    「星、よく見えないな」
    「そう? こんなもんじゃない?」
     疑問符を隠すこともない善逸に、炭治郎は首を仰がせたまま答える。
    「病院はさ、夜空がすごく綺麗だったんだ。山の上だったから」
    「ふうん……」
     炭治郎は天頂へと手を伸ばす。淡く儚い輝きたちに向けて。まるで夢のように、不確かで、だからこそ憧れを惹いて止まないちいさな光。それらは掴み取るにはあまりに遠く、諦めるには眩すぎる。
     だけれど、きっと手を届かせてみせる。
     ひときわ強い輝きを放つ星へと狙いを定め、炭治郎は思いきり拳を握りしめた。そうしてそのまま視線を空から外す。鉄柵の向こうに茂る植え込みの暗さが、今さらながら目に染みる。何度か強く瞼を閉じて、炭治郎は大きく息を吐いた。いま、あの星は閉じた掌の中に入っている。そう、信じながら。
     善逸はしばらく曖昧な顔で炭治郎の方を見ていたが、やがてまた足下を蹴ってブランコを漕ぎ出した。膝で空中を掻き、振れ幅が段々と大きくなっていくのを目の当たりにして、炭治郎も自然と身体を動かし始めていた。そのまま、ふたりは競い合うように無言でブランコ遊びに興じ始める。星へと近づいては遠ざかるふたつの振り子が、夏の夜を裂いていく。
     やがて頂点近くへと辿り着いた善逸は鎖から手を離すと、柵を越えて綺麗なフォームで着地した。炭治郎も遅れること数テンポの後、空中へと身を躍らせる。放り出された身体が、すごい力で地面へと吸い寄せられる。衝撃にほんの少しよろけてしまったものの、善逸と並んだ位置になんとか足を留めることが出来た。
     体勢を立て直したところで、二人は顔を見合わせて笑った。暗い、けれども確かに星の輝く空の下で。

    「じゃ、明日商店街の入り口で待ち合わせな」
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     今いるこの四階に、自分の病室があるのだという。
     先程上がってきたエレベーターの中で説明された筈の情報ではあるが、どうにも実感が湧かなかった。それどころか、今日からこの診療所に転院してきた自分を、童磨が施設の入り口で出迎えてくれたときの情報も、もう既に酷く遠い。記憶は確かなのに、まるで、ほんの少しだけ過去の自分と現在の自分が、透明な壁で隔てられてしまっているかのように。
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