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    Soqi7O

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    Soqi7O

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    金魚売りのはじめちゃんと人間に化ける金魚の立香ちゃんの話
    岡本かの子の金魚繚乱と室生犀星の蜜のあわれのパロディみたいなものです。
    漫画のプロットに書いたものを小説っぽく整えました。前半はモブキャラ視点です。好きな人だけどうぞ
    ※時代は戦後の昭和をイメージしてますが金魚の値段は現代参考にしてます。金魚の飼育法については素人調べなので雰囲気だけです。あしからず

    金魚姫一、金魚売りの男

    私は近所でも有名な金魚の愛好家である。若い頃に苦労して働いてばかりいたので、子供が大きくなってそれぞれ自立していくと私はすっかり暇になってしまった。そんなとき知人が、うちで飼えなくなったので飼わないかと私に1匹の金魚を託した。犬猫を飼った経験はあるが水棲の生き物は全くの未知で、貰った当時は世話も細君に任せきりだった。金魚とは不思議な生き物で、犬猫ならば餌をやればあとは勝手に育つものだが、これは毎日水を入れ替え丁寧に世話をしてやらないと死んでしまう。元はフナだというのに大変手のかかる繊細なものだった。しかし、毎日手間暇をかけて育てれば育てるだけ美しくなるような気がして、私はいつしかこの生き物にすっかり魅了され、のめり込んでいた。
    庭に立派な池を拵えて、様々な金魚を放して自由に泳ぐさまを楽しんだ。そんな様子を見て、細君よりも金魚を大事にしていると噂されるほどになっていた。
    品評会があればどんなに遠方でも足繁く通い、やれ新種の色柄ができただの交配がうまくいっただのの話を聞きつけては飛んでいく。果ては同じ金魚好きの愛好家の集まりを作って毎週金曜の夜に酒を交わしつつ銘々に自慢の金魚を見せるようなこともした。

    今夜もそんな集まりだった。

    色のいい蘭ちゅうが手に入ったと仲間に招かれて、私は手土産に箱寿司を持って出かけた。6月の終わり、梅雨も明け、ぬるい空気が徐々に熱を帯び始めた夜のことだった。心ゆくまで金魚を堪能し宴もたけなわといったところで、ふいに仲間内の一人がこんな話をし始めた。
    「近ごろこの界隈で移動式の金魚売りが出るそうです」
    「夏になりましたから出るでしょう。3丁目の親父さん、腰が痛いんで今年はもう縁日でしかやらないと言っていたのに。精が出ますな」
    「縁日の金魚なんかいけません。あんなのは女こどもが喜ぶように出来ているんだ。ちいちゃくて弱い金魚しかいないんだから可哀想じゃありませんか」
    「いえいえそうじゃありません、親父さんじゃないんですよ。若い男がね、マァ若いっていったって我々から見ればというだけで、三十路の越えたくらいだとは思うんですが」
    おや、と私は辛口の酒を舐めながら耳を傾けた。いくら金魚の道楽が大衆化したと言っても、私たちほど熱を上げる連中はまだ少ない。いわば狭い界隈なのである。よって新参の愛好家や金魚売りが出るとなれば興味津々になるのも無理からぬ話だった。その金魚売りというのはどこぞの金魚屋の倅なのだろうか。なんにせよ若い人がこの小さな生き物の美しさに魅了されたのならば嬉しいことだと気持ちよく話を聞いていたが、なんだかだんだん妙な方へ話が進んでいた。
    「それがねえ、神出鬼没といいますか。陽が落ちて一瞬の夕刻に現れるんだそうです。リヤカーだか車輪のついた台にそれはそれは美しい金魚を乗せて売るんだそうです」
    「あなた酔ってるんじゃないの」
    「とんでもない、私はまだお目にかかったことはないが、長い髪のハイカラな男がね、売ってるって噂ですよ。妻がそう言うんです、見たことない金魚売りのお兄さんがいたわよって」
    私はやれやれと呆れながら酒を煽って、片手間に話を聞くふりだけしてうんうん頷いた。きっと今日の主催の金魚があまりにも綺麗だったので嫉妬して、なんとか興味を引く話でもしてやろうと考えた創作に違いない。新しい人が入ってきたかと年甲斐もなく胸を躍らせた自分が急に恥ずかしくなって、私はなんだか顔を上げられずに杯を見るばかりだった。結局その胡乱な話はそれきり発展することもなく、いやに白けた空気だけが取り残されてしまった。気を遣って別の話を持ちかけてみたが、もう今日はお開きにしましょうと言われ、皆がそれに従い帰り支度を始める。件の金魚売の話を持ちかけた男は帰り際まだ何か言いたそうな顔をしていたが、これ以上恥を晒さずともよいだろうという仲間内の憐憫を帯びた視線についに耐えきれなくなって足速に家を出て行った。
    私は妙な気持ちを胸に抱えたまま、初夏のぬるい風を浴びてひどく重い足取りで家路を歩いた。どこか適当な店で飲み直して帰ろうかと辻を曲がると街頭がめっきり見えなくなってくる。あまりここら辺を歩かないので道でも間違えたのだろうか。
    「もう一つ先の角だったかな」
    誰に言うでもなく呟くと、男の目線の十間ほど先にぼうと明かりが見えた。何かの屋台だろうかと通り過ぎようとすると、そこには奇妙な出立ちの男が立っている。
    女のように長く癖のある頭髪、目は炯々として隈が深く、鼻筋は整っていた。
    その顔面の下には筋肉質な体があり、それを麻の浴衣で包んでいた。
    齢は三十を半ば超えたあたりだろうか。最近そんな特徴を誰かから聞いたような…
    「いらっしゃあい」
    ふいにその妙な男が声をかけた。胡散臭い声色に私はびっくりして、しどろもどろになりながらぎこちない愛想笑いを浮かべる。不思議なことに私の方が二十は年上とみられるのに、その男のなんともいえない雰囲気にすっかり気圧されていた。
    「お兄さん、金魚どうですか」
    金魚。
    その男の出立ちにばかり囚われていた私だが、少し目を下にやるとどうだろう。大小様々の水槽にいくつも魚が泳いでいた。それらはやはり金魚であった。和金を中心に粒揃いの美魚がそろっているではないか!
    「これは…いや、私は金魚に目がなくてね。きみ、みない顔だけどどこかに店を構えているのかい」
    私の食い入るような問いは無視して、男はにこにこしてどの子も別嬪ですよと答えた。確かにどれも見事だった。珍しい種類があると言うわけではないが月明かりに照らされた鱗が美しく光っている。私はもう夢中になって、新しいおもちゃを探す子供のように、端から端へと水槽をじっと睨め付けた。興奮で荒くなった鼻息がガラスを淡く曇らせている有様だった。
    すると私は一つの小さな金魚鉢を視界の端に捉えた。それは金魚売りの男の一番手元にあって、そこだけ神秘的に隠されているようだった。
    そこには1本だけ入れられた水草に紛れて小さな赤い金魚が1匹棲んでいた。
    丸く愛嬌のある体に、貴婦人の羽織るレースのショールを思わせる華美な尾びれをしている。大変に元気がよく、水草を遊ばせながら踊るように泳ぐ様は、その美しい肉体をわざと私に見せつけているようにさえ思える。大きな目は金色で、なんといっても鱗の色艶が良く、泳ぐたびに朱色や橙に輝いていた。
    「気に入った子はいました」
    「きみ、この子は」
    隠しきれない興奮を露わにした声で私は言った。金魚売りの男はああ、と一言呟いてどこか誇らしげな顔をしている。
    「うちで一等かわいい子だよ。お客さん、見る目あるね。でも残念、この子は売りもんじゃないんでね」
    「そんな」
    そのとき私は一瞬で深い絶望の最中に身を置いた。
    金魚売りの男が一等かわいいと豪語するのも納得できるほど、この金魚の美しさは飛び抜けていて、他の金魚をと言われても私はもうすっかりこの金魚に心を奪われていた。
    それに、私はこの年下の金魚売りよりも金魚に対する知識と愛情を十分に持っているはずだと自負していたので、この挑発的で無下な断りにかすかに腹を立てていた。
    そして大変に浅ましいこととはわかっていながら、この世のたいていのことは金でどうにでもなるし、この男もきっと大枚をちらつかせてやれば言うことを聞いてくれるだろうと思った。
    それほどまでに私は、どうしてもその金魚が欲しくなっていた。
    「二万でどうだ。リュウ金なら相場の最高額だろう。むろん、足りないというのであれば上乗せするが」
    素人が見たならたかが小魚1匹にニ万も出す馬鹿がいるかと笑うに違いない。細君などがもしこの場にいたら、神経の細いあの女は青ざめて倒れることだろう。そしてこの男も最初に高額を提示してやれば面食らって考えを改めるかもしれないと淡い期待をした。
    しかし男は頷かなかった。
    「金額じゃないんでね。いくら積まれてもこの子は俺のだ。あんたにゃやらんよ。でもその審美眼に免じてこの子のきょうだいなら売ってもいい」
    金魚売りの男の言葉の端からいらいらした様子が窺えた。だが私は懲りずに詰め寄る。
    「いいや、それが欲しい。わかった、小切手をやろう。好きな額を書きなさい。それで、」
    「お客さん」
    さっきまでの軽薄な声色が嘘のように、剣呑を纏った声が凛と路地に響いた。数軒先の飲み屋の雑踏が消え、不気味なほど辺りが静まり返っている。
    男はうすら笑みを浮かべそれきり何も言わないが、その隈の深い枯れ葉の色をした目には強い非難と、まるでこちらを切りつけるような冷たい鋭さがあった。私はすっかり気圧されて、もごもごと口籠った。絶え間なく嫌な汗が背中をつたい、手足の末端が冷たくなってくる。暑い夜だと思っていたのにかすかに体が震えていた。さらに、一瞬その男の浴衣に現代ではあるはずのない刀身がかかっているような幻覚を見て、私はもうすっかり萎縮してしまった。比喩ではなく、きっとこれ以上私が一言でも口答えをしようものなら、今にも斬りかからんばかりの男の殺気があるのは確かで、喉笛に鋭い剣先が突きつけられているような心地になった。あまりにも強烈な死の錯覚に紳士という自覚を捨て、情けない声を上げながら逃げ出したいほどであった。
    その時だった。
    その緊張を断つようにちゃぷんと鈴のような音がした。それは、あの金魚鉢のリュウ金が、素晴らしい尾を水面に叩きつけた音だった。それを見て金魚売りが小さく舌打ちした。相変わらず金魚はこちらを誘惑するように気ままに泳いでいるが、そのなんとも和やかな間のおかげで私はやっと呼吸をして心を落ち着かせることができたのだ。
    「わかった、わかったから」
    その剣を鞘に収めてはくれまいか、と心の中で念じるとすっと男は人好きのする笑みを見せて「そうかい」と呟いた。

    その後のことはあまりよく覚えていない。
    いくつか金魚を紹介してもらったような気もするし、恐ろしくなって足を絡れさせながら逃げ出したような気もする。
    お気をつけて、と金魚売りの小馬鹿にするような挨拶を背中で受けながら落胆して帰っていったような気もする。
    とにかく私は気がつけば良く見知った飲み屋の通りを歩いていて、見慣れた喧騒と風景にひどく安堵して、そのまま狐につままれたような心持ちで家路についた。

    家に帰ると、お風呂になさいますかといつものように細君が出迎えてくれた。
    私は妻の顔を見るなり、先ほどの恐ろしい体験を鮮明に思い出し、妻の胸によりかかりしばらくがたがた震えていた。
    湯浴みを済ませ、早くさっきのことを忘れるようにと酒を呷った。いくらか落ち着きを取り戻し、部屋に置いている水槽の中を見ていると、やはりあの出来事は悪酔いをして見た夢のようにも思えるが、あの小さな金魚鉢のリュウ金の鱗の美しさだけはたしかなものとして私の中に未練のように残っている。
    今度愛好家の集まりがあったら、あの話をしてくれた仲間にすまないと謝るべきだろうか。きみの言ったことは本当だった、と。
    いや、しかし…。
    私は今夜のことは胸の内に大事にしまっておいた方がいいような気もして、それっきり考えるのをやめ、大人しく暖かい布団に埋まって、深い深い眠りについた。


    二、金魚姫

    カラカラと車輪の音がする。繁華街から離れて入り組んだ道を歩いたその音は、町外れの一軒家で止まった。
    ガチャガチャと立て付けの悪いガラス戸を乱暴に開けると、ヒヤリと石造りの床の冷気が足を覆う。裏戸を開けると離れの小屋があった。雑草が鬱陶しくなったのでそろそろ刈らねばならない。この小屋も立て付けが悪く、開けるのに少しコツがいる。 
    小屋の中は絶え間なく水の流れる音がして、そこには大きな生簀が6つほど備え付けられていた。生簀の中には大小様々な金魚が泳いでおり、ぷかぷかと水面に浮かんでは愛らしく口を開けていた。男は桶に入った餌をいくらか掬って水面に撒いた。
    「…満足した」
    それは水面を食らう金魚に向けられた言葉のように思われたが、男の目線の先には一人の女が立っていた。小屋の入り口に立っているので、月明かりで輪郭だけが神聖な雰囲気を纏って浮き上がっている。明るい橙の髪を伸ばし、猫のような吊り目は少女としての誇りを全て詰め込んだような自信を讃えている。朱色のワンピースを肩から引っ掛けて、丸く白い肢体を惜しげもなくさらしている。スカートの裾には幾重にも透ける襞がついており、歩くたびに心地よい音がした。歳の程は16くらいで子供と女のちょうど中間のような幼さと色気があった。
    先ほどの男の発言はこの女に向けられたものだった。
    「うん、楽しかったよ。でもはじめちゃん、お客さまを威嚇しちゃダメじゃない」
    「お前がついて行きたいっていうから連れて行ったのに、よその男を誘惑するからでしょ」
    「だってはじめちゃんいつもわたしを置いていくから、外でどんな商いをしてるのか見てみたくて。それと、誘惑なんてしてません。ただ泳いでいただけだもん」
    ころころと楽しそうに笑う女に、はじめちゃんと呼ばれた男はどうだか、と湿っぽいため息をついた。
    「あのおじさま、優しそうだったな。わたしのことすごく気に入ってくれたみたいだったし、とってもお金持ちだし。わたしあの人のおうちの池を何度か見たことあるんだよね。今度訪ねてみようかな。びっくりするかも」
    「立香」
    怒気を孕んだ声だったが、立香と呼ばれた女は気にもとめないで、生簀の縁に腰掛けて、指先を水面に滑らせた。餌だと思った数匹の金魚がその指に吸い付くのを愛おしそうな目で眺めて、またよく笑った。機嫌良く組んだ足先が揺れている。
    「冗談だよ。わたしにははじめちゃんだけ」
    その言葉に半信半疑になりながらも自然と口角が上がってしまうのを男は自覚していた。
    「あんな男やめとけよ。金持ちって言ったって、どうせただの新しいもの好きなんだから」
    「確かに誠実さはないかもね。でもあのおじさま、わたしのことかわいいって言ってくれたのは嬉しかったな。どきどきしちゃった」
    「言ってないでしょ」
    「目で言ってたの!だって他にも高価で綺麗な子はたくさんいたのにわたしを見つけてくれたんだから」
    「お前は一番かわいいし一番綺麗だよ」
    「はじめちゃんに褒められたって嬉しくないの。いつもそう言うんだから」
    そうつっけんどんな態度をとりつつも、女の頬は明かりの少ないこの小屋の中でもはっきりわかるほど紅潮していた。
    もじもじとスカートを揺らし照れ隠しと言わんばかりに忙しなく生簀の水面をいじくる様子があんまりかわいいので、つられて男も嬉しくなった。水槽の掃除をやめて女の座る生簀に近寄ると女の肩がぴくりと揺れる。顔に沿って流れる髪をかき分けて白い頬を撫でてやるとほんのり熱を帯びている。
    「こんなにお前のことが好きなのに、お前は僕に冷たいね」
    頬は赤いままに眉を少し吊り上げて、女は男の手を振り払った。
    「いろんな子にも言ってるでしょ、それ」
    「言わないよ。立香ちゃんにだけ、」
    「嘘。2丁目の通りのカフェの女の子にも言ってた」
    不貞腐れてじっとり目を細めて糾弾する女に、男がたじろぐ。確かに言ったかもしれない。男はその女好きが高じてついに金魚を口説くほどである。その軟派で軽薄な部分もこの男の魅力のひとつであり、たいていの生娘は男に少し褒められると上せてしまうありさまだった。男も、女が何を言えば喜ぶか、どんな言葉を欲しがるかをじゅうぶんに理解していた。男にとってはほんの挨拶のようなもので、深い関係に至るための工程ではなく、遊びのようなものだった。少なくともこの女以外では。いや、それよりも。
    「立香、僕に内緒でその姿で出かけるなって何度も言ってるでしょ」
    「大丈夫だよ。ちゃんとお水は飲んでるし、日傘だって買ってくれたでしょ。たまには日光を浴びないといけないし、はじめちゃんの浮気現場も押さえておかないと」
    「押さえてどうするの。いや、そもそもね、浮気じゃないって」
    「うーん、わたしの水槽にね、ガラス玉を入れたら綺麗かなって」
    「おねだりに使うのね…。いっぱいは駄目。敷き詰めたら体が挟まって傷つくかもしれないし。ふたつ、みっつくらいならいいよ」
    男はこんなかわいいおねだりくらいいくらでも聞いてやるのにと思いながら、立香がどれだけ自分の軽薄さを責めてもそれが本気でないことをわかっていた。たぶん、たとえ俺がよその女を抱いたと言っても立香はあまり気にしないだろう。それだけ俺が立香に囚われていることをこの女はしっかり自覚していて、それは事実に他ならない。俺がよそで遊んだことを気にして怒るふりはしていても、自分がしっかり愛されているという自覚があるから、本気で怒ったりはしない。それが少しだけ悔しい─。そう思っていた。
    惚れた弱みとはよく言うが、男はこのどうしようもなく甘ったれで天真爛漫な金魚を心の底から愛している。
    「じゃあ明日一緒に探してくれるおもちゃ屋さんにあるのかな。それともかんざし屋さんかな。はじめちゃんの髪の色とおんなじ青色のが欲しいの。毎日それを眺めていられたら、はじめちゃんがお店に立ってここにいない時でも寂しくないでしょ」
    そう言ってさっきまで吊り上げていた眉尻を下げて、照れるようににこりと笑った。
    ああ、この女は。
    そうやってこちらが嬉しくなるようなことを無自覚に言うのだから質が悪い。生簀に映る自分の顔があまりにもだらしなく歪んでいるのが見えて、男は誤魔化すように水面を指で撫で付けかき混ぜた。水流に驚いた金魚が男の指の周りを行ったり来たりしている。
    稚魚の頃から丹精込めて育て上げたこの金魚は、すっかり男の好むように成長してしまった。気まぐれで生意気だが人を惹きつける愛嬌といじらしさがある。頑固で聞き分けがないかと思いきや、びっくりするほど甘えたで素直な側面も持ち合わせている、まさに理想の女だった。泳ぐたびに色の変わる鱗のようにコロコロとこちらを惑わせる魔性になってしまった。一体誰がこんなふうにしたのか。俺のせいだろうか。
    この女の言う通り、できることなら片時も離したくないと思うのはやまやまだが、商いの隙に盗まれでもしたらと思うと、ひっそりこの離れで囲う方が安全に思えた。今日もさんざん強請られて、渋々了承して商いに連れ出したが、やはり自分のように魅せられた者にはこの金魚の素晴らしさがわかるらしい。今日のことでより一層他の金魚と一緒に表に出すべきではないと確信が持てた。それでも度々女の姿になって出掛けているというのだから男の気苦労が絶えることはない。金魚というより天敵の猫のようじゃないかとすら思う。いっそこの姿にも非売品の札でも貼り付けてやろうか。
    「はじめちゃん?」
    返事もなしに手持ち無沙汰に頭を撫でられ続けていることにじれったくなったのか、小首を傾げる仕草で女が呟いた。はっと我に帰ると、女は眠そうに目を蕩けさせて男の意識が深い思考の底から帰ってくるのを待っている。
    「そうだね。じゃあ明日は昼八つから店を開けることにする。そら、きょうだいの所に戻りな。もう寝る時間だろ」
    取り繕うようにそう言って、男はその小さな頭に口付けた。甘いような浅瀬の水の匂いがした。
    「一緒に寝てくれないの」
    女は、昼間は気まぐれに出て行くくせに夜は孤独に耐えられないのか男を恋しがった。男もこの金魚には甘いので最近はずっと閨を共にしている。
    女は寂しさを声色に乗せてめいっぱい潤んだ瞳を揺らしている。思わず男の喉がごくりと鳴った。しかし今日はもうじゅうぶん女の我儘に付き合ってやったし、あんまり調子に乗せるのもよくない。それに自分の悪い癖だとはわかっているが、もっとその可愛げを堪能したくて、つい意地悪をしてしまう。そうだ、この女の真髄はこちらの甘い加虐を駆り立てるようなしぐさにあった。
    「駄目だ。俺の言いつけを守らなかったし、他所の男にいい顔したんだからお仕置きだよ」
    そんなぁ、と女は今にも泣き出しそうなか細い声で抗議する。
    「おやすみのキスは?口にもしてくれないの?」
    襷でまとめた男の浴衣の裾を弱々しく摘んで懇願する様はどんな上等な酒よりも男を酔わせた。男は、鋭利なもので刺されたようなちくちくした胸の痛みと葛藤をなんとか振り払って、長い沈黙の末にやっとだめなものはだめだとそっぽを向いて、甘い誘惑を跳ね除けた。
    その様子を見て、女も渋々と言った様子ではぁい、と小さく返事をする。その声にまた良心が痛まない訳でもないが、それよりも、じんわりと広がる耽美な征服欲のほうがはるかに胸の内を占めていた。男が向こうを向いていてその甘さを享受している間に、ちゃぷんと飛沫を一つたてて金魚は水槽の中に帰っていった。
    おやすみ、と声をかけると遠くの方で水の揺れる音がする。その音を聞いて、男は安堵して小屋の明かりを全部消した。立て付けの悪い戸をしっかり閉めて母屋に帰る。満月がちょうど空の天辺にあり、たまに流れる雲がなんだか寂しかった。

    結局。
    そのあと一人で就寝についた男だったが、深夜になっても寝付くことはなく、そわそわした気分で小屋に戻り、眠っている愛しい金魚を水槽の中から探し出し部屋に連れて帰ることになる。
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    岡本かの子の金魚繚乱と室生犀星の蜜のあわれのパロディみたいなものです。
    漫画のプロットに書いたものを小説っぽく整えました。前半はモブキャラ視点です。好きな人だけどうぞ
    ※時代は戦後の昭和をイメージしてますが金魚の値段は現代参考にしてます。金魚の飼育法については素人調べなので雰囲気だけです。あしからず
    金魚姫一、金魚売りの男

    私は近所でも有名な金魚の愛好家である。若い頃に苦労して働いてばかりいたので、子供が大きくなってそれぞれ自立していくと私はすっかり暇になってしまった。そんなとき知人が、うちで飼えなくなったので飼わないかと私に1匹の金魚を託した。犬猫を飼った経験はあるが水棲の生き物は全くの未知で、貰った当時は世話も細君に任せきりだった。金魚とは不思議な生き物で、犬猫ならば餌をやればあとは勝手に育つものだが、これは毎日水を入れ替え丁寧に世話をしてやらないと死んでしまう。元はフナだというのに大変手のかかる繊細なものだった。しかし、毎日手間暇をかけて育てれば育てるだけ美しくなるような気がして、私はいつしかこの生き物にすっかり魅了され、のめり込んでいた。
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