プラネタリウム 全てはほんの思いつきで、深い意味などなかった。大学のサークル仲間が、連休に山へ行ったのだと自慢げに星空の写真を見せてきたのを、へえーそーなの、なんて話半分で聞いていて、その日の帰り道にコンビニで、最近寄らなくなった雑誌コーナーに置いてあった科学雑誌が目にとまって、先程までの話題もあってかなんとなく好奇心が湧いて。気がつけばアパートの部屋に、手作りの満天の星空を広げていた。
四畳半の格安賃貸も、厚手のカーテンをきっちり引いて蛍光灯を消してしまえば、色あせた壁紙の汚れもけばだち気味の畳も消えて、星々と自分だけになった。かなり狭いがプラネタリウムの完成だ。
(つくりものとはいえ、星なんて眺めたのいつぶりだろ)
上京してからというもの、夜空を見上げるような時間も環境もなかった。なんだか童心に帰る心持ちだ。
(高校のころは部活帰りとか、星見てたっけ?)
地元ではある程度晴れていれば、一面の星空がいつでも拝める。部活帰りの道すがら、気の知れた面子で、あれは何座だあれは何星だとたわいもない話で盛り上がっていたのが、随分昔のことのように思える。
俺とか隼人くんはさっぱりだったけど、獅音くんと英太くんは以外と詳しかったよなあ。工は太一と賢二郎に嘘教えられてからかわれてて。…
あのころからは、何もかもが変わった。部の仲間は各々の道を進み、かつては毎日顔を合わせていたのに今では年に一度会うのが精一杯だ。
かく言う俺もバレーをやめて、地元を出て東京の大学に通っている。なかなかつかなかった筋肉はかなり落ちて、ひょろりと細長い体がさらに細くなった。練習の一環と死ぬほど食べさせられた食事は日に二回しか食べない日もあるし、ジャンプも読まなくなった。
そこまで考えてから、懐かしい声が耳の奥で響いた。
────あの星は天童に似ているな。
忘れられない、思い出さないようにしていた声。深くて落ち着いていて、それでいて胸の奥の柔らかいところを鷲掴むような、大好きな声。若利くんの声。
その声で彼は、蠍座の中でもひときわ目立つ、赤くて大きな星を、恥ずかしげもなく、俺のようだとそう言った。そのアンタレスは今、俺の部屋の隅に、他の星に紛れそうになりながらくっついている。作ったときどうしても赤色がうまく出なかったので、何の変哲もない白い星だ。
若利くんは今どうしているだろう。部屋の真ん中に座り込んで星を見ながら、かつてのマブダチのことを考えた。
本当はこれからもマブダチでいたかったけど、若利くんとは、高校を卒業したことをきっかけに、自分から疎遠になった。この薄い胸の奥に沈んだ気持ちの正体に気付いてしまったからには、もうマブダチではいられなかった。
以前スポーツニュースで特集を組まれていたのを見たときは、あまりに変わっていなくて、懐かしさと切なさで胸がぎゅうと締め付けられたのを覚えている。もちろん高校のころよりもっと強くなっていたし、体も大きくなってはいたが(…と同時に顔も心なしか少し大人びて、今までとはまた違った魅力が備わっていて、なんだかドギマギしてしまった)。
きっと今この時も、彼はバレーのことを考えていて、超のつくバレー馬鹿で、誰もが認める大エースだ。これまでもそうだったし、これから先、まわりがどう変わろうと、彼だけは変わらず彼であり続けるだろう。
星々を部屋中に投げかけている台紙を回し、タコやマメのすっかりなくなった指でドライバを握って、どの星より大きな穴をひとつ、開ける。
台紙を元の位置に戻して、白いアンタレスの対角を見上げた。
ひときわ高いところで強く美しく輝くその星に、歩み寄って、背伸びをして、そっと指先で触れる。
「…若利くん」
呼んでから、恥ずかしさやら虚しさやら切なさに、思わず顔を歪めた。
所詮これは偽物なのだ。つくりものの夜空に浮かぶ、ありもしない星だ。だから触れられるだけで、
本物には、触れられるはずがない。
あげていた腕をカーテンに伸ばして、窓と一緒に開け放つ。排気ガス臭い外気が頬を撫でた。
この街の空には星がない。のっぺりとした、黒にもなりきらない夜が広がっているだけだ。
なにもない本物の空を見上げながら、この空の下、どこか遠くにいる男に思いを馳せた。
どうか、どうか君は変わらず、強く大きく輝いていてほしい。
誰かに呼ばれた気がして、足を止める。振り向くが、それらしい人は見当たらなかった。空耳だったのだろうか。再び走り出す。
朝晩二回の軽めのランニングは中学生のころからの習慣だった。あくまで自主練習なので、いつも一人で行なってきた…一時期を除いては。
高校三年でバレー部を引退してから卒業するまでの四ヶ月と少しの間は、ランニングに天童がついてくることがままあった。何故一緒にランニングをしたいと言い始めたのかは聞けずじまいで、謎のままだった。
規則的な呼吸の合間に、かつてのチームメイトのことを考える。ゲスブロッカーで、線は細いが試合では頼りになって、小食で、そのくせチョコレートのアイスは好きでよく食べていて、俺をマブダチだといい、何かと隣にいた。
最後に会ったのはいつだったか。先月の部の同窓会には、大学のサークルの遠征とかぶってしまって顔を出せなかった。その日の夜ほろ酔いで電話をかけてきた山形が、そういや天童も来てないんだよ、と話していた。
卒業前に、東京の大学目指してんだよね、やっぱ一生に一度はトーキョー住み経験しときたいし!と話していたし、その後第一志望に合格したという話も耳にしたので、おそらく共に上京しているはずだが、卒業式以来、特に会おうという話になったことはない。
いつだったか、バレーを高校でやめると話す彼に、惜しむ気持ちを伝えたことがある。ゲスブロックを専門とする選手はそういない。母数が少ない上、あれほどまでの精度でドシャットを決められる選手となると、まず日本では相当少なくなるだろう。なにより、小中と恵まれない環境にあった(と本人に聞いたことがある。指導者ともチームメイトとも衝突が絶えなかったらしい)にも関わらず、自分のスタイルを貫き通せる芯の強さは、並のものではない。
だから惜しい、良い選手なのに、と話すと、どしたの突然!?と驚かれた。そのあと、ありがと、と呟いた彼の、大きな目を日向の猫のように細めた笑顔が印象的だったのを覚えている。
思い出すうち、会いたいな、と、ふと思った。本当に何気ない、ちいさな感情だったが、一度そう思うと、どんどん膨らんでいった。会いたい。他愛もない話をしたい。あの頃のように笑った顔が、また見たい。
今夜にでもメールを送ってみようか。まだ遅い時間ではないし、電話でもいいかもしれない。
次から次へ思い出される軽やかな口調につられたのか、心なしか先程よりも軽く感じる脚で、乾いたアスファルトを蹴って、家路を急いだ。
────物思いにふけっていた天童が、まさに想いを馳せていた相手からの着信を告げる携帯を見て飛びあがるのは、また別の話である。