あなたは泡になって消える 「海へ行くなら、駅からバスが出ていますよ」というのは女中の話で、行く気などさらさらなかったのに、チェックアウトの時間になってもまだしつこく海の話をされたから、結局海へ行くことになった。「綺麗ですよ、この時期の海は、人ももう少ないでしょうから」とにこやかに微笑む若い女中の話に付き合うのに、疲れたというのもある。「じゃあ行ってみます」綱吉は頷いて鍵を返した。「お出かけになっている間、お荷物お預かりしますよ」という宿の親切に結構ですありがとうと返事をして、宿代を支払い、頭を下げて宿を出ると、初秋の日差しが目をうつように眩しい。女中のお人よしそうなべに色の頬と、彼女の鈴を転がすような「いってらっしゃいませ」という声に送られて、彼らはいよいよ疲れきったものだ。行くも何も海など。別れを決意した二人に、こんな話はただ酷なだけである。二人の間に、何しろもう恋の高揚などないのだ。
宿を出る前、雲雀は女中の話にまったく無関心だった。「折角ですから、お行きになったらどうですか、まだお時間があるようでしたら」女中の親切心は綱吉を戸惑わせた。彼女のときめくような瞳には、なんの後ろめたい気持ちもないようだった。ただ純粋に、ここから少しバスで行った先に広がる美しい白浜の風景を、どうかこの旅行者に知ってもらいたいという優しい希望だけが彼女の口を動かしているようだった。困った顔をして、あるいはわざとらしく不愉快な態度で話を打ち切ろうかとも考えたが、女中は自分の提案に絶対の自信があるようで、えんえんと同じ話をしている。その堂々たる話しぶりに綱吉はついぞ会話の主導権を握ることが出来なかった。
さらに、先ほどまで女中の話になど微塵の興味も示していなかった雲雀が、海へ行く予定は今のところなく、今日はこのまま帰ろうと思っているんですよ、と女中に話した綱吉にいきなり「折角の親切心を無下するのか」と怒り始めたのが追い打ちになった。折角の親切心という言葉が雲雀の口から出たことに綱吉は半ば唖然として、「あんた海に行きたいんですか」と言うと、「そうだね」雲雀は売られた言葉を自然と買うようにそう答えた。
「最後くらい、しおらしく振舞ってみたらどうなんだい」
「今更あんたに見せるしおらしさなんてありませんよ。海へ行きたいなら一人でお行きになったら」
「可愛げがないね。宿の親切だろう」
海に対する興味など毛の先ほどもないくせに、と綱吉は思った。怒りの余韻のような足音を立てながら歩く雲雀の後ろを、綱吉は半歩ほど下がって付いていく。
何が気に障ってあんなことを言ったのか雲雀の心のことなど少しも分からないが、重たい荷物を両手に抱えながら、やっていることのくだらなさを考えると気分が酷く滅入った。宿から出て長い坂道を下って、駅前のロータリーに規則正しく整列するバスを見て、綱吉はもう帰らせてくれと強く願った。そのまま駅の改札をくぐり、自分だけでも電車に乗って、海の話など忘れて帰りたい、帰らせてくれ、いつも通りの日常へ帰りたい、帰らせてくれ……
「ああ、雲雀さん、あのバスですよ。そっちじゃなくって…」
それなのに綱吉は雲雀の背を呼び止めた。情動とも感傷とも言えるような、不思議な感覚が胸に起こるのが自分でも分かって、綱吉はそのことに少し動揺していた。このまま海へ出るバスの場所が分からず、迷ったままでいれば、雲雀はバス探しをいずれ諦め家に帰ろうと言ったに違いない。何が海だ、バカらしい、と掌を返して、先ほど自分が無下にするなと怒った女中の親切を余計なお節介だと言い直し、ふてくされながら電車に乗ったに違いない。このまま放っておけば、当初の予定通り二人は帰路につくはずなのだ。なのに。
雲雀は、昔から探し物が極端に下手だった。神経質なくせ、物忘れが激しいのだ。忘れ物を探しだすと、大抵の場合、綱吉のほうが先に雲雀の探し物を見つけてきた。今日だってそうだった。宿を出る前、雲雀は腕時計を探して部屋中を歩き回っていた。綱吉は暫く雲雀を放置していたが、雲雀はいつまで経っても腕時計を見つけられない。雲雀の堪忍袋の緒が切れて自分に八つ当たりをしてくる頃合いというものを、綱吉はこれまでの経験でよく知っていた。そろそろ例の嫌な癖が出る頃だな、というタイミングで、綱吉は雲雀に「これでしょう」と言って腕時計を渡した。雲雀は礼も言わず時計を受け取り、黙ってそれを腕に巻き付けた。留め具がはまる音がして、それから雲雀は綱吉と目を合わせようともしなかった。
今も同じだ。
二人は黙ってバスに乗った。
10分ほど走ったところで急に視界が開け、右手に海が見えた。白い光線が水平線を溶かしている。雲雀は興味なさげに目を一度くれただけで、あとは目を瞑ってしまった。自分から見ようと言ったくせにこうである。綱吉は財布から小銭をよって、人の居ないバスで人より幅をとって車内を陣取る重たい鞄を自分のほうへ寄せてから海を眺めた。白い浜に、ちらほらと黒い影が見える。泳ぐつもりで集ったのだろうか。
海へついてもやることなどなかった。大きな鞄を肩にかけたまま歩くのも面倒くさい。コインロッカーをわざわざ探して鞄を詰め、浜辺を歩くことにした。
こんな日に、いったい俺は何をしているのだろう、と綱吉は思った。きめ細かい砂浜は、快晴の空の下で燃えるように白く、眩しく、その熱は綱吉の思考能力を鈍化させた。大雑把にしかものを考えられなくなっている。まだ歩くか、もう歩かないか。立ち止まるか、立ち止まらないか。
二人は暫くの間、ただこの浜辺を歩いた。別れを迎える恋人たちの、最後の会話がこれなのか。だが来てしまったものは仕方ない。色々なことに抗うことのほうが、今の綱吉にはつらかった。
「僕はずっと苦しかった」
突然雲雀が言った。驚きはしない。二人は立ち止まる。綱吉はじっと水平線を眺めている。波打つ海。水平線は空と溶け合って、ほとんどその境目が分からない。遠くで、青い霧が海の肌を包んでいる。目が灼けそうに眩しい。
「俺だって同じですよ」
「同じか、君と僕の苦しみが」
綱吉は、一刻も早くここから引き上げたいと思った。こんな不毛な話をもう一度初めからしなければならないのなら、二人が計画した最後の旅行はそのすべてが失敗に終わったということだ。それだけは考えたくなかった。もう終わった話、終わらせた話、二人はこれから別の道を歩み他人に戻る。終わったのだ。別れを決め、約束をし、それが履行されるまでの最後の時間が今なのだ。雲雀を置き去りにしてでも、綱吉は一歩先の選択をしようと決めていた。揺るぎない決意、意志。
沈黙があった。
突然、雲雀がなだらかな砂丘を駆け下りた。「靴に砂が入りますよ!」という綱吉の咄嗟の忠告も、雲雀の唐突な駆け足の前にすぐ無駄になる。雲雀は靴を脱ぎ捨て、靴下を剥ぎ取り、シャツを捲くり、ズボンの裾をたくし上げて、砂の上を走り出した。
綱吉は困惑したまま雲雀の背中を追って、砂浜を走った。なめらかな砂にかかとが沈んだ。爪先で砂を踏みしめるたび、足の裏が熱かった。雲雀が立ち止まった。陸と海との境目で。波が押し寄せて、雲雀の素足を一度飲み、引いた。波だ、と綱吉は思った。波が聞こえた。海の囁く声だった。波は白く連なり、そのうち雲雀の足は砂にめり込んだ。足首まで沈んで、初めて雲雀が笑った。
「全部濡れますよ」
「もう濡れてるよ」
雲雀は足首を砂に沈めたまま屈んで、掌で海水を掬い上げた。ズボンが濡れているのにかまう様子もない。何を考えているんだ、と綱吉は思う。
遠くで誰かが打ち寄せる波にはしゃいでいる。大きな声が聞こえる。そのすべてを波の音が掻き消す。
ひときわ大きな波がきた。砂ごと抱き込むようにして、波は雲雀を海に引き寄せた。雲雀は抵抗しない。なされるがまま海に抱かれる。白い気泡だけが浜に残る。
綱吉は雲雀の名前を呼んだ。それ以上濡れたらどうするんですか。そう言った。雲雀は海の中で綱吉のほうを振り返った。雲雀の青白くこけた頬でも、笑えば赤みが差して丸みを帯びるようになるのだと、綱吉はこのとき初めて知った。君も来なよとでも言いたげな、熱に浮かされたような瞳が、綱吉にはただ新しかった。初めて見る雲雀の顔だった。
いやだ、と綱吉は思った。引きむしられるように痛い。胸が、心が。それが、いやだ。今更雲雀さんの新しい顔など知りたくない。今更こんな気持ちを知りたくない。そんな顔は見たくない。
「帰るときどうするんですか」
綱吉の問いかけに雲雀は「さあ」と答えた。雲雀はもう、全身が濡れていた。子供のように夢中で波と戯れ、すべてから解放されたような顔をしている。
何しているんだろう、こんな日に。俺は、白昼夢でも見ているんだろうか。
綱吉は雲雀を見てそう考える。
とてもくだらないことをしている。どうしてしまったのだろう、彼は。俺は。
「ねえ、沢田」
声がする。
「僕はもう、このままここで死にたい」
熱っぽい声だ。
「さようなら、沢田」
旅行の提案を持ちかけてきたのは、雲雀のほうからだった、それで終わりにしよう、と言った。海の見える土地へ行こう。綱吉はそう言われた。雲雀と海。今でも信じられない組み合わせだ。でも綱吉は頷いた。その提案を受け入れた。これが最後だと思った。だからせめて、言うことを聞いてあげようと思った。
旅行中、会話らしい会話はほとんどなかった。綱吉はそれでいいと思った。今更振り返りたい過去などなかった。懐古も反省も不要だった。下手なことを言うのも言われるのも嫌だった。何事もなくこの二日間を終えることが、これまでの関係を清算する唯一の方法のように思えた。
振り返ればただ堪えるばかりの日々だった気がする、と綱吉は考え、でもそれも、もう少しで終わりなんだ、と自分に言い聞かせた。別れたかった。間違いなく綱吉は、雲雀と別れて新しい人生を歩みたいと思っていた。その痩身のどこから出ているのか分からない力で綱吉を支配しようとする男の、幼稚で執拗な監視から解放されたかった。だから、ありったけの勇気を出して言ったのだ、「別れてください」と。雲雀は特段表情を変えることもなく、「そう」と言って綱吉とは目も合わせなかった。こんな簡単なことで終わるなら、なぜもっと早く言わなかったのだろう。
この別れに後悔はないと思った。夜が明けて、その日から、二人は他人になるはずだった。
そのはずだった。
雲雀が、今は目の前に居る。潮の匂いがする。雲雀の頬は赤らんでいる。
どうして。綱吉は思う。
「僕が死んだら悲しいだろう」
雲雀は笑った。今まで見たことのない表情で、綱吉の知らない笑顔だった。潮の香りが綱吉の鼻先で揺れる。濡れたシャツが雲雀の白い素肌に張り付いている。その裾を絞りながら、雲雀は綱吉に「君も入れば」と言った。
どうして。
綱吉はなぜ雲雀の頬が赤らんでいたのかを考える。
あなたはまさか、今日のために、今日この日の別れのために。
「泣いたんですか」
雲雀が何を答えたかは覚えていない。ただ、雲雀に抱きしめられて濡れた耳が、頬が、胸が、腕が、ずっと熱かった。
さようなら。
一言を絞り出すように告げた。
覚えていない、雲雀が何を答えたのか、綱吉は覚えていない。何も覚えていない。けれど、最後に触れた唇が、灼けるようだったことだけ、それだけ。
2008初出
2020加筆修正