カモメたち 「ごめん」と言う。
「今日で多分、最後だから、」
言いかけて、少し遠い目を、お前はする。
日々の記録をどこぞに書き残したとして、それでそいつが一体お前の何になる。この毎日はただ惰性に満ちて退屈で、俺とお前の生活の倦怠は同じ鍵盤を一定のリズムで叩くように単調だ。感情を、できる限り骨から削ぎ落として今日までを生きてきた。味のない、砂のように渇いた血を吐いて、俺たちの人生はただの消耗戦でしかないという現実の水槽に、指の隙間を零れる生命の塵を泳がせる以外に出来ることが他に何かあったのか? 俺は、なんの嫌味でもなくお前にそう問いたい。
自らの命さえ壊れもののように扱うことが出来なかったお前が、今になってどうしてそんなに必死になっているのかが、俺には分からない。どうしてお前が「今日」という日をここに留めようとするのかが、その理由が分からない。俺たちの生活には、もはや当然のようにあらゆる形容詞を伴えぬ虚ろの糸が張り巡らされていて、その網の目から外の世界を覗くことこそが、俺たちの生活の常であり全てだった。俺たちには未来永劫手に入れられないあの日常の景色が、まさしく俺たちの知らない色彩で描かれていることを思い知る度、お前は「まるで映画を観ているみたいだ」そう言って、誰かの大事なものを壊してしまって途方に暮れている子供のように、ひどく寂しい目をしたじゃないか。
安寧に身を委ねて、平穏の中に暮らし、連綿とただの日常が続いていく、そういうものは俺たちにとってフィクションやおとぎ話の世界の話と同質のものだった。
だから俺には分からない。お前が書き留めたいと言ったものの全てが、その必然が。
『今日のこと忘れたくないんだよ』
死に際の顔を互いに思い浮かべる時、原型のないふたつの顔がそれぞれ違う場所に並ぶ。俺たちは共に生きることも死ぬことも出来ないまま、たった一度繋いだ小指の先の関係に今際の際まで夢を見て過ごす。それでいいと互いの愚かしさを赦しあってきた。その「赦し」の延長線上に、擦り切れたボロ雑巾のようにいっそ清々しいほど摩耗したこの関係のほつれと傷みとがある。
俺はお前の手を離したくなかった。でもお前は俺の手を振り払うほどの情熱さえ見せずに、風が凪ぐような自然に身を委ねて俺の前から消えた。不意に消された炎の残香はあまりに虚しかった。一縷に立ち上る煙を掻き抱いた俺の胸にあいたこの穴の深さを、お前はきっと知る由もない。俺が苦しんだ時間、お前はどこで何をしていた?
『ズルイこと言ってるのは分かってる』
あらかたのことに諦めがついた。悔いなどない。その心に嘘はない。貫いたこの意地こそが俺を奮い立たせ、あらゆる恐怖を押し退ける。挫けるという選択肢を、自らの辞書から葬り去る。そのくせ、けったクソ悪い茶飯事が身の回りに起こる度、都度ご丁寧に頭が芯から疲弊する。意図するにせよしないにせよ、人は「かわいい我が身」という生き物の際限ない欲望の礫に自ら躓かずに歩くことなど出来ない。俺は結局のところ、片時もお前を忘れられなかった。諦観しても、忘却することだけが出来なかった。
俺たちの足元を照らすあかりはいつも覚束ず、目がその暗闇に慣れるまで、街灯は文明の息を失っている。
俺が求めたものはみな、水底に沈んで泥になった。俺が与えたものはみな、火に炙られて灰になった。お前は俺の前から消えて「無」になった。お前の楔になれなかった俺は、それから結局何にもなれなかった。変わることも変わらずにいることも、両方、出来なかった。
『でもこれが最後のお願いだからさ』
味のしないガムを延々と噛み続けるような無味の消化試合を、ただ無心に繰り返すこの空虚な日常は灰を被って、鼠色に淀む不安は泥となり感情の甕の底をにび色の汚泥で満たしていく。折れた足で懸命に大地を蹴って得た、絶望の重みに体が自壊していくあのうつろな心を、お前とて知らぬはずがないのに。
『俺、結局』
俺の前から居なくなったのはお前だ。
突然音もなく、お前は泡のように消えてしまった。そうして俺の世界から、お前はもう一度色を奪った。
『伏黒のこと、忘れられなかった』
いつかここから飛び立てるか、とあの日お前は俺に訊いた。俺は分からないと答えた。あの頃の俺は俺の中にある「答え」に無自覚だった。未成熟の魂は、剥き出しのままただ静かに燃えていた。告げねばならない想いさえ、その火の中に、薪のようにくべてしまった。でもそれはきっとお前も同じことなんだろうと、あの頃の俺は漠然とそう思っていた。自らの心に宿っていたとは未だもって信じ難いほど、それはあまりに純朴な確信で驕りだった。
俺とお前はよく似ていて、何もかもが異質で、どうしようもなく同じで、全てが違った。ただのひとつとて共通点がないということが、たったひとつの共通点だった。
俺たちの答えはいつも違った。
そうでありながら常に同じ着地点を目指した。
俺たちの関係はそうして自然の繋がりをもった。
『ごめん、伏黒』
お前は俺に「飛ぼう」と言った。俺はお前に「飛べよ」と言った。
俺たちの背中に生えていたのは旅立つすべを持たぬ飾りの羽だった。それがいつまでも、この大地を蹴り上げる足の枷になった。
俺たちは、地を這うカモメなのだ。
『ごめんね』
古くなった油のように粘っこい感傷が新品のノートを黒く染めていくその不毛を、俺はお前に許すことが出来なかった。安っぽいドラマのような再会を、俺は俺たちに認めたくなかった。
俺だって忘れようと思ったのだ。お前にとって俺はよからぬ過去であって、俺にとってお前は予期せぬ未来だった。初めから折り合いなどつくはずがなかった。山折と谷折とで食い違う不安の折り目を無理矢理糊付けして、ひとつになれない苦しみにもがいていた。終わりにしたかった。お前も同じことを考えて、そしてお前はお前なりの方法で終止符を打とうと考えた。そうだろう? 違うのか?
何も正しくなかった。過ちを過ちと認識することさえ出来ない幼稚な楽観が、互いの首を知らず絞めていた。
でも俺は、心から信じていたのだ。
このがらんどうの心は、お前を容れるための空洞だったのだと。このからっぽの心に、もし意味があるとするなら、それはお前でしか有り得ないと。
これは愛だと知った時にはもう、お前は居なかった。愛していたと知った時にはもう、お前はどこにも居なかった。
『諦めにきたんだ、今日』
お前の言葉の全てが、俺の鼓膜をただ透明に通り過ぎていく。
どうせ消えるなら、もう二度と振り返らず、手も振らず、何事も無かった顔で裏切ってくれたらよかった。無邪気なほどの残酷で、手酷く俺を捨ててくれたらよかった。そうすれば、初めに戻るだけだ。俺たちが出会う前に、何も無かったあの頃に。
でもお前は何も言わずに俺の前から消え、そしてまた俺の前に現れた。
俺はお前から目を離すことが出来ない。逸らすことさえ。
『今日で多分、最後だから』
言いかけて、少し遠い目を、お前はする。
『本当のさよならの準備、しようよ』
はりぼての安寧でよかった。お前が横に居るならなんでもよかった。
お前の部屋がからっぽになっているのを見た時、俺は何かワケの分からない病魔に取り憑かれたように、あてどなくただ走った。どこかに伸びているはずのお前の影を探した。お前の居場所が知りたかった。お前がまだ確かにこの世界に存在しているという確証が欲しかった。だけどまるで幽霊にでもなったみたいに、お前の存在はどこにもなかった。消えてしまった。
俺は俺自身の死にたい心に気が付いていた。俺は死ぬ方法を知っていた。手段もあった。それでも自分を殺せなかった。出来なかった。これはお前に生かされた心だったから。俺一人で取り戻した心ではなかったから。だからこの心の剥片が、いつかお前に辿り着く道筋を示してくれることを、俺は毎日ただバカのように祈っていた。
お前は俺が間違ってしまうことを恐れたんだろう。お前しか居なくなった俺の世界に、お前は気付いてしまったんだろう。
この愛が、呪いになってしまうことを恐れたんだろう。
虎杖。でもお前は勘違いしている。
こんなバカげたイタチごっこ、俺たちが棒に振ったこの数年、二度と取り戻せない「日々」にはもう、なんの意味も価値もない。俺と過ごす今日一日だって、お前にそのつもりがないなら同じだ。俺たちがただ無為に失ってきた時間と。
共に生きることも死ぬことも出来ないと、覚悟することが愛だと錯覚してきた。それがこの愛を達観し自制する態度の全てだと思ってきた。赦すことが唯一、互いを縛り付けない方法だと思ってきた。
そうではなかった。
そうではなかったのだ。
「何がさよならだよ」
振り絞るような声だった。自分でも驚くほど声が震えた。二度と離さないつもりで抱きしめた。固く強ばった虎杖の体は俺の腕の中でいつまでも動かず、息を殺すようにただ沈黙していた。
さよならの準備?
この後に及んで、まだお前は俺にそんなワガママ言うのかよ。
覚悟がねえのはどっちだよ。
もう諦めろよ。
俺がお前との明日を望んでやまないのは、この後に及んでまだお前の心を諦めきれずに苦しいのは、この気持ちは、「呪い」なんかじゃない。
この愛は、呪いなんかじゃない。
「ごめん」と言う。お前は、ごめん、と。
「今日で多分、最後だから、」
言いかけて、少し遠い目を、お前はする。
「最後だと思ったから、」
日々の記録をどこぞに書き残したとして、それでそいつが一体お前の何になる。何になった。俺の居ない毎日は、本当にお前の心を満たし、救ったか?
この毎日はただ惰性に満ちて退屈で、俺とお前の生活の倦怠は同じ鍵盤を一定のリズムで叩くように単調だ。そうだ。俺たちの人生にはもはや眩いような彩りなどないし、人々の営みから闇を祓うことなど不可能だという真理を知りながら、俺たちは何一つ昨日と変わらない日々を繰り返さなければならない。ひたすらに「人が人を呪う」という憎悪の連鎖を断ち切り続ける。その行為はおそらく、本質的には虚しい。どれだけ祓っても終わりが見えない、その苦しみは灰色がかってくすんだ煤色の未来を俺たちに見せるはずだ。
呪い、祓い、呪われて、祓われる、その繰り返しに終点はない。俺たちは幾度となく自らの人生の汚点を人の人生の中に見るだろう。苦しみは消えず、傷は癒えない。
それでも俺の人生にはお前が居る。
たったそれだけのことが、このクソみたいな人生に大きな意味をもたらす。本当に、たったそれだけのことが。
感情を、できる限り骨から削ぎ落として今日までを生きてきた。お前が居なくなったから。お前が俺の隣に居ない時間に、俺はなんの価値も意味も見いだせなかったから。味のない、砂のように渇いた血を吐いて、俺たちの人生はただの消耗戦でしかないという現実の水槽に、指の隙間を零れる生命の塵を泳がせる以外に出来ることが他に何かあったのか? 俺にはなかった。お前はどうだった。俺が居ない時間は、本当に幸せだったか?
俺は、なんの嫌味でもなくお前にそう問いたい。
俺たちは、地を這うカモメだ。誰かの期待した通りに飛び立つことなど到底出来ない。飾りの翼はこれからも俺たちの枷であり続ける。俺たちは汚泥の中をもがきながら進み、どこに辿り着くのかも分からぬまま、ただひたすらに毎日をこの命に打ち込む。本当の意味での救済は、これから先もないだろう。
それならどうして生きるんだと、お前は俺に生きる意味を問うか? お前の引き止めるために、俺の答えが必要か?
俺にはお前が必要なんだ。これから先の一生に、お前が居ないとダメなんだ。
ただそれだけ。
お前は?
それでもまだ俺に、「さようなら」を言いたいか。
虎杖。
一回くらい、黙って俺の言うことを聞けよ。
俺と一緒に居たいと言ってくれよ。
離れないと言ってくれよ。
もう一人にならないと言ってくれよ。
うつろになった部屋で俺はいつまでもお前を待ち続けた。
永遠に捨てられない合鍵なんか、二度と俺に持たせるな。
傷付くな。
誰も居ないところで、一人で泣くな。
泣くな。泣くな。泣くな。
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