猫と遠乗り「あいつ面白えやつだな」
半日ほどの外出から帰ってきた父親は、荷物の整理もそこそこにどっかりと椅子に座り込んで、突然そう言い放った。
携帯用の回復薬をあらためていたベレトは、手を止めずにジェラルトを横目で確認する。出て行った時と変わらない健康そうな体を遠慮なく座面に沈めているのが見えてひとまず安心した。この稼業だ、帰ってきたら指一本無くなっているなんてことも珍しくはない。
「どこか行っていたのか」
「隊長さんに遠乗りに誘われてよ、水辺沿いまでちょっくら」
「この前調査隊が見つけたと言っていた所? 」
「そうそう、お前もちゃんと流行りの話を聞いてんじゃねえか。いい傾向だな。……そんでよ、……ふふ…」
肘置きに頬杖をついて笑う父親はかなり上機嫌な様子だ。よほど楽しいことがあったらしい。
薬はひととおり調べ終えてしまったので、懐に1本ずつしまいこみながら話の続きを待つ。
「楽しくくっちゃべってたら急に黙るからよ、何かと思って観察してたらあいつ、俺の髪が気になってたみたいでさ。ちょっと頭動かしてやったら一緒に顔がついてくんだよ…じゃらされてる猫みたいに」
「へえ」
「隙見せたら本当に飛び掛かってくんじゃねえかと思ったぜ。でけえ子猫だなありゃ…」
頬を緩めているジェラルトを視界の端に入れつつ、ベレトは今聞いたことを反芻する。
(見たい……)
実を言えば、犬猫に餌をやったりして構うのはベレトが知る数少ない娯楽の一つだ。でっかい子猫、あやしたいに決まっている。どうやったら懐いてもらえるかが腕の見せ所だ。なおここで言う「でっかい子猫」とは、我が軍の傭兵隊長殿その人なのだが、ジェラルトが猫というならアプローチは同じで良いか。奴は猫ではないぞ何を考えている、と頭のどこかで声が響いたような気がしたが、父への信頼を元に雑な納得をしたベレトは、次の戦闘後は遠乗り気分になっておこうと謎の決意を固めたのだった。
その後、遠乗りに行きたそうな雰囲気を纏わせていたところ、仲間のそうした気分を察する力に異様に長けた男であるシェズは、案の定ベレトを草原への遠乗りに誘ってくれた。二つ返事で了承する。その足で髪紐を貸してくれないかとジェラルトに頼みに行くと、怪訝な顔をされつつも予備のものを与えられた。
しかし約束の前日、ジェラルト傭兵団は急な戦闘に駆り出された。依頼は付近の街道に現れた賊の討伐。こういった急を要する仕事は、直属の本隊ではなく身軽な自分たちが請けることが多い。
所詮そこいらの賊とはいえ、人数が無駄に多くかなり骨の折れる戦闘だった。戦場は入り組んでいる割に広く、味方の数も十分とは言えなかったから副官をつける余裕もなかった。自分も一人で何十人と相手にしたような気がする。夜戦を終え、事後処理をすませて明け方になんとか帰り着き、少し仮眠を取った。
しばしの睡眠から目覚めると、日はまだ高くなりきっていないころであったからベレトはほっとした。待ち合わせにはちゃんと間に合いそうだ。身支度をさっさと終え、ジェラルトから借りた紐で後ろ髪を括り、待ち合わせ場所に向かう。
前哨基地の入り口にたどり着くと、シェズが自身の馬を軽く運動させているのが見えた。馬上からこちらを見つけると鬣を引いて指示を出し、歩を進めてくる。その途中で、同僚の普段とは違う姿に気が付いたのか、ベレトの隣に並ぶと同時に後頭部を指し示した。
「めずらしいな、それ。髪伸びたのか? 」
「こうすると新たな発見があると聞いた」
細かい説明は省き、一声で述べるとシェズの頭に疑問符が浮く。
「発見?なんだそれ? 」
「楽しみだ」
はあ、と首を傾げながらも追求しても仕方がないと諦めたのか、シェズは走りやすいよう鞍に座り直す。
「……よくわからんが、まあいいか。行こう……いやあんた、いけるか?今朝方まで仕事だったんだよな」
「寝たから問題ない」
まあそう言うなら、と返答を受けたのと同時に、二人は馬の腹を軽く蹴った。
結局、髪型について直接の言及があったのはその一度だけだった。基地近隣の野原に到着してみたら、おだやかな気候で絶好のピクニック日和だったものだから、でっかい子猫をじゃらすという目的はすっかり抜け落ちてしまった。
シェズときたら、バッタを取っては前より大きければ得意げに見せびらかしてくるものだから、つい絆されて捕まえてみた1匹が過去最高の大きさであったらしく、大層感心された(もちろん後でちゃんと放した)。
昼食に準備されていたのは山のような量のフィッシュサンドだった。二人してきれいに平らげた後、これは他のやつに作る量の倍はあったんだぞ、と顔を綻ばせるシェズを見て、本当によく笑う男だと思った。つられて、自分も何度も笑ったような気がする。
うららかな日差しが草木を鮮やかに照らしている。いつもは襟足に隠されているうなじを撫でるように風が通っていく。腹も満たされている。連れてきた馬達はつないだ木陰で目を細め、ときおり草を食んでいる。良き休日とは、こういう日のことを言うのかもしれない。
カップの底に残った紅茶のゆらめきをぼうっと眺めていると、傍に座るシェズがこの前訪れた水辺の話を初めたようだ。しかし、もうベレトの脳は活動をやめつつあった。相槌を打てているか自信がない。意識が眠気に溶けそうになる感覚がなんとも心地よい。どうやら仮眠の時間が足りなかったらしい。
「それでさ……ベレト? ……ベレト、おい、茶器は置いてくれ」
「ああ……」
「落とすとローレンツに怒られるんだ、ほらこっちに……」
「うん……」
こく、こくと船を漕ぎ始めたあたりで、手元の割れ物をそっと取り上げられた気がする。ふらつく背中に手を添えられる感触を最後に、ベレトの意識はふっと消えた。
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「……ジェラルト? 」
あたたかな手に撫でられるかのような心地の良い感覚で目を覚ました。そんなことをする人は父くらいしかいない。大人になって、そのような機会は殆どなくなってしまったはずなのだが。しかし、さっき撫でられていた手は、ジェラルトとは違い自分よりも小さなものだったような気がした。
「おわっ」
瞼を開くと目の前には少し焦ったような顔のシェズが居た。が、すぐにへにゃりと笑い、ひらひら手を振ってくる。
「……」
「おはよ。ジェラルトさんはいないぞ」
聞こえる言葉を咀嚼して、今の状況を把握することに努める。だんだんと意識が鮮明になり、ベレトは自分が今どこで何をしていたのかを思い出した。
「…………すまない、寝ていたのか、自分は」
「別にいいよ。数刻も経ってないし。こっちこそ、ちゃんと休む間もなく連れ出しちまったなと思ってたところだぞ。悪かったな」
「来たかったからいい。でも、事前の仮眠が足りなかったな……」
遊び相手をほっぽり出して寝た自分に立腹もせずただただ労わりの言葉をかけられ、有難いと同時によけい申し訳なくなったベレトはまだ少し眠そうな眉尻をさらに下げる。それを見たシェズは、ベレトの肩をぱしんと叩いて笑った。
「また来りゃいいよ。機会なんかいくらでもある。……ベレト、よく寝れたか?」
そう聞かれ、ベレトは少し考えた。眠る前の揺蕩い、起きた時、夢うつつに感じたやさしい手。どれも心地よいものだった。それに、たった数刻もない間だけれど、夢も見ない深い眠りを得ることができていたから。
「……ああ。ありがとう。よく寝た。いい遠乗りだった」
「どういたしまして、俺も楽しかったよ。それによく寝れたんなら、連れてきた甲斐があったさ」
でもまだ終わってないぞ、これから馬乗って帰らなきゃいけないからな、と彼自身にも言い聞かせるようにシェズは述べる。そして、俄かにふふ、と息を漏らし、頬を掻いて言う。
「別にからかうわけじゃないけどさ、あんた何処でも寝れるんだな。猫みたい。俺もそうだから人のこと言えないけどさ」
「良い1日だった」
「おお。そりゃ、よかったなお前。俺まだ何も聞いてねえけど」
天幕に帰って荷物をちゃんと片付けた後、椅子に体を預けて今日の感想を述べた。何やら書き物をしていた父はこちらを一瞥したあと、くつくつ笑って返事をくれた。そうやって言うんだからよっぽどだな、と破顔する父はなんだかとっても嬉しそうだ。
「ジェラルト、嬉しそうだね」
「まあな。だってお前が友達と遊びに行くなんてよ」
「友達」
「一日一緒に出かけて楽しく遊んでくるなんて、家族か恋人でなければ友達だろうよ」
時折羽ペンをインクに浸しながら、ジェラルトはベレトにそう諭す。
「そういうものなのか」
「俺からみりゃすっかり仲良しこよしだぞ、お前ら」
彼と自分は二人で楽しく遊べる仲だということは事実だ。しかし、だからどういう関係なのかという事はまるで考えたことがなかった。同じ雇主に仕える仲間であるという認識はあった。でも、自分は今、彼以外の人と一日遠乗りに行くようなことをするだろうか。答えは自ずと見えていた。
「そうか、それなら……友達に悪いことをしたかもしれないな」
友人がいたことなんて今まで無かったから、どんな付き合い方が正解なのかはわからない。でも、せっかくの時間をうたた寝に費やしてしまったのは、やはり少し申し訳ない。
「あん? 」
「出先でシェズを置いて自分だけ寝てしまった」
「おお? 」
「次はもう少し寝てから行こう……」
決意を述べ、姿勢を崩して天を仰ぐ。初めて出来た友人を、できれば大事にしたいと思った。
今度行くときは、自分も何か作ってみようか。そうしたら喜んでくれるかもしれない。やっと芽生えた親愛の感情を表す方法について考える。既に次回の予定を考えている自身のこれまでに例を見ない積極性について、ベレトにはまだ自覚がない。
―― すっかり黙って何か考えているらしき息子を、目を細めて眺めるジェラルトは、最近彼が送ってくれた花のことを思い出す。同時に彼の友人の気の良さについても。きっと今後も仲良くやるだろうと結論づける。しかし、無防備に横で寝ちまうとは。いきなり距離がちかい行動をする息子が面白くて、またくすくすと笑ってしまった。
「お、そういやお前、髪紐どうした? 」
「……あれ」
ベレトが首元をあらためると、確かにいつも通りの襟足がそこにあった。
「帰ってきた時からつけてなかったぞ。寝た時に取れちまったんじゃねえの?」
「ごめん、そうかもしれない」
「まあ、お前の髪質と量で長く結っておけるとは思わねえよ。母親に似てさらさらしてるからな……」
本当に、今日はとことんぼうっとしていたらしい。
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茶器をそっとバスケットに仕舞い込んで、一通りの片付けを終えた。シェズは耳をそば立てる。暫く前に横たわらせた男から、相変わらずくうくうと規則的な寝息が聞こえてくるのを確認して、唇を引き結んだ。
シェズにはやりたいことがあった。ずっと我慢していたのだ。音を立てぬよう慎重に立ち上がると、ベレトの背中側に回る。傭兵であるこいつは、自分と同じく、少しの刺激で起きてしまうだろうという確信があった。仕事の時と同じくらい気配に気を配りながら、隣に寝転ぶ。
寝転んだ目の前にあるのは、ベレトの尻尾だ。正確に言えば結った後ろ髪。以前見た彼の父の三つ編みよりも細くて短いものの、物珍しい髪型はシェズの興味を引くには充分だった。
(絹の糸ってこんな感じか)
紡がれた絹糸など見たことはないが、彼の髪がかつて野で見たうつくしい山繭の色に似ていたからそう感じたのだろうか。少ない語彙から引っ張り出した喩えが適切かどうかは分からないけれど、つまりベレトの髪はシェズの知るいっとう綺麗なものに似ていた。
うつくしいものを目の前に、シェズはごくりと唾を飲む。人差し指を伸ばして、そっと先に触れる。なめらかな感触を指の腹に感じた。細くやわらかい毛はつんつん頭の自分とは全く質が違った。同じ人間なのかと疑うほどに。
いつ起きるともわからないのに、シェズはそれでも彼の髪にじゃれるのをやめられなかった。最初は指先で、次は指と指の間を通す。さわり心地のよい絹糸は、日の光を反射してきらきら輝いた。そうしていたら、
「あ」
いつの間にやら緩くなっていた髪紐がついに解けた。毛束がはらりとうなじを隠す。ふたたび結おうと髪をひっぱれば、今度こそ起きてしまうだろうか。咄嗟にほどけた髪紐を取り上げる。後で返そう。でも、一体何といって渡せばいいのだろう?
(寝てる間にあんたの髪の毛いじってました、なんて言えないよなあ)
寝顔を凝視する。髪と同じ色合いの長い睫毛が見える。少しだけ開いた唇から前歯が覗く。規則的な呼吸で胸が上下している。悪魔と称される男は、今はシェズの前で無防備に眠るただの人間の青年で。
急に自分が、あまりにも近しい位置で人の体を触っていたことを自覚したシェズは固まる。さっきから何をしているんだい君は、と頭のどこかで呆れた声がする。俺にだってわからないさ。そう胸中でつぶやくと、もう一度眠るベレトを見やる。あどけない寝顔は普段の仏頂面とは印象が全く違う。有体にいえば、可愛いと思ってしまった。
髪の毛にさんざんじゃれつき、気が大きくなっているシェズは、そっと彼の額に触れ、そのまま後頭部に向けて撫でさする。綺麗な額が見える。昔、養母が自分によくしたことだ。シェズは、ベレトにそうしてあげたくなってしまった。撫でていると、心の柔らかい部分が、ほのかにあたたかくなるような気がした。
もうしばらくこのままでいたいと、シェズは願った。
了