【#06】背伸びをしても届かない第6話「こっち向いて」
初めてシティーを訪れた時の衝撃は今でも覚えている。
触れたことのない価値観、見たことのない光景、新しい世界。
目に入るものすべてが新鮮で、それでいて理解不能で、これが“正しさ”というものなのかと初めて実感できた。
とりわけ誰よりも思慮深いタイオンは一行の中でも一番シティーへの興味関心が強かった。
シティーに滞在している最中は、暇さえあれば寄宿舎を抜け出し、医療施設や軍事施設を見回り、街中を歩いて人々を観察する。
好奇心に満ちた目をしながらじっくり観察した結果、シティー独特の文化風習の一部は理解することができた。
だが、いくら考えても理解が及ばない分野もある。
その代表ともいえるのが、“愛”や“恋”と言った感情に紐づく曖昧な概念である。
「愛とは何だろうな」
ロストナンバーズ寄宿舎の目の前。
一行が休息所として使っている広場から、眼下に広がる公園を見下ろしていると、隣に立っていたタイオンが急に問いかけてきた。
ユーニが“は?”と聞き返すよりも前に、彼は再び別の疑問を投げかけてくる。
「恋とは何だろうな」
どちらも哲学的な問いだった。
一行の中で一番頭脳明晰で理解力もあるタイオンが分からないのであれば、自分が分かるわけないじゃないか。
そんな気持ちを込めて“さぁ”と返事をすると、彼は少し不満げに目を細めながらこちらに視線を向けてきた。
「ちゃんと考えてないだろ」
「考えてるよ。けど分かんねぇものは分かんねぇんだよ。アタシらはシティーの連中みたく“正しく”生きてねぇんだから」
自分で言いながら少し悲しくなった。
眼下の公園で元気に遊んでいる“小さい人間”たちは、この世に生まれ堕ちて8、9年ほどしか経っていないらしい。
つまり、生きている年数としては自分たちとそう変わらないのだ。
だが、彼らは人工的なゆりかごで生まれた自分たちとは違い、母となる人間の腹から生まれている。
もし自分たちも正しい生まれ方をしていたら、あの人間たちのように無邪気に駆け回れていたのだろうか。
人の命を奪う必要もなく、愛だの恋だの曖昧な概念の意味などいちいち考えることもなく、長い生涯を年を重ねながら生きていたのだろうか。
不毛な仮説であることを自覚しながらも、そんな妄想をせずにはいられなかった。
「いつかアタシたちも、正しく生きられる日が来るのかな」
「どうだろうな。メビウスを殲滅すれば、この体に課せられた限界時間を大幅に伸ばすことは可能かもしれないが、根付いた価値観はそう簡単には変わらない」
「けどさ、長く生きてれば理解できるかもじゃね?愛とか恋とか、そういう曖昧なやつ」
「長く生きたことがないから分らんが、そうだったらいいな」
たった10年しか生きられないからこそ、ケヴェスとアグヌスの兵は命を燃やすように生きるのだ。
その生涯に悔いが残らないよう、死を迎える瞬間に笑顔でいられるよう、余計なことなど考えずにひた走る。
その短い生涯には、人生や命について考える時間など片時もない。
この命が倍、いやもっと長く伸びれば、きっと思想にふける時間も増えるだろう。
長い年月をかけた末に、愛や恋を理解できたなら、それはきっと幸せなことに違いない。
「いつかアタシも、誰かを愛したり恋したりするのかな」
隣に並ぶタイオンが、一瞬だけユーニへと視線を落とす。
けれどその視線はすぐに逸らされ、眼下の公園で遊ぶ“小さな人間”たちへと注がれる。
「可能性はあるんじゃないか?」
「どんな気持ちになるんだろうな」
「知らん」
「そっちだってちゃんと考えてねーじゃん」
「……なんで僕が君の愛だの恋だのについて考えなきゃならない?自分で考えてくれ」
先ほどまでの問答とは打って変わって、妙に冷たい対応だった。
突然そっけなくなったタイオンの言葉も表情も気に食わない。
なんとなく彼の気を引きたくなったユーニは考えを巡らせる。
タイオンの意識を強引に自分へと向けるにはどうしたらいいか。
そして思い出す。夜の公園で、シティーの男女が互いに求めあうように唇を合わせていた光景を。
タイオンの首に巻かれた橙色のマフラーを掴むと、彼はようやくこっちを向いてくれた。
視線が交じり合う。不思議そうにこちらを見つめているタイオンを前に、ユーニは何も言わずマフラーを引き寄せた。
かかとを上げて背伸びをすれば、2人の目線は平行になる。
目を瞑って唇を押し付けてみたが、残念ながら狙いが外れてしまったらしい。
タイオンの唇ではなく、そのすぐ端にちゅっと口付けていた。
あ、失敗した。
顔を離すと、面白いくらい顔を赤くしたタイオンの姿が視界に入る。
どうやら思惑は成功したらしい。
口元を手で押さえ目を見開いている彼は、明らかに動揺していた。
「な、なんの真似だっ」
「いつか恋する相手が出来たとき、シティーの奴らみたいに唇にちゅってしたりするもんなんだろ?その時の予行練習」
「はぁ?僕を練習台に使うな!」
「何照れてんだよ~」
「照れてない!」
唇への口付けは失敗してしまったけれど、それでもまぁいいかと思えたのは、タイオンが思った以上に動揺してくれていたから。
自分からの些細な行動で、この堅物な相方はこうも顔を赤くしてくれるのだと思うと嬉しくなった。
まるで彼の心が、自分の手中にあるかのようで。
もっと照れてほしい。もっと動揺してほしい。
自分の一挙手一投足にいちいち取り乱すタイオンが見たい。
そんな淡い悪戯心が、ユーニの心に芽生え始めていた。
今思えば、愛だの恋だのの意味なんて分からなかったけれど、頭ではきちんと理解していたのかもしれない。
タイオンという男に纏わりつきたくて仕方なかったあの気持ちは、間違いなく恋心そのものだった。
そして今も、その気持ちは変わっていない。
変わってしまったのは、2人の年齢と身長差くらいだろうか。
***
タイオンとのドライブデートは、うきうきと日々を過ごしている間に当日を迎えていた。
彼は頑なに“これはデートじゃない”と主張していたけれど、都合の悪い言葉はすべて無視することにしている。
これはれっきとしたデートだし、今日一日、タイオンは自分だけのために時間を費やしてくれる。
その事実はユーニにとって非常に喜ばしいものだった。
目的地は鎌倉。
タイオンが運転する車で約1時間半の道のりである。
あまり興味のない神社仏閣をめぐり、古民家カフェで甘いものを堪能し、江の島で海を見るという素敵なプランを事前に立てている。
甘く、優しく、そして素晴らしい一日になるはずだった。なのに――。
「なんでこうなるんだよ……」
マンションの正面玄関前に立ち、ユーニは殺意に満ちた表情で空を見上げていた。
はるか上空には灰色どころか黒に近い色をした分厚い雲が鎮座し、バケツをひっくり返したような強い雨を降らせている。
吹き荒れる風は周囲の木々を揺らし、ゴオォォォッとまるで怪獣の雄たけびのような音を奏でている。
わくわくドライブデートin鎌倉の当日である今日、所謂爆弾低気圧と呼ばれる悪天候に見舞まわていた。
同じように隣で立ち尽くしているタイオンもまた、厄介な悪天候を前に苦々しい表情を浮かべていた。
「豪雨だな。これはドライブどころではないのでは?」
「……」
「中止にするか。鎌倉はまた今度ということで」
肩から抜けるように息を吐き、マンション内へ戻ろうとするタイオン。
そんな彼のジャケットを、ユーニは咄嗟に掴んで引き止めた。
女子高生にしては強すぎるその力によって、タイオンはいとも簡単に足止めされてしまう。
迷惑そうにユーニの方を振り向けば、目を血走らせ必死な形相でこちらを見上げている彼女と目が合ってしまった。
「鎌倉……イキタイ……!」
ドスの効いた声で囁かれたその言葉は、何故か片言だった。
人間の言葉を覚えたてのモンスターかの如く、鬼気迫る勢いで詰め寄ってくるユーニの様子に嫌な予感がよぎる。
“行きたい”と言われてもこの悪天候だ。
運転するにはそれなりに胆力がいるし、事故を起こす可能性も考慮するとあまり気が乗らない。
だがユーニは、そんなタイオンの考えを汲み取ることなくフルパワーで駄々をこね始めた。
「行きたい行きたい鎌倉行きたい!絶対行きたい!」
「あぁもう勘弁してくれ。また今度行けばいいだろ」
「今度っていつだよ?明日?」
「いや、明日は仕事だから……」
「そうやって先送りにして一生行かないつもりだろ!」
「そんなことな――」
「人間いつ死ぬかわかんねぇんだぞ!明日には通り魔に刺されて死んでるかもしれないし!」
「なんでそんな極端な考えになるんだ君は」
「行きたい行きたい今日行きたい今すぐ行きたい今度じゃヤダ!」
女子高生の甲高い駄々こね声は、タイオンの首を絞めてゆく。
マンションのフロントに立っている管理人が怪訝な表情でこちらを見ているのが横目に見える。
あぁまずい。不審に思われてしまう。
大人の男に女子高生が縋りついている絵面なんてろくでもない。通報してくれと言っているようなものだ。
このまま駄々をこねられたら地獄を見るのは自分に違いない。
そう判断したタイオンは、ため息を深くつきつつ観念することにした。
「わかったわかった。その代わり予定より早めに切り上げるからな?」
手に持っていた傘を広げ、タイオンは駐車場に向かって歩き出す。
ユーニの全力のおねだりは効果てきめんだったらしく、彼は渋々要望を書諾してくれた。
傘を広げて歩き出すタイオンの背を見つめながら、ユーニは内心ほくそ笑む。
“フッ、チョロいぜ”
そんな囁きを聞かれてしまったら、きっとタイオンの気が変わってしまうだろうから絶対に言わないようにしよう。
なんだかんだと文句を言いながら、最後はこちらの要望を受け入れてくれるのがタイオンという男だ。
相変わらずチョロくて優しいタイオンに心躍らせながら、ユーニは前方を歩く彼の傘の下へと潜り込む。
腕を絡ませ密着すれば、タイオンは焦って距離を取ろうと身をよじる。
「コラくっつくな!」
「ヤダ。駐車場まで相合傘しようぜ」
「自分の傘をさせばいいだろ」
「忘れた」
「絶対わざとだろ、まったく……」
振り払われてもめげずに腕に抱き着き続けていると、次第に疲れてきたのかタイオンは振り払うのをやめた。
気力も体力も、まだまだ若いユーニの方が圧倒的に勝っている。
ドライブを予定通り決行できたのも、腕を組んで相合傘で歩いていられるのも、ユーニの粘り強い根気の勝利と言えるだろう。
空はあいにくの曇天だが、これからタイオンの時間を独占できることが確定したユーニの心は青々と晴れ渡っていた。
雨が降りしきる中、タイオンの運転する車は鎌倉に向けて出発する。
Bluetoothによってスマホに繋がれたスピーカーから、タイオンが選んだ曲がしきりに流れてくる。
十代であるユーニにとって、流れてくる曲のほとんどは小学生の頃に流行った曲だった。
“懐メロばっかりだな”と呟くと、ハンドルを握るタイオンが若干傷付いたような顔を見せた気がしたが気にしないことにした。
流れてくる懐かしい曲を口ずさみながら窓の外を見れば、一向に弱まることのない雨が打ち付けている。
この豪雨で遠出しようとする人自体が珍しいのか、高速道路は信じられないくらいすいていた。
「アタシドライブデートって初めて」
「だからデートじゃない」
「タイオンは?したことある?」
「あぁ」
「は?死ねよ」
「理不尽な」
「誰と?」
「当時の彼女だ」
「死ねよ」
「聞いたのはそっちだろ」
あまりに理不尽な問答に、ハンドルを握りつつ何度か深いため息が出た。
過去を掘り返してくるくせに、素直に答えると不機嫌になる。
この面倒なやりとりが頻発するのは彼女がそういう性格だからだろうか。それとも若いからだろうか。
どちらでもいいが、幼い嫉妬心をむき出しにしてくるユーニに少々疲れていた。
28年も生きていれば、交際相手の一人や二人いるのは普通だ。
それを糾弾されたところで困るだけだというのに。
斜めになったユーニの機嫌をどう取り戻そうかと迷っていると、それまでむくれ顔で助手席に腰かけていたユーニが急に歓喜しながら声を挙げた。
「えっ、待って、山じゃん!」
前方に見えるのは豊かな自然あふれる山。
豪雨で視界が悪くなった今でもその雄大な景色ははっきりと見える。
誰がどう見ても山でしかない山を見つめ、当然のことを口にしたユーニに戸惑いつつ、タイオンは頷いた。
「あぁ、山だな」
「山スゲー!」
「すごいか……?」
「木めちゃくちゃ生えてるし。やばっ」
「何がだ……?」
両側に見える山々を交互に見つめ、きらめく目で“すげぇ”だの“やべぇ”だの口にしているユーニに、タイオンは首をかしげるしかなかった。
何がすげぇのか、何がやべぇのか全くわからない。
物事に対する感想を、抽象的な言葉でひとくくりにしてしまう若者独自の価値観が意味不明だ。
見るものすべてにいちいち感動している様子のユーニの語彙力はあまりにも低く、思わず眉をしかめるほどである。
もしかしてこの子、馬鹿なんじゃ……。
そんな仮説がタイオンの頭を過ったが、言わないでおくことにした。
せっかく戻った機嫌がまた悪くなったら大変だ。
とりあえず今は山で興奮しておいてほしい。
特に実のない会話を交わしているうちに、車は鎌倉市内へと突入する。
相変わらず雨脚は弱まることを知らず、激しく降り続いている。
ダメもとで元々観光する予定だった鶴岡八幡宮に寄ってみたが、案の定豪雨のため正門は閉まり切っていた。
無理もない。雨も風も尋常ではないくらい強く、神社の敷地内に生えている柳の木は腰が曲がった老婆の如くひん曲がって可哀そうな見た目を晒している。
こんな天候の中わざわざ鎌倉まで観光しに来る変わり者など自分たちしかいないのだろう。
2人は仕方なく、鶴岡八幡宮をあきらめ次の目的地に向かうことになった。
場所は件の神社からほど近い小町通り。
そこに立ち並ぶレトロな古民家カフェに、ユーニは前々から目をつけていた。
ふわふわぷるぷるのパンケーキが売りであるその店は、普段は1時間待ちの行列ができるほどの人気店なのだが、豪雨である今日は行列どころか自分たち以外の客は誰一人としていなかった。
「貸し切りじゃん。やったな」
誰もいない店内を見渡しながらユーニはにんまり笑う。
随分ポジティブなものだ。
だが、確かに豪雨だからこそこんなに静かで快適にお茶を楽しめているのかもしれない。
そういった意味では、雨の日の遠出も悪くはない。
ただしここまでの豪雨となると話は別だが。
やがて、二人の前にコーヒーとパンケーキが運ばれてきた。
雲のように柔らかいプリンみたいなパンケーキ、というこの店のコンセプトにふさわしく、確かに柔らかそうだ。
皿の上でぷるんぷるんと揺れるふたつのパンケーキを前に、タイオンは思わず妙な連想をしてしまう。
なんだか豊満な女性の胸みたいだ。
「なんかおっぱいみたいじゃね?」
ぎょっとして頭を抱えた。
ユーニと、十代の小娘と同じ発想をしてしまった自分の幼さが恥ずかしい。
あまりの恥ずかしさに項垂れているタイオンに、“どうした?”と声をかけるユーニだったが、まさか同じことを考えていたとは言えず、“なんでもない”と返すしかなかった。
さてさっそく手を付けようと、テーブルの上に置かれたナイフとフォークに手を伸ばすと、急にユーニから“待った”がかかった。
何事かと目を見張ると、彼女は上着のポケットからスマホを取り出し、パンケーキに向かってシャッターを切り始める。
様々な角度から撮影していることから察するに、おそらくSNSにでも投稿するのだろう。
彼女の承認欲求のためにお預けを食らわされているタイオンは、いつまでたっても終わらないユーニのパンケーキ撮影会に痺れを切らしていた。
「まだか?」
「あとちょっと」
「そんなにSNSが大事か」
「趣味なんだからいいだろ?今時インスタなんてみんなやってるし。タイオンはやってねぇの?」
「Facebookしかやってない」
「えー、つまんねぇな」
撮影を終えたユーニがスマホを懐にしまったことで、ようやく食事の時間が幕を開ける。
ぷるぷるのパンケーキにナイフを入れると、まるで羽毛布団のように柔らかな感触がナイフ越しに伝わってきた。
口に含めばあっという間にとろけだし、心地よい甘さが構内に広がる。
ユーニ曰く、インスタで人気を博していた店らしいが、その人気ぶりも頷けるほどの味だった。
「うまぁ、やっぱこの店にして正解だったわぁ」
一口食べるごとに幸せそうな顔をするユーニに、思わず笑みがこぼれた。
少し大げさな反応だが、その素直な反応は実に微笑ましい。
顔を綻ばせて喜んでいるユーニの表情に、こっちまで口元が緩みそうになってしまう。
すると、正面の席で幸せそうにパンケーキを頬張っていたユーニは、不意に“さっきの話の続きだけどさ”と話題を引っ張り出してきた。
「なんでタイオンはSNSやらないわけ?」
「なんでと言われても困るな。書くことがないのと、そんな暇がないからかもな」
「最初からやってなかったの?」
「いや。学生の頃はいろいろやっていた。当時はインスタなんてなかったから、もっと原始的なSNSだったがな」
「原始的なSNS?」
SNSの歴史は案外深い。
スマホが本格的に普及し始めたのはタイオンが高校生の頃だったが、SNS自体はそれよりも前の時代から存在していた。
当時は今のように“若者はやるのが当たり前”な時代ではなかったし、ほぼ日記感覚でしかなかったため暇を持て余した学生にはうってつけだった。
当然、当時男子高生だったタイオンも例外なくSNSを利用していた。
目の前にいるユーニのように没頭するほどではないにしろ、浅く広く楽しんでいたのだ。
「例えばTwitterなんかは僕が高校生の頃に一気に流行りだしたしな」
「あぁ、Xな」
「あとはmixiもやっていた気がする」
「みくしー?」
「モバゲーだのGREEだの、ブラウザ上で楽しめるSNSもたくさんあったな」
「もばげー?ぐりー?」
「あぁ、あとは同級生の女子たちがこぞってやっていたものがあったな、なんと言ったか……。確か前略プロフィールだったかな」
「なにそれ」
「まぁ、10歳も年下な君が知ってるはずないか」
薄く笑みを浮かべながらコーヒーに口をつけるタイオン。
そんな彼の一言に悔しくなった。
自分たちの年齢による格差をありありと見せつけられ、住む世界が違うのだと突き放されているかのようで。
だからこそ、対抗したくなった。
10歳なんて年の差、大したことない。自分たちは同じ目線でものを語れるのだと証明したかった。
「あぁあれだろ?タイオンの世代って、PHS使ってた世代だろ?数字でコミュニケーション取り合ってたんだろ?知ってる知ってる」
知っている知識を我が物顔で披露した瞬間、目の前に座っていたタイオンは“ぶっ”とコーヒーを吹き出しそうになっていた。
なにか変なことを言っただろうか。
目を丸くするユーニに、タイオンは笑いをこらえながら指摘し始めた。
「PHSは僕たちよりもっと前の世代だぞ。それに、数字でコミュニケーションがとれるのはPHSじゃなくポケベルだ」
うっすらと知っていた知識はどうやら間違っていたらしい。
“何も知らないじゃないか”と笑うタイオンに、ユーニは一層悔しくなった。
タイオンが高校生だった10年前、自分はまだ小学生だった。
その頃高校生の男たちが何に熱中し、どんなものを好んでいたかなんて知るわけがない。
上の世代への興味など1ミリたりとも湧かなかったが、こうしてタイオンと再会してからは知りたくて仕方がなくなっていた。
年齢という差を埋めるために、タイオンがこの世界でどんな青春を過ごしてきたのか知りたい。
自分と同じ男子高生だったころのタイオンは、どんな男だったのだろう。
どんなに追いかけても埋まることのないこの年の差を感じるたび、ユーニの心はささくれるのだ。
***
パンケーキを食べ終え、古民家カフェを後にする頃には、雨脚が少し弱まっていた。
豪雨から小雨程度になってはいるものの、未だ空の色は暗い。
この後は江の島方面へ向かい海を見る予定だったが、この天気では荒れた可愛げのない海しか見れないだろう。
仕方なく2人は車に乗り込み、自宅方面へと帰路につくこととなった。
海沿いの道をわざわざ選んで走行しているのは、タイオンなりの気遣いだった。
荒れていても海は海。何も見れないよりはましだろう。
波が高い湘南の海を横目に暫く走行してたのだが、雨の弾幕が次第に薄くなっていくのがわかった。
やがて10分ほど経過すると雨は完全に上がり、雲間からオレンジ色の日の光が差し込み始める。
灰色の雨雲から差し込む光は何とも幻想的で、運転に集中したいのに意識が持っていかれてしまう。
目の前の光景に見とれていると、助手席の窓に張り付いたユーニが不意に“あっ!”と声を挙げた。
「虹出てる!」
「えっ」
ユーニからの指摘に思わず視線を向けそうになったが、流石に運転中に目をそらすわけにはいかない。
隣に座っている彼女のはしゃぎ具合から冗談ではないのだろうと判断したタイオンは、好奇心に負け車を浜辺近くの路肩に停車させた。
身を乗り出し助手席の窓から外を見てみると、灰色の雲の合間にうっすらと虹が見える。
雲間から差す光に照らされている虹は、光が幾重にも反射して幻想的な風景を作り出している。
「な?虹出てるだろ?」
「あぁ、ホントだ……」
「ここじゃよく見えない。降りてちゃんと見よっ」
そう言って、ユーニはシートベルトを外し車の外へ飛び出していった。
すぐそばには湘南の砂浜。
雨に濡れた靴で侵入するような場所じゃないが、ユーニは構わず波打ち際まで駆けだした。
靴が汚れるとかそんなことも気にせず走り出せるなんて、あれが若さか。
そんなことを考えていると、波打ち際ぎりぎりまで駆け寄ったユーニが振り返り大きく手招きしてきた。
「何してんだよ!早く来いよタイオン!」
海風に髪を靡かせながら、きらめく笑顔で彼女はこちらを見つめてくる。
その笑顔を見た瞬間、非常に厄介な言葉が頭に浮かんできてしまった。
“可愛い”なんて、28歳のアラサーが女子高生に抱いていい感想ではないのだろう。
手招きに応じるべく、タイオンは砂浜に一歩足を踏み入れた。
彼女の近くまで歩み寄ると、寄せる波がスニーカーのつま先部分をわずかに濡らす。
あぁ、もうこのスニーカーは履けそうにないな、なんて現実的なことを考えているタイオンとは対照的に、ユーニは濡れる靴を全く気にするそぶりも見せず虹を眺めていた。
「やばくね?めちゃくちゃ綺麗じゃん」
「そうだな」
「なんか感想薄い」
「虹なんて珍しいものじゃない。雨上がりの空にはたいてい浮かんでるだろ?そんなに感動するほどのものじゃない」
幻想的で美しい事実は認めるが、だからと言って声を挙げるほどありがたがる光景でもない。
幻想的な光景を前にしても現実的なことしか言わないタイオンに、ユーニは少し呆れていた。
もう少し感動してくれてもいいのに。
こんなに大盛り上がりしている自分がまるで子供みたいだ。
いや、“みたい”じゃなく、タイオンからすれば自分は間違いなく子供なのか。
少しだけ苛立ちを感じ、ユーニはため息交じりに素直な気持ちを口にした。
「タイオンと一緒だから感動してるのに」
なんとなく囁かれたその一言に、心を掴まれた気がした。
そして、厄介な思想が頭をよぎってしまう。
もし今自分が純粋無垢な男子高生だったなら、今の一言で確実にこの子のことを好きになっていたのだろうな。
隣の男がそんなことを考えているなど知る由もないユーニは、一向にこちらを見ようとしないタイオンの態度に焦れていた。
少しくらいこっちを見てくれてもいいのに。
何とかしてこの堅物で大人ぶっている男の意識をこちらに向かせたい。
かつてユーニは、同じようにタイオンの意識を無理やり自分に向けさせようとしたことがある。
不意にあの時のことを思い出したユーニは、まっすぐ虹を見つめているタイオンの横顔に向かって声をかけた。
「タイオン、こっち向いて」
言葉で促しても、タイオンが視線を向けてくることはなかった。
悔しくなったユーニは、両手で彼の左腕を掴む。
物理的な触れ合いがなされたことで、タイオンの視線はようやくこちらに向けられる。
休日の今日は、タイオンの目元に眼鏡がかけられている。
視線と視線が混ざり合う。
眼鏡越しに見えるタイオンの顔は、あの頃と何ら変わっていない。
かかとを上げて背伸びをすれば、目を丸くしたタイオンとの距離がゆっくり近づいていく。
けれど、唇が届く前に、彼の右手がユーニの額をぺしんと音を立てながら押さえつけてきた。
額を押し返してくるタイオンの手は、ユーニからのキスを拒絶する。
「なにしてる?」
「拒否んなよ……」
「拒否るだろそりゃあ」
「むかつく」
「そういうのは同世代の男にやってくれ」
相変わらず腹立たしいほどにはっきりとした拒絶だった。
健全で正しい大人であろうとするタイオンとの間には、どんなに暴れても崩れない壁がある。
タイオンのほうから壁を壊してくれない限り、二人の距離は永遠に縮まらないのだろう。
あの時は顔を赤くしてくれたのに、今は一切顔色を変えないタイオンの態度に悔しくなって、ユーニは背を向け車のほうへと歩き出す。
背後から“もういいのか?”と声をかけられたが、返事はしなかった。
タイオンから思った反応が返ってこなかったことも悲しいけれど、何より切なかったのは、背伸びをしてもタイオンの唇に届かなかったこと。
あの頃は、少しかかとを上げれば目線は平行になった。
けれど今は、どんなに背伸びをしても目線は見上げたまま。
このわずかな差が、二人の心の距離を示しているようで辛かった。
***
帰りの道のりは行きの道中に比べて随分と長く感じられた。
背伸びからのキスを拒絶したあの瞬間以降、ユーニは窓の外を見つめたまま一言も言葉を発することはなかった。
車内を包む気まずさに耐え切れなくなったタイオンが仕方なく何度か世間話を持ち掛けてみるも、ユーニは“うん”しか返さない。
行きの道では見るものすべてにリアクションして鬱陶しいくらいだったのに。
同世代の“女性”ですら扱いが難しいのに、この年頃の“女の子”はもっと難しい。
気分の高低差がジェットコースターのように目まぐるしく変わり、タイオンの方が10歳も長く生きているにも関わらず振り回されている。
自分が彼女と同じくらいの年頃だった時、同級生の女子たちとはどんな距離感で話していただろう。
考えてみたが、そもそも自分とユーニは同級生ではない。
年齢がかけ離れている以上、同級生の男子たちのように気安い関係でいるのはマズい。
ますますユーニとの距離感が掴めなくなったタイオンは、ハンドルを握りながら思った。
もしも自分が彼女と同い年だったなら、もう少し気楽に距離を縮められただろうか。
約1時間半のドライブはようやく終了し、2人を乗せた車は自宅であるマンションの駐車場へと入った。
正面ロビーをくぐり、ポストの郵便物を確認してみると、上質な紙で折られた綺麗なデザインの封筒が目に入る。
取り出し、宛名を見た瞬間この封筒の正体がはっきりと分かった。
結婚式の招待状である。
「なにそれ?」
「結婚式の招待状だ」
「友達の?」
「いや、職場の上司だ」
ユーニはあまり興味なさげに“ふぅん”と返してきた。
直属の上司が同僚の女性と結婚し入籍したのは1か月ほど前のこと。
入社以来世話になっていた件の上司の朗報に、タイオンは大いに喜んでいた。
“結婚式には呼ぶからな”とにこやかに言ってくれていたが、本当に招待してくれるとは思っていなかった。
「せっかくのイスルギ部長の結婚式だ。スケジュールを空けておかないとな」
そう言ってスマホを取り出し、スケジュールアプリを立ち上げると、横からユーニが“イスルギ?”と聞き返してきた。
イスルギ部長の名前はそれなりに珍しい。
本人曰く取引先との席でも聞き返されることが多いらしい。
ユーニもこの名前の珍しさに思わず聞き返しただけなのだろうと思っていたが、次の瞬間彼女は妙なことを口にしてきた。
「もしかしてその“イスルギ部長”の結婚相手って、“ナミ”って名前なんじゃね?」
「え?」
イスルギが結婚した相手は、彼と同期でもあった人事部のナミ主任だ。
ユーニはイスルギとはもちろんナミとも面識がないはず。
封筒にはイスルギと連名でナミの名前も記載してあるが、ユーニには封筒を見せていない。
なのに、何故花嫁の名前が“ナミ”であると一発で言い当てられたのだろう。
「何故ナミ主任の名前を知ってるんだ……?」
「“アイオニオン”では知った仲だったんだよ。あの世界でも2人はそんな感じの関係性だったから」
「馬鹿な。適当なことを言うのはやめてくれ。あれは君の空想話だろ」
「違うって。あれはアタシにとってもタイオンにとっても、イスルギやナミにとっても現実だったよ」
また理解しがたい理屈を口にし始めるユーニに、タイオンは戸惑うしかなかった。
まるで遠い過去を振り返るかのような目をしているユーニの言葉には、妙な説得力がある。
そんなはずない。現実離れしすぎている。並行世界の存在なんて認めてたまるものか。
そう自分に言い聞かせてみるが、心に渦巻く違和感は大きくなるばかりだった。
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