ひろいもの まだ生まれて間もないであろう小さな子狐が、その短い手足を一所懸命に動かして、地を駆けずり回っている。走って、転んで。茂った草が緩衝材になったのか、けろっとした顔で起き上がって、また走り出す。
聞こえてくる幼子特有の甲高い声に、オーエンは耳を伏せた。騒々しいそちらに目線をやれば、どうやら子狐はオーエンに気がついていないらしい。ひたすらに走って、転んで、それを繰り返している。木の上からしばらくそれを眺めていたオーエンであったが、諦めたようにひとつため息を一つ溢した。
「はぁ……」
こうして傍観してはいたが、オーエンの体裁のためにも不法侵入の不届きものをこのまま放置しておく訳にはいかなかった。
近頃、幾度とオーエンの縄張りに侵入しては馬鹿みたいに走り回っている子狐がいた。ちょうど、そこで赤毛を振り乱しどたばたしているあの子狐のことである。
最初は、勝手が分からず迷い込んだのだろうと思った。故に、今と同じように走り回る様子をしばらく観察して、飽きてその場を離れたのだが。別のことに気が取られていて、ふと気がついた時にはもうその気配は無くなっていた。
きっと、親かその代わりの妖が迎えに来たのだろう。きっと、そこがオーエンの縄張りだと知っている親にしこたま怒られているに違いない。そう思ったのだが、どうやら違ったようで。二日と明けずにその子狐はここへとやってきたのだ。
流石に灸を添えてやろうかと、その日は子狐の迎えを待つことにした。しかし日が暮れてきても、子狐以外の気配は現れない。結局、その日は完全に日が暮れる前にそのままの勢いで走り去る子狐を見送ることとなった。
その次の日にも、子狐はやって来た。やはり一日中転げ回って遊んでいて、また日暮に帰るのだろうと思っていた。しかしその日は様子がおかしくて、子狐は日暮頃からぱたりと寝そべったまま動かなくなってしまったのだ。気になって見に行けば、どうやら眠っているようだった。
それにほっと息をついて、首を傾げる。こんな尻尾ひとつの子狐いっぴき、オーエンにはどうにだってできるのに。今までだって侵入者には例外なく制裁を与えてきたというのに、何故だかそれが出来ずにいる。
日が落ち切ったころに目を覚ました子狐はどこか淋しそうに見えて、その背を見送ることしかできなかった。
らしくないことをしている、その自覚はあった。
それが、一週間ほど前の話。何かあったのかそれから暫く姿を見ていなかったのだが、ああして今日も子狐は走りまわっている。あの子供をどうするべきか、判断をつけられずにいた。しかしこれ以上あの子狐を放置すれば、噂はあっという間に駆け巡りオーエンの沽券に関わりかねない。
面倒なことになる前に片付けなければ、どちらにしても外野がうるさくなる。ゆらと立派な四尾を揺らして、オーエンは木の上から飛び降りた。
「わあっ」
何かに躓いたのか、或いは足をもつれさせたのか、声をあげてべしょりと子狐が頭から地面へと突っ込んでいる。その後頭部からほんのひと拳分開けた位置に、オーエンはふわりと降り立った。
「おい」
声をかければ驚いたのか、びくりと肩が揺れる。次いで勢いよく身を起こした子狐に、今度はオーエンが驚かされた。
「は、」
無論、子供の動きに驚かされたわけではない。顔を上げた幼い顔つきの、左右に嵌った大きな瞳。遠目から眺めていた時は気が付かなかったが、丁度、オーエンと互い違いの色をしていた。
同じ色どうしで呆然と見つめあって、数秒。吃驚してまんまるだった幼子の瞳が水分を纏って潤んできたことに気がついた時にはもう、手遅れであった。
「〜〜っ」
「え、ちょっと、」
堰を切ったように泣き出した子狐に、オーエンは戸惑う。オーエンが泣かせた訳でもないのに、側から見ればそう見える状況に大いに慌てた。否、誰が見てる訳もないのだがなんだか罰が悪くなってどうにか宥めようとするも、子守の経験などあるはずもなく途方に暮れる。
ええいままよとへたり込んだ子狐を両脇から持ち上げ、腕に抱え込む。顔についた泥と涙を拭ってやって、先ほどより近い距離でその両目を覗き込んだ。
「おまえ、名前は?」
抱き上げられたことに驚いたのか、涙を引っ込めた大きな瞳が瞬く。そうして、少し恥ずかしそうに目を泳がせて、鼻を啜る。
その日何を血迷ったのか、カインと名乗った子狐をオーエンは住処へ連れて帰ることにしたのだった。