Somethin' in here's not right today 偽造された会員証は、公園にいた小汚い男が作ったものとはとても思えないほど精巧に再現されている。ここは奇人変人が闊歩する街であるが、とはいえ決して特徴がない、とは言い難いシグナルの体躯でさえも、何も疑いもせず迂闊に招き入れる程度には、よく出来た代物であったようだ。しかしながらその会員証のためにはたいた大枚に見合う成果を彼は得られないままパーティーは終わる気配を見せており、ちらほらと会場を後にする者もいる。
自分の足で歩ける範囲は、可能な限り。得られる情報は一つでも多く。それが彼の生き残る手段であり、己の人生への抵抗であった。過去に負った精神ないし身体の傷の影響で、顔そのものを覚える事は得意でなく、しかしすれ違った相手の口紅の色、上着に出来た毛玉の具合、わざとぶつかってやった時などは耳から入る情報、そして怒りや怯えの反応など。そういったものを組み立てて出来上がる人物像と、そこから予測し枝分かれしていく行動の予測や人間関係の繋がり。あるいはそれを元手に手に入れた様々なコネや市場に出せないようなモノなどを"商品"として売っている。
会場にいる人間達から得られた商品は、当然、場末の酒場に比べれば多くはあるが、ことさら面白いものではなかった。しかし。
「……ん?」
ドレスコードで縛られた窮屈な服に煩わしさを覚えながら、せめて酒代で元を取ろうと値段の高い順にグラスを空けていたシグナルは、側で会話をしながらなにやら文字を書き留めている男に違和感を感じた。視線だけでその筆先に目をやると、喫緊に起こったしょうもない争い事のメモが綴られていく。それ自体は特段目新しい内容でもない。路上を歩いている適当な人間に聞いても大差ないような、くだらない会話がその場で交わされていただけだった。ならば違和感は一体。
ペンを握る男はある新聞社の社長であった。時折メディアにも顔を出していたと記憶している。深月風雅。帽子と杖が印象的な、若い男だ。この会場にそんな上役様がわざわざ来る価値があるとは思えないが、選挙に出るための票田に挨拶でもしに来たのだろうか。ご苦労な事だ。そんなことを考えながらグラスを替えて呑み進めた。
煙草が吸えればもう少し間を持たせることが出来たかもしれないが、当然今の時勢、煌びやかなこの会場では許されない。あまりひと所に止まっているのは怪しまれるだろう。動向が気にはなるが、答え合わせは後日、道端に落ちている紙面で確認すればいい。そう思いながらグラスを置いた時、ひりつく気配とともに、突如違和感が晴れ、否、もっと荒々しく、消し去られた。
<盗み聞きは感心しないな>
そう伝えたのは、無機質な筆先の音。長音と短音で紡がれる警告の声。
思わず振り向くと、そこには先ほどと変わらず取材を続ける姿があるだけだった。手元の紙にも特段、符号があるわけではない。──深月風雅は、その走り書きの様々な単語や文字を組み立てて、音にしていた。その上で、滲むインクと取材の内容に齟齬はない。よほど意識しなければ雑音でしかないだろう。警告、で許されているほんの数秒、音を聴いていると、どうやらその音は目の前の人間とは別の相手と会話しているらしい。行儀のいい振る舞いの裏で、まるでオセロのディスクのように真っ黒な言葉が、どこかへ伝搬していく。背筋に寒気が走り、肌が粟立った。
この男の目に一瞬でも止まったのは収穫か、あるいは損害か、今は量ることが出来ない。シグナルは舌打ちしたい気持ちをぐっとこらえ、誤魔化すようにオードブルを一つ摘み上げその場を離れた。しかし退屈だった会場は、すでに一変している。