欲深きもの 鍾離と公子は酒宴と閨を共にする仲だった。
始まりは些細なもの。深酒から下世話に落ちた会話。売り言葉に買い言葉、煽り煽られいつの間にかひん曲がったやり取りは、男二人を臥床に沈めることになる。
どちらが始まりか、なぜ公子が受け身側へと回ったのか、なぜ生殖の必要のない魔神の鍾離に欲が芽生えたのか。二日酔いの頭痛と爛れきった白布の上の問答に大した意味はない。交合いを持った二人に残ったのは、身体の相性がすこぶる良いという結果だけ。そして、それは再びお互いに手を伸ばす理由に充分だった。
なんせ二人とも少しばかり色恋の情緒に欠けていたので。心より先に、損得勘定と肉欲が身体を動かしてしまったのだ。
しかし、それもこれも公子が璃月に駐在していた頃のこと。他の任地へ行くとさっさと去ってしまえば、鍾離の肉欲も不思議なくらいさっぱりと消え失せていた。
気づけば顔を合わせず半年以上。ほとんど毎週顔を合わせていた男が跡形もなく去っていくのは、鳥が南に渡るよりもあっさりとしたもので。元より手紙を出し合う関係ではなかったから、それっきりだった。そして、公子が再び璃月に訪れていると聞いたのも、仕事を探し回る胡堂主からだった。
久しぶりに顔を見るかと、北国銀行を訪れたのが一週間前。ちょうど受付嬢と話していた公子を捕まえた。何故か鍾離の顔を見た瞬間に頬を引き攣らせて、そのまま奥へと逃げようとしたがそれを制し、以前から仮取りしていた琉璃亭での食事を取り付けた。
そうして、当日。食事が始まり酒が入れば、おかしな様子だった公子の態度も和らぎ、これまでと同じように互いの近況を語り合った。舌が回り始めれば公子は楽しげにあれこれと喋る。実家に帰省したこと、そのときの天気のこと、半年のうちに出会った強敵のことなど……あれそれと尽きぬ話題を語る公子を講談を聴くように頷きとともに眺め、それを肴に酒を飲む。公子に振られれば、今度は鍾離の方から同じように。ついつい互いの飲む速度も上がる。店を出る頃にはどちらの頬も緩みきり、箸を持っても落としても笑い声をあげるような状態になっていた。
「ふふ、先生ベロベロじゃんか。そんなんで、今日勃つの?」
なんなら俺が入れたげよっか。にへらと、あどけない相貌をこれでもかと綻ばせ、不似合いな不埒な手が鍾離の太腿を摩る。同じように酔っ払った鍾離はへらへらと笑いながらも、内心少し驚いていた。——なるほど、公子殿はまだ俺と身体を重ねてくれるのか、と。
太腿に添えられた手を取り、手袋越しの指を組む。どうせ今街にいるのは酒飲みと仕事疲れた者にばかり。男二人の距離が近かろうと、酔っぱらい同士の戯れだろうと気に留めることはない。ふわふわと浮き足立った心地で歩を進めながら、掌を擦り合わせる。
少しだけ目を丸くした公子を引き、階段を上る。目指すのは、再び彼が借りている白駒逆旅の裏口だ。
「公子殿」
「えー、と」
扉を開けて二つの身体を滑り込ませて、すぐに閉じる。普段よりも足元の覚束無い公子を抱き寄せて、揺れる赤玉に歯を立てた。
「夜を共に出来るなら、またお前を抱きたい」
公子の揶揄など意にも介さず。熱を持ち始めた下腹部を、囁きと共に押しつける。どこかに飛んで行ったと思った肉欲は、ただ鍾離のうちに秘されていただけだったようだ。
***
「ん……」
白布に沈んでいた公子の瞼が、かすかに揺らいだ。身体を清めた綿布を洗い、汗ばんだ額に添える。ちらりと眺めた色白の肌には、公子の激しい戦闘を支える留帯と治りかけの傷。それから、鍾離が刻んだ鬱血痕と歯型。赤であれ、青紫であれ、雪国育ちの肌にはよく映える。
胸下に線を描く一本をなぞる。中央から、指先で端まで。脇の下に触れると、特に皮膚の薄い箇所なのか公子の身体が揺らぎ、瞼が上がる。じとりと、不満げな表情を携えて。
「……えっち、寝込みを襲うなんて」
「ハハ、夜襲を生業とする組織の男に咎められるとはな」
「俺はそういうの好みじゃない。どうせなら、真正面からやりあう方が楽しいだろ」
手招かれるままに公子の隣に並べば、のろのろと鍾離の髪に手が伸びた。櫛のように立てられた指に委ね、身体を抱き寄せ耳裏に鼻を添える。自分のものではない甘やかな香水と汗の匂い。
始めの頃の公子は、鍾離が傍らに寝るのを随分と嫌がっていた。仕事柄、寝ているときでも気を抜くことが出来ないし、近くに人の気配があると神経が逆立つと。
しかし今は、鍾離が好き勝手に抱き寄せその素肌に口付けを落とそうとも、ほんの少しむず痒そうに身じろぐだけで文句も抵抗もなかった。
「……そういえば」
「ん?」
「北国銀行で俺を見たとき、なぜ逃げようとしたんだ?」
「あ、あ〜……」
公子の背をさすり、その顔を覗き込む。銀行で見たのと同じように、気まずそうな表情。むぐむぐと唇を歪め、観念したような溜息とともに公子の指が鍾離の髪を摘む。指腹同士を擦り合わせながら、ゆっくりと唇を開いた。
「なんか、さ。期待してるみたいだろ?」
「期待?」
「しばらく璃月に来ていなかったのに、自分の誕生日のときだけしれっと顔を出したらさ」
今度は公子の掌が背に回り、肩甲骨をさする。胸板に顔を押し付けられながら浮き出た骨を押されて、ほんの少し息が漏れた。
「鍾離先生と話すのは楽しい。聞き上手だし、話し上手だし。久しぶりの琉璃亭も美味かった。でも、こう……もう分かってるだろうけど。俺が、この日あんたに会えるのを楽しみしてるって悟られるのは、ちょっとねえ。もっとさっぱりした感じだろ、俺と先生って」
ぐうう、と。背を押す手に力が増す。公子は加減しているつもりかもしれないが、そこそこの腕力と驚きに鍾離の呼吸はどんどん下手になってしまう気がする。
目の前の朽葉の髪に唇を寄せる。冬へと近づく木々の髪を持ちながら、その身はどこか、夏を待つ春に似た男。肩を叩き、少しだけ押す。持ち上がった顔に二つ、光を通さないほど深い湖に似た瞳を見つめる。
「……な、んですか」
ほんの少し染まった頬とぶっきらぼうな敬語もどき。痺れを切らした鍾離はついに吹き出してしまった。
「いや……ふ、すまない。俺も似たようなことを考えていた」
布団の端に引っかかっていた上着を手繰り、瑠璃色の小包を取り出す。公子の手に乗せて促せば、武器だこの出来た指が華美な包装を解いていく。中には、小さな白磁製の入れ物。
「……これは?」
「紅だ。俺が臉譜に使っているのと同じものだな」
「もしかして、また俺の支払い?」
「いいや、今回は俺の給金から」
「うっそ……初めてじゃない? 今年一驚いたよ」
公子が目を丸めて蓋を開け、中の化粧品を覗き込む。すんすんと鼻を揺らして、今度は目を細めた。
「花の匂い……霓裳花と、白檀かな?」
「ああ。それと少しだけ石珀を混ぜている。特注品だ」
「あっはは、先生のお気に入り尽くしだね」
「公子殿の誕生日は以前に聞いていたからな。……直接渡せるならと、柄にもなく浮かれてしまった」
公子が身体を起こし、化粧品を臥床脇の棚へと置いた。もう一度傍らに並んだ顏を眺め、紅を塗り込むようにその目尻を撫でる。細められた瞳につられて、こちらの頬が緩む。もう酔いは、醒めているはずなのに。
「……それで? 博識な鍾離先生のことだし、何か特別な意味でも込めているんじゃないかい?」
「ああ……たいしたものではないが。もし叶うのなら、その紅と共に、お前が歩む世界と覇道を眺めたいと思っている」
頬骨を撫でた鍾離に、公子は破顔して腹を抱えた。
「あっははは! それでたいしたものじゃないなんて! ほんとに鍾離先生も浮かれているみたいだね。そうだなぁ、気が向いたら使ってあげるよ」
春を終えた夏空のように、軽やかな声音だった。