白昼夢「謝必安?」
稽古場のすみでぼんやりと床に座っている男を役名で呼んでみた。
「…なんですか無咎」
そう呼ばれた彼は顔をあげて役名で呼び返して、次の切り返しを待ってみた。
どこかのシーンをおさらいするのか、悪ふざけが始まるのか。どちらでも構わない。目の前の『范無咎』が何を言い出しても、期待された通りに返してやる。
范無咎役の彼が、時折本当に范無咎に見えることがある。役作りの賜物だろう。范無咎は、こうやって笑っただろう、こうやって汗を拭うだろう。こうやって食事するだろう。
すべての仕種が懐かしい。
「…必安、お前」
すぐ隣まで近付いて顔を覗き込んだ。
「無咎、貴方に、会いたかったんです」
自分を謝必安と呼ぶ男に范無咎と声をかけ、手に触れてみた。稽古中の体はいつもより少し熱い。
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