白昼夢「謝必安?」
稽古場のすみでぼんやりと床に座っている男を役名で呼んでみた。
「…なんですか無咎」
そう呼ばれた彼は顔をあげて役名で呼び返して、次の切り返しを待ってみた。
どこかのシーンをおさらいするのか、悪ふざけが始まるのか。どちらでも構わない。目の前の『范無咎』が何を言い出しても、期待された通りに返してやる。
范無咎役の彼が、時折本当に范無咎に見えることがある。役作りの賜物だろう。范無咎は、こうやって笑っただろう、こうやって汗を拭うだろう。こうやって食事するだろう。
すべての仕種が懐かしい。
「…必安、お前」
すぐ隣まで近付いて顔を覗き込んだ。
「無咎、貴方に、会いたかったんです」
自分を謝必安と呼ぶ男に范無咎と声をかけ、手に触れてみた。稽古中の体はいつもより少し熱い。
ハンターの体とは違う。
「俺も、お前に会いたかった。もう何も心配いらないんだ」
「…何言ってるんですか」
なんだか、嫌なことを言われる気がする。このエチュードを、自分のペースに持っていきたい。余計なことは言わせない。聞きたくない。
「今日は、雨ですね。こんな日に貴方と二人で居られるなんて」
熱くて大きな手をぎゅっと握る。なんとなく自分の手がふわふわとおぼつかない気がする。気圧のせいなのか?
「…もう、絶対に離しませんよ」
何故か手を握っている実感が薄くて、焦燥感を覚える。彼は目の前に居るのに、なんだか遠いような気がする。
「わかってる」
「何を、」
彼は掴まれた手をぐっと引いて、その勢いのまま『謝必安』を抱き寄せた。
ああ、彼は、范無咎は、こうやって謝必安を抱き締める。
彼は。…彼?
「…何処にも、行かせないですよ」
彼が、此処に。
何故か、声が震えて、涙が出ていた。ええっと、これは。
「…わ、え?あれ、俺…ちょっと待って…」
懐かしくて苦しくて。
懐かしい?何が?
離れたくない。
「大丈夫だから」
何故か苦しそうな范無咎の声がする。
そんな顔をしないで。
此処に居るのに。なんで?
熱くて大きな手が濡れた頬を拭う。
「無咎…」
范無咎の唇に、触れたい。無性にそう感じた。
「…」
范無咎が、謝必安をいっそう強く抱き締める。
「ねーねー!ランクマ行かない!?」
その時、稽古場のドアを開けて飛び込んできたのはロビー役の彼だった。
「あっ、ごめん、稽古してた?」
「あぁ…いや、行けるよ」
そうだ、ここは都内のスタジオで、今は稽古の昼休憩だった。
彼の声で目が醒めたような心地だった。ふたりはぱちりと目を見合わせる。
あれ、今何をしていたっけ。なんで頬が濡れているんだっけ。
「…あー、と。俺たち組めるっけ?ランクマ全然行けてないからめちゃくちゃ低いよ」
「俺も今シーズンあんまり行けてないから大丈夫だと思うけど、ダメだったらサブアカあるよ!」
「ちょっと待ってスマホ」
范無咎役の男が先に立ち上がる。謝必安役の彼はまだどこかぼんやりしている。
「大丈夫?立てる?」
「ええ、…あぁ、いや、うん」
軽く頭を振ってみる。
「どした、寝てない?」
「いや、そんなことは…ねぇ俺マジで最近サバイバーやってないけど良い?」
ゆっくりと立ち上がりながら誘ってきた彼に声をかける。ごしごしと乱暴に目元を拭っていると、その手を掴まれて顔にタオルが押し付けられる。
「あとひとり誰かハンター捕まえてハンター4パサバラン行こうぜ」
「おっ、じゃあ元ヘラクレスのガラテア探しに行くか。ちょっと見てくる!」
飛び込んできたときと同じように元気よくロビー役の彼が出ていく。
急に静まり返った稽古場に遠くからサアサアと雨の音がする。
「…なんか、さっきさぁ、」
「うん」
「…いや、なんでもない」
「うん…」
もう今は彼の顔は范無咎には見えない。
目が醒めた。
そこはいつもの荘園のいつもの部屋。
謝必安が目を醒ますと、傍には傘。
「…おはようございます。無咎」
『おはよう、必安』
傘から本当に声がするわけではない。謝必安にだけは、この傘に宿る范無咎の声が聞こえる。
「なんだか不思議な夢をみたんです」
傘はいつでも手の届くところにある。手を伸ばして傘を引き寄せて、抱き締めるように抱える。
『俺も不思議な夢を見たような気がする』
「………」
夢の中では、目の前に范無咎がいて、優しくて、笑っていて。
見つめ合って触れ合うことが出来て。手のひらが熱くて。
抱き締め合うことが出来た。
『…必安』
今、范無咎は、謝必安の頬の涙を拭うことすら出来ない。