Welcome to this world! ふくふくとした頬が綻び、小さな指がランディの手に触れる。その無防備な信頼が愛おしく、そして少し恐ろしかった。
「わ、わあ……ちっちゃい……!」
「ほらランディだぞー。聖剣の勇者さまだぞー」
抱いてみろ、と言われておっかなびっくり赤ん坊を受け取る。ご機嫌な小さな彼女はきゃっきゃと歓声をあげ、ランディは落としやしないかとそのままの姿勢で固まってしまった。
その様子を面白そうに眺めながら、ボブはランディが見たことのない種類のとろけるような笑顔で言った。
「どうだ、かわいいだろ」
「うん……! ボブに全然似てない!」
「お前! ふざけんなよ、ほら髪の色とか一緒だろうが!」
ボブの大声に「ふえ」という声が聞して、赤子が火がついたように泣き出した。ボブがしまったという顔になり、ランディは「えっえっどうしよ」とあたふたする。ボブが赤子を受け取りあやしてやるとやがて泣いていたことなど忘れたように泣き止み、今度はうつらうつらとし始める。目まぐるし過ぎてランディは呆気に取られてしまう。
「歩いてやるとその振動がちょうどいいみたいですんなり寝てくれるんだ。ちょっと歩こうぜ」
「うん」
ふたりは村の外れを徐に歩き出した。
聖剣を巡る戦いの日々から三年の月日が経った。ランディはポトス村に戻って以前と同じように村長の家で暮らしている。平穏な日々が続くうちに、同年代のボブが結婚をし、このたび初めての子をなした。午後の穏やかな風と、柔らかな木漏れ日の中を、ふたりとボブが抱いた小さなひとりとで進んでいく。
「……ありがとな」
唐突にボブからもたらされた呟きに、ランディは首を傾げた。
「? 何が?」
「お前が聖剣を抜いた日のことだよ。穴に落っこちたとき、お前が聖剣でカマキリみたいなバケモノを倒してくれた。おれひとりでとても生き残れたとは思えない。お前がいなけりゃ、おれは死んでたしこの子も生まれなかったんだな、と思うと、改めて礼を言わなくちゃなんねえなって」
ボブがまっすぐランディを見つめた。
この村に帰ってきたとき、これまでの扱いや聖剣を抜いたときのもの言いなどについては村全体から謝罪を受けていたし、ボブから助けた礼も既にもらっていた。ランディは面食らったが、ボブの真剣な瞳を見て、なんだかむず痒くなる。
いつも乱暴に扱われ、理不尽なことをされてきた記憶があったが、いつのまにやらボブが成長してしまったらしいのを悟ったのだ。
ランディは結局、軽く苦笑してからかいの口調になった。
「……なんか、ボブ、すっかり『大人』だし、『親』だね」
「おうよ。もう、この子が幸せになるためだったらなんでもしてやろうって気になるね」
「へえ、あのガキ大将のボブがね。僕のイメージでは、育った暁には子分にして使ってやるとか言いそう」
冗談めかしつつ半分本気で言ったのだが、ボブはとたんに顔をしかめた。
「いや、子どもは何かに使うために生まれてくるもんじゃないぞ。もう、生きてくれてるだけでいい。いてくれてるだけでいいんだ。そういうもんだよ」
「……そっかあ」
そよそよと吹く風が通っていった。赤子は振動に身を委ね、そのまぶたをおろしかけていた。
ランディは思わず空を振り仰いでしまう。
沈黙に面映くなったのか、「いい加減お前の中のおれのイメージ更新しろよ」とボブが笑い、ランディも声を出して笑った。
「な、ランディ」
「何?」
「この子の名付け親になってくれねえか」
ランディはびっくりしてボブを見つめた。本当に、今日はこの昔馴染みに驚かされてばかりだ。
「僕が?」
「ああ、この子は戦いの後、この村で初めて生まれた子どもだ。この子はお前の救った世界を生きていくんだ、ランディ。お前ほど名付け親にぴったりなやつはいないだろ?」
ランディは赤子の顔を見る。彼女はすっかりと安心しきって眠っている。
その眠りを、モンスターの咆哮が妨げたり、要塞の主砲が遮ったりはもう、しないのだ。
「……僕でよければ。少し、時間をちょうだい」
「いい名前を頼むぜ」
ランディはゆっくりと頷いた。
「え、それで二週間も悩んでるの? ポポイのときはさくっと決めてたじゃない」
「あれは、目の前に意思を持った本人がいたからだよ。気に入らなかったらその場でイヤだって言ってくれる環境だから好き勝手提案できたんだ。何年も経った後に『この名前ダサい』なんて言われたら立ち直れない……」
プリムがなるほどねえ、とけらけらと笑う。アイスティーの氷がからん、と音を立ててコップの底に沈んでいく。
パンドーラ王国のカフェでふたりは向かい合っていた。ランディもプリムもすっかり有名人になってしまい旅の直後はやたらと声をかけられたが、国民たちももう慣れてしまったらしく、今では視線も特に感じない。人々は思い思いにカフェの面している街路を通り過ぎていく。
「それにしても、ちょっとイメージと違ったわ」
プリムがアイスティーのコップの縁を撫でながら言う。ランディは己のアイスコーヒーに口をつけながら、首を傾げた。
「何が?」
「ランディとボブの関係よ。旅の間にきみから話を聞いていたときはいじめられてたんだと思ってたから。ずいぶん仲良くしてるのね」
「うーん」
ランディはコップを揺らし、氷がからからと音をたてた。
「わかりやすい言葉で表しちゃうといじめっ子といじめられっ子だったんだろうけど、僕の認識ではちょっと強引な幼馴染って感じ……? 小突かれたり引っ張られたりされてたけど、正直、あれくらい無理矢理でないと僕、家から外に出なかっただろうし、あっちこっち連れ回されて結果体力ついたし……そうでないと村を追い出されて一日で行き倒れてた可能性あるし……そういう一方的な行為が心底嫌で憎んでたなら穴に落ちた時点で盾にして見捨ててもよかったわけだし」
「きみ、こうするって決めたら容赦ないところあるからやりかねないわね……。ふうん、まあそっか、私とパメラは親友だけど、外側から見たら単に恋敵って言われるかもしれないし、なるほどね。関係なんて、言葉ひとつでくくれやしないか」
プリムは一旦納得したらしく、話題を変えた。
「聖剣はどう?」
「相変わらず、特に変化はなし」
ランディは軽く言った。定期的なふたりのお茶会の目的は、「世界が平和であるかどうか」の確認だ。ランディは聖剣の森に行っては聖剣の様子に気を配り時には剣が抜けないかどうか試す。プリムはパンドーラの中枢で世界情勢を耳にして、不穏なことが起こっていないかを確認する。あっという間に三年が経ったが、今のところ、平和は筒がなく維持されているようだった。
プリムが中身を飲み干し、コップを置いた。
「うーん、じゃあさ。もういいんじゃない、ランディ」
「え?」
プリムがぴっと人差し指でランディを指差す。
「きみが世界が平和かどうかをすごく気にする気持ちもわかるけど、何もずっと聖剣を監視してることだけが平和の確認になるわけじゃないでしょ。パンドーラの国王様たちの国に住まないかって申し出も、ジェマの一度タスマニカに来ないかっていう誘いも、クリスのノースタウンで復興事業を手伝ってくれないかっていう打診も、全部保留にしてるらしいじゃない。もう三年経ったのよ。別にポトス村に居続けるのが悪いってわけじゃないけど、身の振り方を考えてみてもいいんじゃないかしら」
思わぬことを言われてランディは言葉をなくしてしまう。確かに、どの誘いに対してもそのうちね、と言って明確な返事を返してはいなかった。とはいえ、ポトス村にずっと身を寄せようと決めたわけでもなかったように思う。この三年村にいたのは、正直に言えば流されてそのまま居着いていた、という方が正しい。だが、プリムに言われた通りに今の生き方以外を考えることは、ぱっとはできなかった。
プリムはじとりとした目つきで言う。
「何か、ポトス村にこだわりでもあるの?」
「うーん……どうかな」
ランディは答えを濁すしかなかった。
パンドーラ王国からの帰り道、水の神殿に立ち寄ることにする。
水の神官は水の流れより世界の情勢を見守り続けている。マナが無くなったため、以前よりは万能ではないらしいが、水に残る多少のマナの力を利用しているという。
ランディからの異常なしの報告を受け取るとうむ、と大きく頷いた。
「わしの方も特に変わりはない。復興が進んでいるようで何よりじゃ」
「そうですか……よかったです」
「だからのうランディ、お主ももう少し、好きに生きてもよいと思うのだが」
ランディは驚きに目を見開いた後、ルカを軽く睨んだ。
「ルカ様、盗み聞きはよくないんじゃありませんか? 僕とプリムの会話、聞いてましたね」
「世界を見守っているうちに、ちょーっと目に入っただけのことよ」
ルカは見た目通りのただの少女ようないたずらっぽい表情をして視線を逸らしてみせた。ランディは投げやりな口調になってしまう。
「聞いてたのならこの報告も無駄ってことじゃないですか」
「そうじゃな。だからしばらく、世界平和を見守るのは年寄りに任せて、お主は自分の人生に向き合っても良いんじゃないかと思っての」
神殿内を巡る水流の音だけが響く。日光があまり入らない仕組みになっているためひんやりとした空気の中、ふたりはただ向かい合う。
沈黙を早々に破り、ルカがさらに言い募る。
「……聖剣を元の場所に返したお主は、もう元勇者でしかない。世界が平和を維持しているか、気を配るのはこの世界に生きる者として当然だが、それは世界中の人々全員でやるべきことじゃ。お主ひとりだけが関わる責任でも義務でもない。むしろ、マナがなくなった今、ひとりだけが背負うような使命など終わらせていかねばならないと、そう思うがの」
「ルカ様だって、水の神官続けてるじゃないですか。誰かに命令されたり、どこかの国に頼まれてやってるわけじゃないんでしょう?」
「わしは遥かに長い時を生きてきた年寄りだ。お主はまだ若い。もう少し使命の配分を、こちらに寄せてはくれんか、と言っておるのだよ」
ルカが瞳をつとランディに向ける。神殿に入る光が逆光となって、彼女の姿は見えにくいはずなのに、そこにある深い慈愛だけははっきりとわかる。
そんな風に言われたら、嫌ですなんてに言えないに決まってるじゃないですか……。
ランディは胸中に呟いたが、決定的になってしまうと思うと音に出せずに黙り込むしかない。ルカは仕様がないなと、聞き分けのない生徒をみるように微笑んだ。
ごうごうという滝の水が落ちる音が徐々に近くなる。
かつてはひとり、不安に満ちて歩いた道程も今はもう迷いない。
パンドーラを出たときに高く登っていた太陽は既にかなり低く落ちていた。茂みをかきわけ、開けた場所に出る。川の流れの中に突き刺さった剣が、赤い夕日の光を反射していた。
ランディは靴を脱いで裾を膝上まで捲り上げると、川に入っていく。水の冷たさが心地よい。かつて声に導かれるように川に入っていったときには必死過ぎて濡れることなど意に介していなかったし、温度のことなど覚えてもいない。
流れに逆らい進んで、聖剣の前に立つ。
手入れもされず水に晒され、表面に錆も見受けられる。かつての相棒が朽ちていくその姿に寂寥を感じずにはいられないが、この剣は抜かれずにこのままここにあることが最も幸いであるので仕方ない。
ランディは指を伸ばし、そっと剣の柄を撫でた。
耳の奥で、かつて聞いた声が蘇る。
ランディよ。剣を頼んだぞーー。
「父さん……」
ぽつりと呟く。
ようやく気がついた。確かに自分はこだわっていたのだろう、とランディは思う。
もう自分は元勇者でしかない。聖剣を見守る役目を、誰に命じられたわけでもない。マナの種族の末裔という肩書きも、マナがなくなってしまったこの世界ではほぼ意味を持っていない。
それでも聖剣のそばを離れられなかったのは、父から託されたからだ。
母が聖剣にほど近いポトス村に自分を置いていったのも、いずれはランディが剣を抜かなければならなかったからだろう。
自分は、聖剣の勇者となるよう望まれて生まれてきたのだ。
こだわるよ、そりゃあ。今さらお前がやらなくてもいいことだなんて言われても。
呟きは水流の音にかき消され、誰にも咎められずに消えていった。
夜もとっぷりと暮れてからポトス村に着いた。村長の家の扉を開けると「おかえり」と穏やかに声をかけられた。村長がほっとしたような顔で出迎える。
「深夜になる前に帰ってきれてくれてよかった。お客人が来ておるよ」
「客?」
ランディがおうむ返しに言うと「ランディ!」と奥からジェマが顔を出した。戦いが終わった後のジェマはずいぶんと笑顔が多くなり、無邪気と言える表情をしていた。
「ジェマ!? どうしたの?……何かあったの?」
思わず声を潜めて尋ねたランディに、ジェマは一瞬ぽかんとした後破顔した。
「ははは、世界情勢に大きな変化はない。心配しなくて大丈夫だ」
「そ、そっか」
ランディは早とちりを恥じて視線を下げた。胸を撫で下ろしたのと同時に、どこかで残念に思う気持ちがあった。そしてそんな自分に愕然とする。
幾人もの犠牲を払い、必死になって取り戻した平和なのに、僕は自分のなくした役目の方を惜しんでいる。
頭を抱えたい気分になったが、ジェマと村長の見る前で不審な態度を取るわけにもいかずぐっと我慢する。ジェマは幸いおかしいとは思わなかったようで、にこやかに話しかけてきた。
「いやなに、タスマニカに一度来ないかと、また声をかけに来たんだ。今日はもう遅くなってしまったので、悪いがここに泊めてもらってもよいだろうか。そして一晩かけてお前を口説き落とそうと思う」
ジェマのあけすけな物言いに気持ちが晴れ、あははとランディは笑い声を立てると村長の方を向いた。
「客間にジェマを泊めてもいいかな」
「ここはもうお前の家でもあるんだから、私に許可を取らないで決めてもいいんだよ、ランディ。もちろんそのつもりで部屋は整えておいた」
「……ありがとう」
村長は特別な感慨もなさそうに平素の様子でそう言うと、ランディの感謝に頷いて自室に引き上げていった。
簡単な食事をし、風呂など就寝準備を済ませた後、ふたりは少し晩酌をしながら話そうということになった。
「ランディは酒を飲める方なのか?」
「まあ人並みに……? 数回しか飲んだことないよ。正直適正な自分の酒量はまだよくわかってないかも」
「そうか。……そうだな、お前はまだそんな年齢だったな」
ジェマが遠くを見るような目になり、ランディは反応に困ってしまう。こうして歓待してしまったが、タスマニカに行く話は今回もきっと断る流れになるだろう。今の自分の心持ちでは、とてもポトス村を離れる決断をすることはできそうにない。ジェマに悪いな、という気持ちと、早く話を終わらせてしまいたい、というふたつの矛盾した呑み込み難い感情を流してしまいたくて、ランディはちびちびと酒に口をつけた。
ジェマはそんなランディの様子に気づいているのかいないのか、自分の発した言葉に何かしらの決意を固めたらしい。うん、とひとつ頷くと口を開いた。
「実は、今回また誘いをかけにきたのはだな……」
「タスマニカ共和国の騎士団の勧誘なら断るよ。僕、騎士なんて無理だよ」
「わかってるわかってる」
「王様からの暗殺者を撃退したお礼ならもうもらったし」
「そうじゃない。……実はお前の母親の、お産を手伝ったという人が見つかったんだ」
ランディは何を言われたのかわからず目を見開いてジェマを見つめた。
「お前の母親はマナの種族として身を隠していた。妊娠したのは予定になかった出来事で、準備が整ってなかったらしい。ひとりでお産をするのはあまりに危険だが、市井の医者にかかるなどあまり目立つ行動を取って帝国に見つかってしまってはまずい、とずいぶん困ったそうでな。信頼のおける筋から助産師を紹介してもらったということで、その助産師というのが見つかったんだ。少し話を聞けて……」
「ちょっと待って」
ランディは混乱しながら、ジェマの言葉を一旦止めた。
「予定になかったって?」
「あ、すまない、少し生々しい話になってしまったな。あの頃は帝国の動きがかなり活発になっていた時期だったから、マナの種族の居所がバレては根絶やしにされてしまう危険があった。それこそ子どもなど産めば、成長する前に未来の勇者ないしは未来のマナの樹を消そうと執拗に追いかけられる。だからこのときには子どもを作る予定ではなかったと話していたそうなんだが」
ジェマは余計なことを言ってしまったと焦るように早口になった。生まれる予定ではなかったと言われてランディがショックを受けると思ったらしい。だがランディは、逆のことを考えていた。思わずやや身を乗り出して言う。
「だって……マナの種族は絶滅の危機だったんでしょう。だったら子どもを産んだ方がなんていうか、形勢が有利になるよね? 積極的に産もうとしてもおかしくないと思うんだけど」
「それはお前、ただの理屈だろう。子どもを産んだから戦力がひとり増える、なんてゲームのような簡単で単純な話じゃない。子どもが生まれてからとりあえず自分で自分の身を守れるようになるには十年、いや十五年以上はかかるんだ、その間守る方がよっぽどコストがかかるし、形勢が不利になるだろう。セリンたちも予期せぬことだったらしい」
「僕……」
ランディは手を顎へとやる。そうして、かたちになっていなかった自分の持っていた想定を反復し、途切れ途切れに確認する。
「ふたりが、聖剣の勇者かマナの樹にするために、僕のこと産んだと思ってた、かも」
ああ、別にふたりが打算的だったって言いたいわけじゃないんだけど、だってそもそも世界を救わないとふたりの子どもは生きていけないんだからそれしか方法がないなら当然っていうか。
わたわたとジェマに対して手をばたつかせながらランディが言うと、ジェマはやや呆れたような目を向けていた。
「あのなあ、ランディーー」
ジェマはため息混じりに言った。
「お前もまだ子どもだな。ふたりがどういう人物だったかまるで知らないから無理もないが、セリンは自分で世界を救う気だったと思うぞ。できるなら自分の力で帝国との決着をつけて、平和な世界を子どもに生きてもらいたかったに決まっている。無償の労働力として子どもを欲しがる人間だっているが、まともな大人は普通、自分が生きてる世界の禍根を次の世代にどうにかしてもらおうと思わない。自分でなんとかしようとするものだよ」
そうでないと私だって、老体に鞭打って聖剣を抜きにこの村に来ていない。
目の前にいるジェマにそう言われてしまうと、ランディは頷くしかない。
だが、思わずぽそりと呟いてしまう。存外拗ねたような響きを持っていて、自分でもまるで子どもみたいだ、と思う。
「……だって。剣を頼んだって言われたから」
「ん?」
「剣を抜いたとき、幽霊の声を聞いたんだ。ランディよ、剣を頼むぞって。あのときは父さんだったなんて知らなかったけど……母さんに会ったときに知って、頼まれたなら世界を救わないとって気合い入ったっていうか」
「剣を抜きに来て力尽きた、今際の際の男の言葉が、剣に執着したものになっても仕方ないだろう。それが唯一のメッセージだからお前がこだわる気持ちもわかるが、それだけがセリンの望んでいたことだとどうして言える? 言葉に込められた意味など、いくらでもあるだろう。それこそ、お前の言った通り聖剣で世界を救わないとお前はこの先生きていけないとわかっていたわけだし」
澱みなく言葉を紡ぐジェマには、ランディに対して気を回しているような態度には見えない。心の底から思ったことしか言っていないようだった。
ランディは返す言葉がなくなり、沈黙を埋めるように酒に口をつけた。
外に出ると朝日が眩しかった。
あの後、ランディが何かを考えこんでいることを察したのか、ジェマもそれ以上何も言わず、なんだか微妙な空気で晩酌は終わってしまった。
「お前の母親の交友関係は見つけられなかったが、他にもセリンの知り合いには声をかけてある。一度タスマニカに来て、セリンがどんな人物だったのか、話を聞いてみないか」
ジェマは客間に行く前に、そう一言だけ付け足した。
まだ結論は出せていないが、ランディは考えてみる、とだけ言った。
自分の部屋に戻ったが眠れないまま朝になってしまった。散歩でもしようか、と村の中を歩く。早朝の村内は当然、誰の姿もなく、旅立ちの日のことが思い出された。
これからどうなるか何もわからず、ショックと不安で押し潰されそうだった。聖剣を抜いてしまったという事実は、ボブとネスに引きずられて怒られたときの「やばい」という気持ちを何倍にも膨らました心持ちをつれてきたが、それだけだった。自分が聖剣の勇者だという自負を持てたのは戦いの終盤だ。
ーー子どもは何かに使うために生まれてくるもんじゃないぞ。もう、生きてくれてるだけでいい。いてくれてるだけでいいんだ。
ボブの声が蘇る。
もしかして、自分は盛大な思い違いをしていたのかもしれないと、ようやく腑に落ちてきた。
ボブにそう言われたとき、自分は青空を見上げた。ボブの娘を見ていられなくなったのだ。
いいなあ、とそう思ってしまった。あのときには言葉にならなかった思いが追いかけてくる。
うらやましい。生きていてくれるだけでいいなんて思ってもらえて。
生まれたての子どもに嫉妬するなんてどうかしている。けれど、自分は違うから、と思っていた。聖剣の勇者になるために生まれてきたのだと思っていた。
自分の唯一のプライド、父母とのつながり。
戦いの最終局面で、聖剣の勇者であるという矜持が、マナの種族の末裔であるという正統性が、自分を奮い立たせてくれたことも事実だ。自分には生まれてきた意味があったのだと確かに確信できていた。
だからこそ、それをもう放棄していいと言われてどうしたらよいのかわからなくなっていた。
だが、別にそんなものなくても大丈夫なんだーー。
徐々に高くなる日が滲んで見えた。
心から清々しい気持ちになり、ランディは頬にある温もりをそのままに、しばらく空を見上げたままでいた。
「旅をしていたときに『びでいお』っていう、滅びた世界の記録を見たんだ。そのときに知った言葉」
ランディはそう言って、包装された赤ん坊の服を取り出した。
「パンドーラで評判の店をプリムに教えてもらったんだ。名前の刺繍がここに入ってる」
「わ、生まれた直後にも祝いをもらったのに、悪いな」
「名付け親を指名されたから、勝手に気合い入れちゃっただけ。ずいぶん待たせちゃったし、気にしないで」
ボブが頭を下げて贈り物を受け取った。彼の腕の中にいる、名前がようやく決定した子どもは、わけもわかっていないだろうがきゃっきゃと声をあげて楽しげだ。ボブは良かったな、と子に呼びかけるとランディに向き直り、名残惜しそうに言う。
「本当に行くのか」
「うん。また帰ってくるよ、ここが僕の故郷だからね」
ランディは旅装束を纏い、村の出入り口に立っていた。ジェマの申し出を受け入れて、タスマニカ共和国へ行ってみることにしたのだ。村長はいつでも帰っておいでといい、ネスは土産話を待ってるとにやりとしていた。
ランディはボブの子を見つめ、その頬を撫でた。眠そうに目を細めた子を見遣り、やわらかに微笑む。
世界中を見てくるよ。もちろん、僕自身が父さんや母さんのことを知りたいのも本当だけど。きちんと平和かどうか、大人が役目を果たしているか、子どもが役目を背負わされていないか。君や、君のような子どもたちがただ、いるだけでいいと許されるような世界になっているか。
「名付け親に成長を見てもらえないのはちょっと寂しいが、仕方ねえな。俺はポトス村の平和を守るよう務めるが、世界はちょっとスケールがデカ過ぎる。そこは頼んだぞ、聖剣の勇者」
「あはは、その称号はもう返上したんだけどなあ」
いってきます、と手を振る。
ボブの子どもと目が合う。ランディはまだ喜びも悲しみも知らない彼女の名前を呼んだ。
「ようこそ、この世界へ!」
祝いの意味の名前を持つ彼女はボブの腕の中できょとんとしたまま、去っていくランディの後ろ姿を見つめていた。