月の上の私たち私の今の勤務先は、天命が所有する複合施設――事務所や研究所が入っている建物の中にある、小さな購買所だ。
その日は遅番で、一人で締めの作業を担当する日だった。店先のシャッターを閉め、レジのお金を数えて帳簿をつける。ここに来てからまだ三週間ほどで、仕事は慣れないが難しくはない。かなり快適な職場だと思う。ただ少し、立地は変わっているが――。
「ああっ、もう閉まってた!」
シャッターの向こうから元気な声が聞こえてきた。見ると、ひと気のない施設内にひとり、白髪のポニーテールの女の子がぱたぱた走って、こちらへ近づいてくる。年の頃は娘と同じくらいだろうか。ライトブルーのスポーツウェアと化粧っけのない目元がラフな印象を与えるのに反して、なぜだかくっきりとした存在感がある、不思議な子だった。
私が目を惹かれていると、彼女もこちらに気づいたようで、
「あっ、ごめんねうるさくして。また明日来るから気にしないで」
シャッターの前で手を振る彼女に、私は慌てて声をかけた。
「買うものがあるならどうぞ入って。少しくらい構わないと思うわ」
時計を見ると、まだ営業終了時間から五分も経っていない。私は店の表に回ってシャッターを半分くらい上げた。勝手にこんなことしていいか分からないけれど、そう堅いお店でもないから平気でしょう。
「いいの? お邪魔じゃない?」と心配そうな子を「いいのいいの、大丈夫だから」と宥めて店内に迎え入れる。
「あのー、すぐ食べられるものってまだあるかな……。私、晩ごはんを用意しそびれちゃって」
「それなら、お弁当がいくつかと、パンも残ってるわ。種類はあまりないけれど」
「やった! じゃあじゃあ、晩ごはんにお弁当食べて、明日の朝用にパンも買っちゃおうかなあ!」
白髪の女の子は嬉しそうにポニーテールを跳ねてさせて、棚の前にしゃがみ、残っている商品を眺め始めた。私は三歩ほど離れたところからその様子を見て、聞いていいものか迷いながら口を開く。
「あの、もしかして、キアナさんよね……?」
彼女は大きな目をぱちりと瞬かせて、こちらを振り向いた。
「そうだよ」と笑って答えるそのお顔は、世間に出回っている数枚の写真で見たものと一致する。
「その、地球の神様っていう……?」
おそるおそる訊ねると、彼女は眉を下げ、人差し指で頬をかいた。
「うーん、間違いではないけど。でも、私はただのキアナだから。よかったら普通にキアナって呼んで。みんなそうしてるし」
その口ぶりからは、彼女が今のようなやりとりに慣れていることが窺えた。
恐れ多いような気持ちはしつつも、若い子を困らせてはいけないと思い、「そうするわね」と了承する。
「キアナさんはいつも自分でご飯を用意してるの?」
神様かどうか置いておくとしても、彼女が私たちのヒーローで、有名人であることには間違いない。食事は専属で作ってくれるシェフがいて、毎日お部屋に運んでくれるくらいでもおかしくないでしょう?
私がそう言うと、彼女は「そんな、お姫さまじゃあるまいし」と笑った。
「まあ、自分で用意してるって言っても、ついインスタントラーメンとかにしちゃうんだけど。でもそればかりだとめいせ……友達に怒られちゃうんだ。ラーメンばっかり食べるなって」
思わずぽかんと口が開いた。世界一の要人がそんな食生活を送っているなんて。
「それは……その通りよ。同じものばかりになるくらいならぜひ何か買いに来て。私は調理もシフト制で担当しているのだけど、ここは材料だってけっこういいものを使ってるのよ」
新人従業員のくせについ自慢げに言ってしまった。ちょっと恥ずかしくなった私をよそに、キアナさんは「へええ」と目を大きくして、しげしげとお弁当の裏を覗き込み、原材料表示のいくつかを読み上げた。
「全然知らなかった。……そういえば、今日がはじめましてだと思うけど、最近月に来たの?」
キアナさんはお弁当からちらりと目線を上げる。自分のことを聞かれると思っていなかった私は慌てて、
「あ、ええ。仕事を紹介してもらって……」
と答えながら、『月に来た』というフレーズでつい笑いがこぼれてしまう。あまりに突拍子がなくて、いまだに現実味がない。
「……ふふ。娘が留学して、家に私一人になってしまったから改めて仕事を探していたところに、天命の知人に誘われたの。思い切って地球を出てみない、って」
そう提案されたときの驚きをまだ覚えている。まさか地球の外で働くなんて、想像したこともなかったから。
キアナさんは微笑んで、「そうなんだ。じゃあ、実際来てみてどうだった?」と訊ねた。
今日までの生活を振り返って考える。施設の職員はみんな挨拶してくれるし、普通に世間話もできる。食べ物や娯楽の供給もある。初めて訪れたときは外観の白や灰色の冷たい印象に気を取られたが、内側には当たり前の人間の暮らしがあった。
「思っていたよりずっと温かいところだったわ」
「でしょう。私も、ちょっと景色が地味なところはあるけど、案外悪くないと思ってるよ」
キアナさんはそう言って微笑み、選んだお弁当とパンを手に立ち上がる。私はレジの方へ回った。
閉じかけていたレジでお会計をしながら、彼女はいつも一人でご飯を食べているのだろうかと、また勝手な心配が湧いてくる。
「――キアナさんは、寂しくはない?」
「え?」
「その、ずっと月に居なきゃいけない事情があるんだって聞いたことがあるわ。……帰れなくて、寂しくはない?」
言ってしまってから後悔する。事情があるなら聞いたって仕方のないことなのに。
しかしカウンターの向こうに立つ女の子は目をぱちぱちさせて、それから破顔した。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫」
本当だよと笑って、彼女は続けた。
「きっと私も留学みたいなものなんだ。娘さんと同じ。故郷が恋しくなるときもあるけど……家族や友達と会えなくなったわけじゃない。みんな会いに来てくれるし、よく電話やゲームもするんだ」
「そう、それはよかった……」
それを聞いてほっとした。私たちを救ってくれた人がもしそのせいでつらい思いをしていたなら、私はまた勝手に悲しくなるだろうから。
お弁当をビニール袋に入れる。冷めた油の匂いが鼻をついた。
「……あのね、実をいうと、私も昔は戦乙女だったの」
「えっ、先輩だったの! 早く言ってよー!」
私の短い告白に対して彼女は大きく驚いてくれた。元気な反応に微笑みながら、こう付け加える。
「ほんの短い間だけよ。戦場に出たのも数えるほどだけで……」
微笑みは自嘲の苦笑いに変わっていく。
「怖くなって、辞めてしまったの」
そして目線が手元に落ちた。そこにあるのはごく一般的な中年女性の手で、元軍人の手にはとても見えない。
「逃げるように遠い田舎に引っ越して、結婚して子どもを育てて……。そんな暮らしは拍子抜けするほど平穏だった。崩壊なんて全部噓だったんじゃないかと思うくらいに」
私は顔を上げられなかったが、キアナさんが真剣に聞いてくれているのが伝わってくる。
「全部逃げずに戦ってる人たちのおかげだって分かっていたけど、ずっと知らないふりをしてたの。それで最後の日だって、寝て起きたらいつの間にか崩壊が消えてたんだからお気楽な立場よね」
“崩壊を乗り越えた”とされるその日、私は家でひとり目覚めた。それから何日か経つと、チャンネル数の少なくなったテレビや、薄くなった新聞の一面が内容の薄い吉報を伝え始めて、私は寝ぼけた頭で流れていくニュースをただぼんやりと受け取った。
詳細なことはどこにも描かれていなくて、私たちはそれを知らなくていい。
そういう奇妙な状態に慣れきっていたことを、今本物の英雄を前にして、初めて突きつけられる思いがした。
「私が目をつむっていた間に戦ってくれた人たちに、ただ甘えて生き長らえてるのが……申し訳ないわ」
「――それは違うよ」
きっぱりと固い声が空気を断ち切る。息を呑んで顔を上げると、力強い瞳が私を射抜いた。
「確かに私たち――今の戦乙女、特に律者なんかの特殊な立場にいるみんなは、最前線で戦って世界を大きく変えた。でもそれは、私たちがたまたまゴールテープの近くにいたからってだけ」
キアナさんは話しながら空中にレールを描くように片手を伸ばし、もう一方の手でそのレールを歩く。
「遠い昔から今に至るまで、長いバトンリレーがあったんだ。みんながそれぞれに生きて、それぞれの仕事をして、文明を繫いでくれたから、私たちのところまでバトンが渡ってきた。この世界を守ってきたのは戦士や科学者だけじゃない。この世界に生きた全ての人なんだよ」
うーんと、つまりね。キアナさんは言葉に悩みながらも、
「つまり何が言いたいかって言うとね、私たちが成し遂げたことはあなたのおかげでもあるんだから、もっと胸を張ってほしいの」
と、真っ直ぐにそう伝えてくれた。
「で、でも私は本当に何も……」
「もう! お腹を空かせてしくしく泣きながら寝るはずだった子を救ったのは誰!?」
「は、はい」
その剣幕に気圧されて、私はお弁当の入ったビニール袋をキアナさんの方へずいと押し出した。
「ありがとう!」
袋を受け取ると一転、にこーっと聞こえてきそうなほどいい笑顔になる。――いけない、私の方が励まされてしまった。こんな若い子に逆に気遣わせて少し恥ずかしい。
一方のお客さんも、ビニール袋を胸の前に抱えて、なぜだかもじもじした様子でこう聞いた。
「ねえ、元戦乙女ってことは……もしかしてセシリアを知ってたりする?」
懐かしい名前にはっとする。
「セシリア様! もちろん知ってるわ。遠くからお見かけしたことがあるくらいだけれど……私たちの世代みんなの憧れだったから」
そういえばセシリア様はこの子のお母様なのよね、と思い出す。自分と同世代だし、当時は現役まっ最中だったから、子供がいる印象がなかった。田舎に引っ込んだあと、元同僚に彼女がジークフリート・カスラナと結婚したと聞いて驚いたのは覚えている。
「へへ、やっぱり? 今度よかったらママの話を聞かせてくれない? うわさ話とか、そういうのでいいの」
頰を緩ませる彼女は年相応かそれより幼く見えて微笑ましい。きっとお母様のことが大好きなのね。
「ええ、私の知ってることでよかったらいつでも」
「やった! お姉ちゃんも連れて来ていい?」
「もちろん」と何も考えずに頷いたけど、お姉様ってまさか最年少でS級になったっていうデュランダルさん? 次から次へと有名人の名前が出てきて、一瞬気が遠くなってしまった。
キアナさんはそんな私に気づいた様子もなく、ポニーテールを元気に揺らして身を翻す。
「じゃあまた来るから、時間があったらおしゃべりしよう!」
「ええ、待ってるわ」
キアナさんが軽く手を振って、私も振り返す。
ひと気のないフロアを小走りで帰っていく後ろ姿を見ながら、私はもう次に会える日を楽しみにしていた。