いぬかわいい(仮)「スウ、大変です!」
慌てた声が遠くに聞こえて、スウは瞑想を止め顔を上げた。神州の秋に似て黄金色の草木が美しいこの洞天は、スウが古の楽園の中で気に入っている場所の一つだ。その静かな洞天に現れた華は、何か白く小さなものを抱えて、スウのほうへ駆けて来る。
「華。どうしたんだい」
スウの座っている木の下へしゃがみ込んだ華は、あなたがここにいて良かったです、と息を吐いた。
「あの……いえ、まずこれを見てください」
そう言って抱え上げて見せたのは小動物だった。缶詰――ではなく、犬。華は白い子犬を胸の前に抱いていた。彼女はきょろきょろと辺りを確認したあと、声を潜め、こう言った。
「たぶん、ケビンなんです」
「……、え?」
スウは思わず華を凝視する。華は至って真剣な顔をしていた。スウは困惑のまま華の顔から視線を落とし、小さき生きもののつぶらな瞳を見る。
「そうなのかい?」と子犬に訊いた。子犬は可愛い見た目に似合わず、低く唸る。……それっぽい反応だと言えなくもない。
とにかく、華が嘘をついているようには見えなかった。スウは首を傾げ、状況を理解しようと考え始める。
「君の言うことが本当なら……ヴィルヴィの仕業かい?」
華は神妙な面持ちで頷いた。
「工房の近く見つけたので、おそらくは。私も先ほど見つけたばかりで、伝えたのはあなたが最初なんです。ええと、その、エリシアやメビウスに見つかると大事になりそうで……」
それに楽園の記憶体やデータのことであれば、スウは詳しいほうでしょう、と華は続ける。確かに、モニタリングが仕事のクラインほどではないが、スウも記憶体の生成に関わった者として分かることはあるかもしれない。スウが子犬のデータに『目を凝らす』と、それは確かにケビンのデータが元になっており、元の身体データに犬のアバターが重なっている状態に見えた。これをうまく解除できれば解決になりそうなのだが……。
スウは空間に手を差し伸べ、空気をひねるようにぱちん、と指を鳴らす。すると、ぼふん、と犬が大きくなった。
「……違ったみたいだ」
今触った設定は大きさ? いや年齢だろうか。ぬいぐるみのようにころんと可愛らしい子犬が、今は未就学児くらいなら乗せて走れそうなほど立派な成犬となっていた。狼にも似て、顔立ちも凛々しい。
目を丸くした華は首を傾げ、「あ、記憶を読んでみては?」と提案する。
スウは首肯した。人間の形をしていないからか、その発想がなかった。
「ごめんね」と声をかけ、大きな犬の額に指先でそっと触れる。
見えた景色は案の定、螺旋工房だ。
「対ケビン武装○○!」
ぼふん、と上がったいかにもショーらしい白い煙が散ると、先ほどの子犬がちょこんと床に立っていた。ヴィルヴィは満面の笑みで手を叩く。
「おお、一発成功! どう? お気に召したかな!?」
ヴィルヴィは上機嫌で顎に手を当て、犬をじろじろと眺め回した。
「ふむ、でも改善の余地はあるね。それと他の形も試して……」
次の試案を指折り数え始め、くるりと背中を向けたヴィルヴィの後ろで……パキパキと硬い音が鳴る。部屋が凍りつき始めたのだ。
「って、ささ寒い!! 待ってよ、本気を出さないで! 工房がダメになるでしょ!?」
ヴィルヴィは冷気の中心たる小動物を両手でえいッ、と掴み上げる。
「冷たっ! うう、ケビン、大丈夫だよ。そのうち元に戻るから!」
じゃあね! の叫びとともに、螺旋工房の分厚いドアの隙間から、白っぽいかたまりがぽーんと投げ出された。……ところを、通りがかった華が見つけたのである。
過去が分かると同時に予見のビジョンも見える。すぐ元に戻るというのは本当らしい。
スウは一人と一匹に見たものを伝えた。華は「解決しそうでよかったです」と胸をなで下ろす。犬のほうは、こころなしかむすっとしてるように見えた。
その後、「よく見たら可愛いですね」と言ったのは華で、彼女は控えめな声を微かに弾ませていた。事態の終わりが見えて安心すると、目の前のものに対する興味が素直に現れたようだ。
「触ってもいいですか?」
抱き上げておいて今更ですが、と華は丁寧に犬に訊いた。隠し切れない好奇心と期待が伝わってくる。数秒のラグがあったあと、彼はぎこちない動きで頭を少しだけ下げた。もしかすると好きにしろと言ってくれているのだろうか。
華はわくわくした顔で「失礼しますね」と手を伸ばし、大きな犬の頭を撫でる。
「ああ、さらさらしてます」
それに少しひんやりしていて、触り心地がいいです。段々と遠慮がなくなっていく華に撫でくりまわされても、犬は大人しくしていた。あるいは単に固まっていたのかもしれない。
華はついに、腕を回して抱きついた。子どもが同じくらいの背丈のぬいぐるみを抱いているみたいに微笑ましい光景だったが、中身はケビンなのだから結構大胆だ。それまで泰然としていた彼も驚いたのか、びくりと身じろぎした。
「実家の道場の近くにこれくらい大きな犬を飼っているおじさんがいて。散歩の途中に触らせてもらっていたのを思い出しました」
滅多に自分のことを語らない華がしみじみと昔の思い出を話す。彼女はすっかりこの生きものが気に入ったようだ。
「スウも」
抱いてみてください、ぜひ。こちらを振り返った華の目が楽しげにきらめいているものだから、スウもつい口元を緩ませる。しかし君、もうただの犬だと思ってるだろう。
場所を空けてくれた華の勧めるままに、スウは白い獣のほうへ両手を伸ばし、そっと抱きしめる。犬はおとなしく抱かれたまま、ぱたんと一度尻尾を振った。
「面白いものを見させてもらったよ」
あれから数時間後、無事に犬の姿は解除された。先ほど別れた華はひそかに残念がっていたけれど、数日も経てば彼女の記憶はリセットされる。きっと今日のことは忘れてしまうだろう。
「君も忘れろ」
苦虫を噛み潰したような顔でケビンが唸る。そうは言っても、実のところスウもあの、もふもふとした白い獣を気に入っていた。忘れてしまうには少し惜しい。
「……どうしようかな」
非難の目を向けられる。視線で訴えかけてくるこの感じは、犬の姿のときと変わらない。
スウはふと思いつきで、横に座るケビンにじり寄り、彼の胴に腕を回してみる。
「っ!? 何を」
固いし、服の金具やら何やらが尖っていてやりづらい。「抱き心地は良くないね」と評する。当たり前だ、と呆れた声が頭上から降ってきた。スウは構わず、コートの下に手を入れ腰の辺りをまさぐる。
「尻尾はないのかい」
「ない」
「耳は?」
「ない! やめろ、凍傷になるから」
「平気だよ。大人しくして」
スウの手を掴みかけていたケビンは目を見張り、ぴしりと固まった。そして呆然とした顔のまま、腕がそろそろと降りる。
スウは固まってしまった親友の背中をぽんぽんと叩いた。
「お利口さんだ」
「……、犬じゃない」
「君は犬っぽいところがあるよね」
「話を聞け」
終