杜王グランドホテル324号室「明後日、っすか」
「ああ」
動揺に揺れた仗助の心情を表すかのように、ふたりの間を風が通り抜けた。梅雨のじっとりとした湿り気も、寝苦しい夜の生ぬるさもない、誰もが気持ちいいと感じる夏の渇いた風だった。承太郎はジャケットの襟をなびかせて、美しい所作でカップをソーサーに置いた。普段は気にならない、陶器と陶器がぶつかる小さな音がこの日の仗助の耳にはやけに響いて聞こえた。
明後日、この街を発つという。
吉良吉影を倒して、杜王町には平穏な日々が戻っていた。仗助の生活ももうほとんど元通りで、変わったことといえば、スタンド使いの友人ができたことと、放課後に茶をたかりに行く親族が増えたことぐらいだ。仗助はある日突然息子になり、そして叔父になった。
年上の甥である承太郎は視察も兼ねてよくカフェ・ドゥ・マゴのテラス席にいた。
その姿を見つけるたびに仗助は「奢ってくださいよ」なんて軽口を叩きながら腰かけて、返事を聞く前にカプチーノを頼んだ。今日も同じだった。承太郎はいつもと同じように「仕方ねぇやつだな」と小言を漏らしながらも、決して追い払うような真似はしなかった。彼が仗助のおねだりを断ったことなど一度だってないのだ。
近い未来必ず訪れるであろうお別れに、ずっと覚悟はしていた。
それがまさか今日だとは思わず、滲んでしまった動揺を誤魔化すように仗助は飲みかけのカプチーノを口に含んだ。もうすっかりぬるくなったそれを一気に飲み干すと、エスプレッソの苦みが口のなかに広がった。焦燥する気持ちを落ち着かせるにはちょうどよかった。
「それはまた急っすね」
「あっちで急用ができてな」
「何時ごろ発つんすか?」
「そうだな、午前中には」
「飛行機っすか?」
「いや船だ。じじいは飛行機と相性が悪いからな」
「相性とかあんのかよ」
仗助が笑ってみせると承太郎は眉を下げて笑った。仗助もはじめて見る表情だ。初対面の気取った印象とは裏腹に、承太郎は意外にも表情が豊かだった。大口を開けて笑うことはほとんどないが、無表情にほど近い表情から喜怒哀楽を感じ取れるほどには、彼と同じ時間を過ごした。だから、仗助はその表情の意図するところがわかってしまう。
「お前には寂しい思いをさせちまうな」
一度手に入れたものを手放す行為は、どれだけ覚悟をしていても寂しさが伴う。こうして、放課後にコーヒーをご馳走してもらうのは今日が最後になるのだろう。
「ちょっと承太郎さん、俺のこといくつだと思ってるんすか。全然寂しくなんかねぇっすよ」
強がりである自覚はあった。それが承太郎に伝わっていることも。これじゃあ困らせちまう。そう思った仗助の予想に反して、彼は緩やかに口角を上げた。
「それは残念だな」
「へ?」
「お前さえよけりゃあ今晩泊まってくか、と思ったんだが」
承太郎が宿泊している杜王グランドホテルのロイヤルスイートルームは、高校生には手も足も出ない金額だ。何度か足を踏み入れたことのある仗助はその都度、いいなぁ、俺もこんな部屋泊まってみてぇなぁ、と憧れを漏らしていた。
「……その順番で聞くのはずるくねぇっすか?」
仗助はずるずるとテーブルに突っ伏した。承太郎は「おふくろさんに連絡入れろよ」と笑って、ウェイトレスにブレンドのおかわりを注文した。
◇
「あー、もう食えねぇ」
仗助は重い体を引きずるようにしてベッドへとダイブした。普段、承太郎が使っていないほうのベッドだ。彼がずっと窓側のベッドを使っていることを仗助は知っている。肌触りのいい上質なシーツからは柔軟剤のにおいがして、承太郎は「制服皺になるぞ」と言いながら自身のジャケットをクローゼットへとかけた。ラフな黒のタートルネック姿はあまり見慣れず、この部屋が杜王町での承太郎の家なのだと実感する。
「先にシャワー浴びちまいな」
「いま動けねぇっす」
夕飯はジョセフと透明の赤ちゃんと一緒に最上階のレストランでとった。ジョセフが別れを惜しむように自身の分を仗助の皿に分け与えるので、仗助の胃袋ははち切れる寸前だった。そんなふたりの様子を承太郎は終始穏やかな表情で見守っていて、それが余計に仗助の箸を早くさせた。
「お前、そのまま寝るつもりだろ」
「んん、寝ねぇっすよ」
それでも食後は眠くなるのが人間の性で、次に目を覚ましたときには承太郎はすでにシャワーを済ませたあとだった。ホテルに備えつけのバスローブに身を包み、艶のある黒髪から雫を滴らせる姿は、同性から見ても惚れ惚れするほど似合っている。枕によだれを垂らして寝落ちていた自分とは大違いだ。十二年後、自分もああいう大人になっているとは到底思えなくて、仗助は逃げるようにシャワールームへと駆け込んだ。湯気で曇った鏡には、頬にくっきりとシーツの跡をつけたあどけない子どもの姿が映っていた。
シャワーから出て、承太郎が向ける視線がいつもよりわずかに上に向いていることに気がつく。
「ん? なんすか?」
彼の視線の先を辿ると、ちょうどのタイミングで前髪の先端からぽたりと水滴が垂れた。
「そういや、下ろしたとこ見んのはじめてでしたっけ」
仗助はリーゼント姿に誇りを持っているけれど、それ以外の髪型を見せることに抵抗はなかった。「セットしてないと幼く見えるね」と康一に言われたのもまだ記憶に新しい。きっと、承太郎も同じことを思っているのだろう。あまりに物珍しそうな顔で見てくるものだから、さすがの仗助も照れくさくなる。
「ちょっと、あんま見ねぇでくださいよ」
「その髪型もよく似合ってるな」
「どうせガキっぽくなったって思ってんだろぉ」
「まだガキだろう」
「そりゃあまだ高校生だけどよぉ」
早く乾かさないと風邪引くぞ、とこれ見よがしに子ども扱いされて、けれども嫌な気はしなかった。
◇
「父親がいないのが当たり前だったんすよ」
豆電球のちいさな明かりがふたりを照らしている。そろそろ寝るか、と別々のベッドに入って数分が経った頃、仗助はぽつりぽつりと口を開いた。隣へと視線を配ると承太郎は天井を向いてくれていて、それが彼なりの気遣いなのだとわかる。
「それが急にあんなじいさんが現れて」
たった数ヶ月前のことなのに、こうして口に出してみるともう随分と前のことのように思える。たしか、あの頃はまだ夏もはじまっていなかった。
「不貞でできた子だし、ボケてるし、最初は受け入れなれなかったっすけど、まぁいまは父親がいんのも悪くねぇかなって思いますよ」
仗助はひとりっ子で、同性の親族は年の離れた祖父だけだった。だから、父親でも兄でもない承太郎の存在は仗助にとっては新鮮で、それでいてどこか特別だった。ジョセフ本人には気恥ずかしくて伝えられないことも、承太郎になら話すことができる。そういう安心感が彼にはあった。沈黙を破るように不自然にシーツの擦れる音がして、顔を向けると視線が重なった。その眼差しは、ジョセフに向けるのと同じやさしさを持っている。
「なにかあったら連絡しろ。すっ飛んできてやる」
「アメリカから?」
「ああ」
「この人マジで来そうなんだよなぁ」
今生の別れになる可能性も十分にあった。けれど、心はすっかり晴れ渡っている。明後日、仗助は笑顔で三人を送り出すことができるだろう。
「俺、杜王町が好きなんすよ」
生まれ育ったこの街を仗助は愛している。それは承太郎がアメリカに帰るのと同じくらい当たり前のことだった。もう二度とあんな悲しい事件は繰り返させない。
「じいちゃんが命懸けで守ったこの街を、今度は俺が守ります」
布団の下でぎゅっと手のひらを握りしめる。この日、仗助ははじめて自らの決意と覚悟を口にした。心の内でちいさく灯していた炎が、たちまち大きく燃え盛る。承太郎の力強い瞳が背中を押してくれるようだった。
「なんで、じじいのことは頼みましたよ」
吹っ切れた顔で笑いかけると、承太郎は、やれやれ、と仗助のよく知る顔で返した。
まったく。
しょうがねぇやつだな。
困ったやつだぜ。
満更でもない顔で甘やかされるのが、仗助はたまらなく好きだった。
「しっかし、まさか年上の甥っ子ができるなんてなぁ」
「それはこっちのセリフだぜ」
ふたりはしばらく思い出話に花を咲かせた。それが終わると、今度は承太郎が自身が高校生だった頃の話を語りはじめる。冗談かと思っていた『じじいは飛行機と相性が悪い』話は到底笑えたものではなくて、同じ血が流れている自分にもいつか同じ災いが降りかかるのでは、と震え上がった。そうして取り留めのない話を話しているうちに、瞼がどんどんと重くなっていく。次第に声までとろけて、夢の世界に誘われているのは誰が見ても明らかだった。
「無理に起きてる必要ないんだぜ」
「……ん。まだまだ、いけるっすよ」
その返事ですら、現実で返したのか夢の中で応えたのかわからない。ふっ、とちいさな笑い声が聞こえたような気がしたが、確認する気力は残っていなかった。
「おやすみ、仗助」
今までで一番やさしい声に誘われて、仗助はゆっくりと意識を手放した。