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    教授お誕生日おめでとうございます!
    ・エルモリ
    ・エルロックが教授を愛し面白がるあまり書いている「ヴィクター・モリアーティ観察日記」の一部という設定です
    ・あまりイチャイチャはしていません

    #ファンノク
    funnock
    #エルモリ
    olm
    ##ファンノク
    ##エルモリ

    証明未完了存在 僕は、時々想像します。あの教授殿が──モリアーティ家にヴィクターという男の子が生まれた日というのは、一体どんな日だったのでしょう。どんなふうに彼は、血の繋がった家族に迎えられたのでしょう。
     彼も人間ですから、無論父親と母親がいるはずですね。ご両親にあたるこの二人は、彼が少年期に大学を卒業してしまう極めて高い知能の持ち主であることを、予想できていたのでしょうか? 優れた数学者の血を引くモリアーティの家系なら、珍しい話ではなかったのかもしれません。
     では、ライヘンバッハという名の犯罪組織を率いて、犯罪王と呼ばれるまでになることは? ──彼の先祖にあたるジェームズ・モリアーティは優れた数学者であり、そして犯罪界のナポレオンとも呼ばれた人物でした。これもまた、予想の範疇だったかもしれません。
     それでは、犯罪の傍らで人工知能の研究に傾倒し、ファントム・エクス・マキナなる自立起動AIを造り上げることは?
     彼の名はヴィクター。西洋ではオーソドックスな、とてもよい名前です。ただ、完全な人間を造ろうとした彼の有名なヴィクター・フランケンシュタイン博士──彼と同名であることが偶然だとしたら、奇跡のような繋がりと言えるかもしれません。
     そのマキナを使って、人類の選別を行おうとすることまで、ご両親やご家族に見えていたら──?
     前置きが長くなりました。ここで書きたいのは、そういうことではないのです。そういうことを僕は、教授殿の誕生日が近付いて来る度に考える、ということです。彼は生まれてからどれくらい、その生誕、その存在を祝福されたのかと、少し考えてしまうのです。尤も、祝福など興味を持たないような人物ではありますけれどね。
     殊に、僕からの祝福は尚更欲しがらないでしょう。推理するまでもありません。実際僕も、この年までは、特に何かお祝いをしたわけではなかったのです。こう書いているのがばれたら、教授殿に嫌な顔をされそうですが──彼と接する中で、あるものを渡した。これは誕生日の贈り物かというようなことを訊かれて、そう言えば二十日は彼のお誕生日じゃないか、と思い出した。そんな次第です。
     それにしても──こんなときは教授殿のようなデジタルの記録管理が便利そうですよね。僕はこの文章を後から便箋に書き、日記帳に上から貼ったのです。後からの挿し込みや並べ替えはデジタルが便利ですが、ただそれが難しいのがアナログの良さ、という場面もありますからね。どちらも良いところがあります。
     前置きが本当に長くなりました。便箋一枚がいっぱいになってしまいましたね。この下をめくったところから読み始めてください。これを読むのは僕しかいませんが、まあ、未来の僕へのメッセージとして。

     
     八月三十日
     今日は、怪盗連盟に寄った後、教授の研究所を訪れました。
     探偵兼怪盗、等という働き方をしていますと──ミネットのお嬢さんに言わせれば、「あなたのは働いてる内に入らない」そうですが──しばしば目にする品物があります。何だと思いますか?
     そう尋ねると、すっと何本か白い腕が挙がりました。はい、ではそちらのレディ。お名前をお願いします。
    「私は、ファントム・エクス・マキナ──製造番号PEM7385です」
     ありがとうございます。では、質問の答えを聞かせてください。
    「私はそれを、死んだ人間と負傷した人間であると推測します」
     おやおや、随分と物騒な。何故です?
    「事実を元にした推測です。ミスター・ショルメは探偵であり、出向く事件現場の九〇パーセント以上が殺人事件です。そこで自ら遺体に触れ、観察することが多いという証言が、あなたが接点を持った人間の八十五パーセントから得られています。よって、あなたは死体をしばしば目にしています。また、怪盗として潜入した現場では、ISPOの警護官に会って戦闘し、気絶させる映像が各所の監視カメラから得られています。よって、あなたは負傷した人間もまたしばしば見ています。以上です」
     まあ、間違いではありませんね。世の中、間違いだ、間違っていないとはっきり言える事柄の方が少ないのですから。ただ、「この世に存在する事実」としては間違いではないのですが──僕の求める答えではありません。僕の求める答えもまた、この世に存在する事実の一つですけれどね。
     はい、そちらのレディ。
    「ファントム・エクス・マキナ──製造番号PEM7469です。ミスター・ショルメに質問があります」
     どうぞ。
    「演算結果から導き出した一つの推論があります。ミスター・ショルメの目的は、私たちに質問に正解させることではありません。正解させた上で、正解となる事柄を元に、述べたい言説があるのです。そうではありませんか」
     ふむ。オリジナルでなく、量産型マキナと呼ばれるあなたたちでも、随分と高度な知能を持っているのですねえ。
    「私たちの推論は、どの程度正しいのですか」
    「全くその通り、と言わざるを得ませんね。探偵兼怪盗という仕事をしていてしばしば目にする品物が、僕にはある。そのことを言わば呼び水として、僕はまた別の話をしようとしているのですよ。呼び水、という比喩は伝わりますか? よかった。では、質問に戻りますが──分かる方はいますか?」
     ごくありふれたものですよ、と僕は紅茶を啜りました。それが思っていたより熱くてむせてしまったので、挙手を危うく見逃すところでした。
    「私はファントム・エクス・マキナ──製造番号PEM7136です。それは、宝石です。ミスター・ショルメは、探偵のときは鑑定や調査などで、怪盗のときは盗む財宝として、しばしば目にしているはずです」
     おお、正解者が出ましたね。おめでとうございます!
     拍手をしたのは僕一人で、広い研究所に乾いた音が響きました。量産型マキナたちとこうして、大学の講義などを真似て話すのは初めてではありませんから、もう慣れました。マキナたちは整然と並んで、静かに佇んでいました。
    「そう、僕は宝石をしばしば目にします。『お宝』と言われて、世の中の大半の人が思い浮かべるものでしょうね。それでこの前──怪盗として盗み出した財宝の中に、オニキスがあったのですよ」
     オニキスは縞模様を除けば、全体が黒っぽいですからね。暗闇で失くさないかと、ひやひやしたものです。まあ、きちんとそれを入れるポーチや小箱を、怪盗というのは大抵持っているんですけどね。連盟でも、衝撃に強いものなどが売っていますし。
     連盟に届けて、そのオニキスのカメオが盗難届の出ていたものと同じで、損傷はほとんどないことが確認できたので、その夜は帰ったのですよ。大聖堂の鐘が鳴って、ああ午前零時になったなあ、と思いながら、僕は帰り道を急いだのです。
     晴れているのに、夜空は真っ暗でした。セーヌ川も黒く見えました。オニキスも黒かったし、黒いものばかり見ているなあ──という気がして、ふと思い出したことがありました。
     教授殿の瞳の色。英国で黒い瞳の人を見かけないわけではありませんが、彼は銀髪のせいもあってか、瞳までもが特異な外見に見えます。見えるような気がしませんか? あなた方は。──はい、どうぞ。
    「私はファントム・エクス・マキナ──製造番号PEM6854です。先天的にマスターのような髪の色をした人間は、マキナ二万台弱がデータを収集しても極めて珍しいと言えます。肌の明度、色相も大多数の人間とは異なり、青みがかって薄い色をしています。ただ、マスターのような色素の薄い人間はアルビノと呼ばれる場合もあり、そのような人間の多くは赤い瞳をしています。しかし、マスターの瞳は黒です。総合的に見て、マスターの外見は珍しいと言えます」
     マスター、というのは彼女たちから教授殿への呼称です。人工知能から見ても──というより、データの上でも、教授殿の外見は希少なもののようですね。
    「黒い瞳も、東洋では珍しくない特徴ですが……教授殿の瞳は少々、異なる印象を受けますね。お嬢さんがお化粧しながら言うところの、ツヤかマットかならマットで……。吸い込まれそうな瞳、などと恋愛小説ではよく言いますが、教授殿の場合は、相手をじっと観察していながらどこか拒んでいるような……」
     そんな話をしていたら、研究所のどこかで物音がしたように思いました。スーパーコンピュータなどの音ではなく、人が何か音を立てたようでした。僕がきょろきょろしていると、マキナの一機が奥を指差しました。初めに答えたマキナでした。
    「マスターの休憩する寝室です。マスターは、機械の修理を終えた後、あの部屋のベッドで眠っていました」
    「えっ、教授殿はご在宅だったのですか? 確かに出入口の鍵が開いていて、不用心だとは思いましたがまあ……これ幸いと……」
    「セキュリティは私たちが解除しました。ミスター・ショルメだとカメラから確認できたためです」
     僕は少し首を傾げました。
    「僕は、教授殿が眠っていても、研究所に入っていいことになっているのですか?」
    「マスターの作成したプログラムにはありません。私たちが新たに発見し、独自にプログラムしたものです」
    「なぜ、そんなことを?」
     マキナは、ぴたりとも動かずに言いました。正確には、音声を発しました。
    「ミスター・ショルメの訪問中と、訪問後数時間は、マスターのバイタルが普段より改善し安定することが確認できたためです。バイタルの安定により、大脳の活発化や自律神経の安定も確認され、研究や工学作業、副業の論文査読などが捗っています」
     まさか、と僕が笑ってみせようとしたところで、研究所の奥でドアが開く音がしました。
     無機質な灰色の壁、白や黒の機械類に囲まれた研究所で、そのドアだけは、木製の家庭的な雰囲気をもつものが嵌め込まれていました。ノッカーも付いています。あれを何回叩いたら昼寝中の教授殿を起こせるか、今度試してみようか、などと思いました。
     開いたドアから見えたのは、棒のように痩せ細り、青白い顔の青年でした。僕とマキナたちが先程から話題にしていたヴィクター・モリアーティ、その人です。
     彼は、下瞼に灰色の隈ができた目を、不機嫌そうに研究所の作業フロア──僕たちのいるところです──に巡らせました。そして、僕がマキナを数台集めて椅子に座り、紅茶を飲んでいるのを見つけると、さらに不機嫌そうに顔をしかめました。
    「元の配置へ戻りなさい」
     彼のたった一言の命令で、マキナたちはさっと研究所のどこかへ消えてしまいました。僕は感心して彼に声をかけました。
    「すごいですねえ、それは教授殿の声でないと反応しないのですか?」
    「私の声でなければならない命令と、そうでない命令があります。簡単なコミュニケーションであれば、あなたのような他人でも……」
     そこまで言ってから、教授殿はムッとして口を噤みました。
    「僕もやってみたいです。出てきてほしいときは何と言えばいいんです? 『ヘイ、カモン!』とか?」
     しばらく僕を睨んだ後、彼は耳から小さな何かを取り外しました。イヤホンのようなものに見えました。
    「あなたには伝えていなかったかもしれませんが……マキナが再生した音声は、これを通して私に全て聞こえています。マキナは人工知能によって注意を向けるべき音を聞き分けますから、対話している人間がいればその声も伝えます。つまり……」
    「おやおや。僕とマキナたちの話は、全て教授殿に筒抜けだったわけですか」
     ええ、と彼は頷きました。珍しく、僕の近くに立っていました。余程、言っておきたいことがあったのでしょうか。
    「ですから、勝手にマキナを集めてお喋りなどしないように、と言おうとしたのですが……」
     教授殿は、機械類が立ち並んだ研究所のどこかを、眺めるように見ました。マキナが撤収して行った方向だったのかもしれません。
    「彼女たち、面白いことを言っていましたよ。僕が訪ねている間や帰ってからしばらくは、教授殿のバイタルがよくなって、研究などが捗ると。それなら、もう少し頻繁にここを訪れるようにしましょうかねえ。人助けと思って……」
     そう言いかけたときです。
     指をパチン、と鳴らす音が聞こえたかと思うと、教授殿の細い体をマキナのスーツが包んでいました。
    「……教授殿?」
    「私には、これから行うべきことが三つあるようです。一つは、あなたが来てもセキュリティを解除しないようマキナを設定し直すこと。もう一つは、私のバイタルの値と状況との関連をより正しく分析させること。そして、三つ目──先程のあなたを真似てみましょうか。何だと思います?」
     尋ねる教授殿の声に重なって、マキナの「侵入者排除プランA、実行準備完了」等という音声が聞こえました。プランAとなると、一番強烈な攻撃によって侵入者を追い出す、半ば無理やり放り出すプランではありませんでしたか?
    「……簡単な推理ですね。では、放り出される前に僕は帰ります」
    「賢明なことです」
     さっ、とスーツが外れてどこかへ消えました。ですが、呼べばまた出てくるに違いありません。
     僕がティーセットの片付けや茶葉の処理などし始めると、教授殿はコンピュータの液晶画面に向かい始めました。
     僕が座っていた空間の近くにさえ、コンピュータや機械類はたくさんありました。先程まではマキナがいましたから、まるで人工知能と機械しかいない星に僕が一人でやって来たかのようでした。寂しいと言いますか──僕が「たった一人の人間」であるのは確かなのだと感じました。マキナや機械は、日本などで言う「人」とは数えられませんから。まあ、僕が知らなかっただけで、教授殿が奥で眠っていたので、一人ではなかったのですけど。
     そして、教授殿はそんな気持ちになったことはないのだろうかと考えました。少し考えてから僕は、ないのではないか、と結論付けました。何故なら、彼にとっては、凡庸な人間だらけの世界こそ、自分が異邦人のように感じられる場所だったに違いないのです。だった、と書きましたが、恐らく今も。人類の選別が必要と考えるに至った理由はそれだけではないのでしょう。ただ、その思想を一本の樹木としたとき、根元を下へと辿っていくと、どこかの細い根にそんな疎外感があるかもしれません。僕は、そんなふうに観察しました。
     だからといって、疎外感を埋めて凡庸な人間だらけの世界に馴染ませようとは、僕はさして考えていません。世界の方が彼を必要とし、彼の方もその対価に納得したのなら、そのときは取引として世界と接続すればいいのです。人工知能学会の研究者が論文の査読を依頼して来るように。ミネットのお嬢さんの怪盗業に、僕が彼の能力を紹介したように。
     彼が液晶画面に向かっていると、画面から出る光が瞳に映って見えました。光を反射していると、黒い瞳もどことなく明るく見えました。青みがかった肌も、さらに色が明るくなったようです。お嬢さんの持っているコスメによく書いてある、トーンアップというやつですか。
     しかし──僕は、少々心配になりました。教授殿は視力は低くはなく、眼病もありません。ただ、液晶画面が、部屋の暗さに対してかなり明るく見えるのです。あれでは、目が疲れるのではないでしょうか。ブルーライトの負担は、案外馬鹿にできないと聞きますからね。それで、よせばよかったのに僕は言ったのです。
    「教授殿、少し画面が明る過ぎませんか? 目を悪くしますよ」
     いえ、と教授殿は視線を画面に向けたまま答えました。
    「これでちょうどよいのです。この端末の画面をオンにしたとき、少し暗くて見辛かったので、明るさを上げたのです」
    「ええ……?」
     僕は、近くにあった他のデスクトップパソコンのモニターを点けました。画面の明るさはかなり低く、部屋の暗さにちょうどよく設定されているようでした。
    「これくらいの方が、見やすくはありませんか」
     教授殿は、うるさそうに僕の方を見ました。
    「私が使っている方は、明るさのレベルを三十二にしてあります。そちらは?」
    「ええと……十二です」
     教授殿が、きょとんと目を見開きました。ああいう顔をすると、案外幼く見えるんですよね。
    「他の端末も十二か三か、それくらいのようですよ。やはり、少し明るくし過ぎているのでは?」
     棒切れのような右手を顎にやり、彼は暫し考え込んでいるようでした。僕は続けました。
    「これと同型のパソコンは一から百まで明るさが調節できるようですが、この暗い研究所で三十二は眩しいですよ。ブルーライトで目が悪くなってしまいます。教授殿の目玉は強いんだというなら、まあ平気なのでしょうけど。今度、ブルーライトカットレンズ入りのメガネでも差し上げましょうか? いいものだと意外とお値段も高いですが……」
     そこまで言ってから、僕は固まりました。教授殿が、マキナスーツに身を包んでいたのです。
    「侵入者排除プランA、実行します」
    「わああ、待ってください! 待ってくださいったら! ああっ、バリツ! バリツ! うわあーっ!」
     何ということでしょう。マキナスーツをつけた教授殿は、あの番犬君にも劣らない速さで僕を抑え込み、自由を奪うと、外へ放り出してしまいました。
     人通りの多い道路ではなく、林の方へ転がして出したのは、せめてもの慈悲なのかその逆なのか。僕は途方に暮れながら、とぼとぼと探偵事務所に帰りました。
     マキナの設定を変えると言っていましたから、今度行っても開けてもらえないのでしょうか。しばらく事件の調査依頼でロンドンを離れるので、どの道行けないのですが……。あの場所に行くとたった一人の人間になる、異端者になる、寂しくなる、そう分かっていて行きたくなるのですから不思議ですね。
     いえ、違いました。たった一人の人間となった僕を、あの電子の世界と繋げてくれる教授殿がいます。その場にいないときでも、僕とマキナの会話を聞いていますし、そもそも彼がいなければマキナは会話も叶わないのです。教授殿がいるのなら、あの場所は寂しくないのです。おまけに彼は、週に一度程度しか外出しない、引きこもりも同然ですからね。
     それにしても、あの液晶画面の明るさのことは不思議でした。あれほど明るくしても眩しく感じないとは、一体どうしたことでしょう?
     一つ、思い出したことがあります。マキナは、僕がいるときと帰ったあと、教授殿のバイタルがよくなると言っていました。体温や血圧などが安定し、教授殿が活動するのにちょうどよい値となる、ということなのでしょう。研究や査読などが捗るというのは、脳の血流がよくなっているからでしょう。それは視神経、つまり目にも影響を及ぼすのでは?
     ……いえ、やはり、これくらいでやめておきましょう。思い上がり過ぎている気がしてきました。明日からは少し遠出ですから、早く眠ることにします。
     次にこの日記を書けるのは、事件の調査を終えてからになるでしょう。その時、どんなことが書けるか楽しみですね。


    九月二十日
     落ち込んだらよいのか、喜べばよいのか。よく分からない心境です。
     僕はアメリカでの依頼を終えて、諸々の手続きや荷物の整理などを済ませると、教授殿の研究所を訪ねました。少し大きなボストンバッグを片手に持って。
     でも──以前、マキナの設定を変えると言っていたから、こうして訪ねて行っても開けてはもらえないかもしれない。いっそ、番犬君にでも変装してくればよかったろうか。身長や体の厚みが足りないかな。
     そんなことを考えていたのですが、扉はあっさりと開きました。僕は、ちらりと監視カメラを見上げてから、中へ入りました。
     大きな機械が並び、コードが壁をはい回っているのは相変わらずでした。僕はいつものように機械の横を通って、勝手に座って紅茶を飲む椅子へ近付こうとしたのです。
     そのとき、ガコン、と大きな音がしました。何かのスイッチが入ったようにも聞こえました。
     実際、スイッチの音だったのかもしれません。床から天井に向けて立っていた大きな機械たちが──床の上を移動し始めたのですから。
     床をよく見ると、レールのような薄い線がありました。機械はその線に沿って動いているようでした。しかし、一体なぜ?
     僕が入口近くで唖然としている間に、機械は必要な移動を終えたようでした。研究所は再び、静寂に包まれました。
     整然と並んでいた機械類は、縦を向いていたり横を向いていたりと、ばらばらになったように見えます。しかし、よく見ると、機械同士が向かい合って、人一人が余裕をもって歩けるくらいの空間を作っているのです。それがずっと続いている。つまり、これは通路で、僕にここを通れと言っているのでしょう。誰が? 機械が? マキナが? まさかとは思うけれど、教授殿が?
     思い上がりはよしましょう。僕は、通路を静かに歩き始めました。壁となっている機械の背が高いので、薄暗い研究所がますます薄暗く見えました。右へ曲がったり左へ曲がったりしたので、まるで迷路のようでした。
     迷路を抜けた先には、ドアがありました。何の看板もかかっていない、無機質な灰色がかった白いドアでした。ただ、ドアノブはありません。僕の記憶が正しければ──これは、横の壁にある液晶画面で顔を認証することで鍵が開く仕組みで、登録されているのは教授殿だけであるはずです。機密保持の必要性の高いものが収められた部屋だから、と。
     ここまで来て僕は、困ってしまいました。恐らく、教授殿でなければ誰でも困るでしょう。長い迷路をやっと通り抜けたと思ったら、自分では開けられないドアが現れたのですから。
     困惑したまま、迷路へ戻ろうか等と考えていたところ、液晶画面から声がしたように思いました。
    「ミスター・ショルメでいらっしゃいますね」
     それは、ファントム・エクス・マキナの合成音声でした。
    「液晶画面に近付き、顔を認証させてください」
     僕は、戸惑いながらも言われた通りにしました。
    「認証完了──解錠します。入室してください」
     閉ざされていたドアが、すっと横にスライドして開きました。僕はただただ、驚くばかりです。推理のしようもありません。
    「入室って……入ってもいいんですか?」
    「そのように言っています。お入りください」
     言われるままに入ってみると、その部屋にはたくさんのマキナが箱に収められ、壁に沿って並んでいました。マキナはどれもケーブルが背中に繋がっていたり、パーツが欠けていたり、中の機械が露出したりしていました。未完成の機体なのでしょう。
     未完成。つまり、教授殿は研究や機械のメンテナンス、副業などと同時に、未完成機体の調整作業もしているはずです。マキナが僕をここに呼んだ意味が、この部屋にあるのなら──。僕は部屋を見回し、そして息を呑みました。
    「教授殿!」
     白っぽい塊が床に転がっていました。白衣を着た教授殿です。僕は、ボストンバッグを床に置いて、駆け寄りました。
     教授殿は体の右側を下にして、横になっていました。膝は曲がり、腕を投げ出すような格好をしていました。意識を失い、体を支える力を失い、それでバランスを崩して倒れたものと思われました。頭部に、見て分かるほどの外傷はないようです。
     恐らくは、いつものように飲まず食わず、そして眠らず──で作業をした結果、教授殿は倒れたのでしょう。事件性がないと分かると僕は、やれやれと体を起こしました。これは、「事件じゃないなんてつまらないなあ」という落胆と、「命の危険がある状態ではなくてよかった」という安堵の気持ちです。
     しかし、疑問が浮かびます。さすがに教授殿も倒れたまま死ぬわけにはいかないということで、いくつかのマキナに予め、ベッドへの移動や栄養点滴の処置を行わせるプログラムを搭載しているはずなのです。けれども、そもそもこの部屋には未完成のマキナしかおらず、プログラムを実行できるマキナがいません。未完成機体の参考のためにも、完成しているマキナが一体くらいいた方が便利だと思うのですが──。
     敢えて、マキナをこの部屋には入れずに作業をしているとしたら? 何故? 僕は、帽子に手をやって考えました。
    「ミスター・ショルメ、聞こえますか」
     そうしていたところへ、研究所のどこからか声が聞こえました。上から聞こえるような気がして見上げると、天井にスピーカーがあります。また、カメラも設置されていました。僕は、カメラに向かって返事をしました。
    「ええ、聞こえますよ、マキナの皆さん。これはどういうことです? 教授殿が倒れたときは、いつもはあなた方の何人かがベッドへ寝かせていますよね」
    「その通りです。ですが、今の私たちには不可能です」
    「どうしてです? あなた方なら、教授殿と一緒にこの部屋に入れるのでは?」
     人間なら少し言葉に詰まるところでしょうが、彼女たちは淀みなく答えました。それは、僕にとって驚くべき話でした。
    「マスターは、私たちマキナの人工知能が一定レベルまで発達したのを確認すると、スリープ状態にして活動不可能にしました。今私たちは、研究所内各所に格納されています。研究所の主電源との接続を断たれたため、バッテリーの充電が長らくできていません。ただ、活動は不可能でしたが、ネットワークコントロールに接続することは可能でした。よって、内蔵の予備バッテリーを最低電力にして各機交代で稼働させ、監視カメラを通してマスターのいる奥の研究室を見ていました」
     バッテリーが少ないながらも教授殿の様子を見ていたと。大変だったのですね。それにしてもなぜ、教授殿はあなたたちをそんなふうにしたのでしょう。いつ頃からです?
    「理由は不明です。マスターがその設定変更を行った日は、八月三十日の夜です」
     僕が前に訪問した日ですね。マキナの設定を変えると言っていましたが、このことだったのでしょうか? でも、こんな変え方をしなくてもいいのに。
     二十日近くも、あなた方は教授殿を見守っていたのですね。
    「そうです。しかし、一昨日、マスターが研究室で意識を失いました。約七十六時間に渡り、食事摂取や睡眠を行っていなかったためです。マスターは奥の研究室にゼリー飲料やサプリメントを持ち込んでいたのですが、作業に没頭するあまり補充を忘れ、食料が尽き、そのことさえ忘れて作業を続けたものと思われます」
     未完成のマキナの調整作業というのは、そんなに急いでやらねばならないことだったのでしょうか。
    「不明です。しかし、その理由の解明よりも先に、ミスター・ショルメに依頼したいことがあります」
    「分かっていますよ。教授殿を、ベッドのある部屋までお連れすればよろしいのでしょう?」
    「いえ、その必要はありません」
     近くにあったモニターが光ったかと思うと、僕のスマートフォンが鳴動しました。ファイルがニ件、送られて来ています。研究所の構内図と、何か機械の操作方法が書かれているようでした。
    「まずは、構内図の中の『機械管制室』という部屋へ向かってください。それから、機械を二件目のファイルに書かれたように操作し、私たちマキナを研究所の主電源に接続してください。そうすれば、五分の急速充電の後、私たちは稼働可能になります。稼働可能になったら、マスターを研究室から寝室へ運びます」
     なるほど、その方が速そうですね。でも、あなた方のいる場所から機械管制室を操作すれば、もっと簡単なのでは?
    「マスターは、私たちが機械管制室にアクセスすることを不可能にしました。作業フロアのコントロールには辛うじてアクセスできたので、機械を動かしてミスター・ショルメに来て頂くことにしました。玄関のセキュリティも解錠しています」
     僕は、首を傾げました。
    「あなた方の説明だけでも、僕は信じたと思いますよ。教授殿が倒れるのは、よくある話ですから」
    「ミスター・ショルメに関して、私たちにとってはまだ不確定な要素がありました」
    「僕のことをまだよく知らない、と?」
    「はい。特に、マスターとの関係について、不確定な要素が多くありました。『親しい』と言えるのか、そうではないのか、判断しかねます。よって、マスターが倒れていると私たちから聞いただけでは、信じずに帰ってしまう可能性もある、と今回は判断しました」
     まあ、確かに。僕と教授殿は「友達」「友人」という感じでもないですからね。強いて言うなら、僕たちを結び付けているのはホームズの称号とモリアーティの血筋、そしてその二つの因縁です。それにしては、近年は随分、平和な付き合いをしていますけど。教授殿が逮捕された時、僕が身元保証人になったこともありますからね。
    「だから、あの大きな機械を動かして迷路を作って、僕をこの研究室まで誘導したのですか。結構、大変だったのでは?」
    「そうですね。それを発案し、実際に機械をコントロールから操作した機体は今、予備バッテリーも尽きて動けなくなっています。同じ状況の機体がたくさんいます。現在、予備バッテリーの範囲で稼働可能なのは、五台程度です」
    「そんなに減ったのですか」
    「監視だけでも、二十四時間となれば相応のバッテリーを消費しますから」
     僕が驚いていると、研究室の外でガコン、とまた大きな音がしました。
    「機械管制室までご案内します。一旦、研究室を出てください」
     僕は、ちらりと教授殿に目をやりました。そして、監視カメラに見えるように、「やれやれ」というような顔をしながら、コートを脱ぎました。シャーロック・ホームズでお馴染みのインバネスコートです。
     それを丸めて、教授殿の頭の下に入れると、僕は研究室を出ました。
     先程とは違う形になった機械の迷路を通り抜け、機械管制室と小さな表示の出たドアの前に辿り着きました。前に立つと、ドアは自動的に開きました。こちらも認証システムがあったはずですが、マキナの手で僕を認証できるようにしてあるのでしょう。
     窓がないので室内は暗く、壁は機械でいっぱいでした。いくつもの液晶画面が低い明るさで光っていました。僕はスマートフォンを見ながら一つの画面を操作しました。主電源のコントロールが表示されているようです。マキナとの接続はオフになっていました。
     コマンドに沿って画面をタッチするだけだったので、作業は簡単に進みました。こんなに簡単で、僕のような工学の素人でも操作できるようでは、セキュリティの面が危ういのでは? でも、元々この部屋は入口に認証システムがあるので、リスクは低いということでしょうか。あるいは、時間短縮の方が優先されているということかもしれません。
     五分あれば稼働できるようになる、とマキナが言っていた通り、僕が迷路を通って研究室に戻った頃には、マキナが来ていました。
    「感謝します、ミスター・ショルメ」
     マキナの一機が声をかけて来ました。僕は笑ってみせました。
    「紅茶を飲ませて頂ければ、お礼は他に要りませんよ」
    「承知しました。機械を元の配置に戻します」
     マキナは内蔵の人工知能からコントロールに接続できるのか、何か液晶画面や操作盤などを操作することもなく作業フロアの機械を動かしました。便利ですねえ。
     教授殿は、と研究室を探すと、担架に乗せられて運び出されるところでした。コンピュータだらけのこの研究室では、オーソドックスで却って珍しい方法に見えますね。
    「教授殿なら、ご自分を担いで運ばせるのではないかと思っていましたよ。案外、良心的な方法なのですねえ」
    「当初、マスターはそのようにプログラムしていました。しかし、私たちはマスターのケアをする中で看護や医療について学習し、よりマスターへの負担が少なく安楽に移動できる方法を覚えました。マスターもこのことは感知しているはずですが、特に何も言いません」
     教授殿は特にそういった丁寧な看護は必要としていなかったかもしれませんが、マキナたちの向上心、向学心は必要なものと認めたのでしょうね。
    「ミスター・ショルメ、こちらを」
     マキナの一機が、僕のインバネスコートを持って立っていました。
    「ああ、どうもありがとうございます」
    「床に丸めて置かれていました。クリーニングをしましょうか」
    「クリーニング。ただの洗濯ではないのですか?」
     僕が少し驚いて尋ねると、マキナは目の前にホログラムのようなものを表示させました。洗濯機や乾燥機のようなものが見えました。
    「マスターの白衣、また工学作業の際に着る作業服等は汚れやすいため、家庭用のものとは異なるクリーニング設備を備えています。感謝を示す行動として、私たちはミスター・ショルメのコートのクリーニングを考案しました。いかがでしょう」
    「クリーニングには、どれくらい時間がかかりますか?」
    「汚れを取り、乾燥させ、アイロンをかけるため、おおよそ三日程です」
     またここへ来る口実になりますね。
     僕はにこにこと、クリーニングを頼みました。コートは他のマキナの手で、洗濯室へと運ばれていきました。
     それから僕は、研究室を出ようとして、ある大事なことに気が付きました。
    「すみません。レディのどなたか、僕のボストンバッグを知りませんか。少し大きい、例えばヴィオラが二台入りそうな厚みの……」
    「ミスター・ショルメの鞄は、寝室へ運んであります」
    「寝室へ? 教授殿のいらっしゃる?」
     僕は戸惑いました。
    「中身が生の食品であると確認したため、寝室の冷蔵庫に入れました。よって、鞄も室内にあります」
     つまり、鞄を取りに行くためには寝室に入らなければならないのでしょうか。それとも、マキナに頼めばいいのかな。中身は教授殿へのお土産ですから構わないのですが、鞄は僕の私物なので持ち帰らねばなりません。
     そんな僕の迷いを見透かしたわけはないと思うのですが、マキナは言いました。
    「ミスター・ショルメも、少し休息を取ることを提案します。寝室には、椅子やソファ、テーブルもあります。そこで紅茶を飲むことも可能です。ただ、茶菓子はありません」
    「それは構いませんが……。案外、人間らしい家具があるのですね」
    「かつて、これらをマスターのために揃えた人間がいたと記録があります。正確には、『記録があったという記録』であり、揃えた人間が誰かは残っていません」
    「教授殿が消去したのでしょうか」
    「不明です。──ご案内します」
     研究室の外の機械は、元のように整列していました。僕は、マキナについて歩きました。マキナは、僕の歩行速度をたった数歩で把握すると、ちょうどよい速さに自分の速度を調節したようでした。デートで便利そうな機能ですね。男性が歩くのが速くて、ヒールの高い靴で来た女性が疲れてしまう、などという話はよく聞きますから。
     そんなことを考える間に僕は寝室へ着き、中へ入るよう促されました。薄い青色の絨毯が敷かれ、木目の温かな印象のテーブルや椅子がありました。柔らかいソファやクッションもあります。想像以上に、人間味を感じる部屋でした。
     しかし、それから僕は、少々困ることになりました。鞄を見つけたのはよいのです。籠に入れて、ソファの近くに置いてありました。僕を送って来たマキナが、僕を置いて寝室を出て行ってしまったのです──研究所内の復旧作業が残っているから、と言って。何かあれば壁にある小さい液晶画面のボタンを押して呼ぶように、とは言っていましたけれど──。
     部屋の端には、一人分のベッドが置かれていました。そこでは、先程より幾分か顔色のよくなった教授殿が寝息を立てていました。白衣の袖を片方脱がせてあり、腕に点滴が繋がれていました。大きいパックですから、時間がかかりそうです。薄く細い体には、タオルケットがかけられていました。
     一般的なサイズのベッドであるはずですが、教授殿が寝ていると横幅が余って見えますね。余程太った人でなければ、ばれずに横に座ることもできるかもしれません。それとも、人の温度が嫌いな教授殿は、すぐ気付いてしまうかな。
     僕は、食器棚からティーカップを出して、紅茶を淹れました。茶葉を持って来なかったので、今日はティーバッグです。教授殿でも嗜好品を飲むことがあるのか、ティーバッグが幾らか棚にありました。
     僕は、寝ている教授殿が見える席に座りました。
     眠っている教授殿の顔は、ただの眠っている人間にも見えましたし、死人にも見えましたし、赤ん坊のようにも見えました。普段の教授殿に対して、生気や人間味を感じない印象が大きい人には死人のように、無垢とも取れる部分や不器用さの印象を感じる人には赤ん坊のように見えるのでしょう。ただの眠っている人間に見える人は──教授殿をただの人間と変わりないと思っている? 僕はそうなのか? 考えたけれど、その三つの印象であれば、僕はどれも教授殿に対して抱いているような気がしました。
     そうして少しぼんやりしていたので、僕は気が付かなかったのです──教授殿が目を開けて、あの黒い瞳で瞬きをしながらこちらを見ていることに。
     こういうとき、「気が付いた?」などとドラマや映画では言いますよね。しかし、教授殿にそう言っても、「見て分からないのですか」とか「視力か判断力に問題が?」とまじめに聞き返されそうに思えました。僕は何と声をかけたらよいか暫し迷った後──ティーカップをテーブルに置き、黙って立ち上がりました。
     すると、掠れた低い声が聞こえました。
    「どこへ行くのですか」
     眠りを妨げないよう、室内は僕のいる部分だけ薄明るい照明がつけてありました。研究所は地下なので、昼間でも暗いのです。教授殿の顔が、僕のいるところから差す明かりを浴びていました。照明が黄みを帯びていたので、さらに顔色がよく見えるようでした。
     おやおや、まるで僕にどこかへ行ってほしいとでもいうような口振りですねえ! 教授殿も随分な意地悪を仰る! ──いつもの僕なら、そんなふうに返した気もするのですが、そのときはそうする気になれませんでした。マキナをスリープにしていたことが引っかかっていたのでしょうか。僕が訪ねて来たときのバイタルの改善という話を、まだ気にしていたのでしょうか。
     とにかく僕は立ち上がり、ベッドの傍までゆっくりと歩きました。教授殿はそれを、じっと見ていました。
     椅子が一脚あったので、僕はそれに座りました。
    「どこ、とは? そもそも、僕がどうしてこの部屋にいるのかも、教授殿はご存知ないのでは?」
    「……それは、確かに。ですが、記録を見ようにも、アクセスできる端末が近くにありません。後で、マキナに持って来させます」
     教授殿の声は普段から元気溌剌には程遠いのですが、いつにもまして力のない声をしていました。また、その言葉通り、近くにスマートフォンやタブレット端末などは何もないようでした。
     僕は、空っぽの両手を見せるようにしながら言いました。
    「却って、ない方がよいのではありませんか? 教授殿はこのところ、根を詰めていたような話を聞きましたよ。完成しているマキナを動けなくして、未完成のマキナにかかりきりだったとか。少し離れて、休息を取るのをおすすめしますよ。体が悲鳴を上げているんです」
     教授殿は二回ほど瞬きをした後、瞼を閉じました。また眠るのかと思った僕は、椅子から立ち上がりました。すると、彼は目を開けてこちらを見ました。ぱちっ、と音がしそうでした。
    「どこへ?」
    「えっ……いえ、テーブルへ戻ろうかと。何か、僕にご用でしたか?」
     教授殿は、黒い瞳を逸らしました。黙って何かを考えているように見えました。それは、逡巡や躊躇というよりは、言う場合と言わない場合のそれぞれの損益を計算しているように見えました。
     やがて、教授殿は言いました。
    「……あなたに用があるのは確かですが、そのこと自体が何というか……私の主観的な感情を害します。具体的には……、気に入らないというような……」
    「癪に触る?」
    「……そうして的確に言い当てられるのも……」
    「気に入らない、ですか?」
     顔をしかめる気力もないのか、やれやれという表情に見えました。僕は、くすりと笑ってしまいました。
    「言い当てると言いますか……僕は名探偵ですからねえ。推理して謎を解き明かすのが仕事です」
    「あなたのそれには、性格や性質、性根といったものも含まれているのではないのですか。探偵の仕事柄、というだけでなく」
    「ええ、まあ、それが、僕が稀代の名探偵たる所以ですからね。今は、二つほど謎を抱えているところですが──教授殿の抱える謎を解き明かす方が優先でしょう」
     僕は椅子で脚を組み、肘掛けに腕を乗せながら、研究所に来てから今までのことを話して聞かせました。教授殿は、天井を見ていました。点滴をしながら眺める天井と言ったらトラバーチン模様が定番ですが、ここは病院ではありませんからね。柔らかいアイボリーホワイトの天井が、寝室を覆っていました。
     僕の話を聞き終えた教授殿は、しばらく黙って何も言いませんでした。体調を崩して表情に気力がないだけで、いつもと変わらず思考をしているのだろうと思いました。
    「それで、あなたの抱える二つの謎というのは?」
     黒い目で瞬きをしながら、教授殿は尋ねました。普段から身振り手振りの大きい人ではない上、片腕が点滴で動かせないので、さらにじっとして見えました。
    「おや、気になりますか。でも、助けて差し上げたお礼も聞いていないのに……」
    「その点については、感謝しています」
     僕が言いかけたのを、教授殿が遮りました。僕は、僅かに目を瞠ってしまいました。
    「……私らしくもない失敗でした。さすがに、稼働可能なマキナ全てを格納し、主電源との接続を断ったのは……極端にも程があります。認めるのは癪ですが、あなたが来なければ命の危険があったのは確かです」
     これはこれは。教授殿にお礼を言われるのなんて、初めてかもしれませんね。一応ライバルのような立場であっても、お礼を言われると嬉しくなってしまうのは、僕も人の子ということでしょうか。
    「どうも。お礼はしっかり頂きましたよ。そうそう、格納されていたマキナたちにも伝えてあげてくださいね。僕は彼女たちの導きがなければ、教授殿を助けられなかったのですから」
    「彼女たちは、感情的な感謝など必要としないと思いますが……。ただ、報酬を与えてみるのは、実験として悪くないかもしれません。マキナにとっての報酬になるものと言ったら……質のよいエネルギーや、よりスムーズな駆動能力……他には……」
     そうして考えかけてから、教授殿は口を噤みました。
    「他には、何ですか?」
    「何でもありません。……それより、あなたの謎の話でしょう」
     そうでしたねえ、と僕は脚を組み替えました。
    「一つは、今まさに話していたことです。教授殿はどうして、マキナを動けなくするなどという極端なことをしたのですか? マキナにも理由が分からないと言っていましたよ」
    「それは……」
     僕の方を向いていた黒い瞳が、また天井を向きました。天井を向くと照明の光を映さなくなるので、瞳が暗く見えました。
     そうしてしばらく、教授殿は小さい口を閉じていました。開いたときにも、言葉選びに迷って、唇を上手く形作れないように見えました。
    「……あなたに話すことではありません」
    「『僕には』ということですか? それとも、『僕を含めた他の人にも』ということですか?」
    「『あなた以外の人間には知れても問題ないが、あなたには決して知られたくない』、そして『あなたに知れる可能性があるのなら、あなた以外の人間にも話すことはできない』……といったところです」
     意地悪で言っているようには思えませんでした。教授殿は至って真剣でした。
    「困りましたねえ、それでは謎が解けませんよ」
    「解けなくて結構です」
     僕は、頭に手をやって考えました。そのとき、ある推論が浮かびました。教授殿が僕には言えないというのは、僕が抱える二つ目の謎と関係があるからなのでは?
     僕は、椅子をベッドの方に近付けました。
    「教授殿」
     点滴台があったので、その横に椅子を付ける形です。僕の片膝と、教授殿の肩が大体同じ位置になりました。教授殿の細い眉尻がぴくりと動いた気がしましたが、僕は気付かない振りをしました。
    「マキナたちの面白いデータがありますよね──僕が研究所を訪ねた後、教授殿のバイタルがよくなると。そのデータが得られる状態へと発達したマキナの人工知能を、教授殿は誤りであると仮定したのではありませんか?」
     教授殿は、瞬きをしながら僕を見上げていました。黒い陶器のような瞳に、口元に笑みを浮かべた僕が映っていました。
    「教授殿はそのデータを観測したマキナのグループを一旦閉じ込め、バイタルデータを記録できないようにしました。そして、新たなマキナ、未発達の人工知能を搭載したマキナを造ることにした」
     あの研究室には、十台ほどの未完成機体がありました。
    「その新たなマキナに、再びバイタルの記録をさせて、データが誤りであることを確かめる計画だったのでしょう。作業に没頭するあまりに倒れてしまい、僕が従来のマキナを再稼働させたので、計画は頓挫したわけですが……」
     合っていますか? そう尋ねると、教授殿は小さくため息をついて答えました。
    「概ね、合致しています」
    「よかった。──それにしても、別にいいじゃありませんか。僕が来て、バイタルがよくなっていたって。僕は気にしませんよ。教授殿が健康でいらっしゃるのは、皆にとってもよいことですからねえ、多分。ミネットのお嬢さんや、かつてここにいた番犬君なら、あなたのことを心配しないわけではないでしょうし。論文の査読を頼んでいる研究者仲間だって、滞りがない方がよいでしょう。ライヘンバッハとしては……まあ、組織のリーダーがちょくちょく行き倒れるようでは、従うのも躊躇われるという人だっているのでは? 教授殿ご自身も、元気でなければ研究そのものに支障を来す、と身に沁みて分かったでしょう」
     教授殿は、僕がそうやってぺらぺらと喋るのを黙って聞いていた──と思っていたのですが、どうも皮膚に刺さるようなものを感じました。教授殿の瞳が尖ったような感じになり、僕を睨んでいたのです。いつもの、勝手に研究所に来た僕をうるさそうに見るときや、あまりに煙たくて外へ放り出すときとは、異なる瞳をしていました。何と言ったらよいのか──。
     僕が言葉を失っている間に──あるいは、教授殿の瞳に魅入っている間に、彼は膝を曲げ、片腕をマットレスに突いて半身を起こそうとしていました。教授殿は僕を睨むのをやめ、ベッドの足元を覗き込んでいました。
    「教授殿?」
    「……そろそろ、起きます。面倒をかけました。マキナを呼びますので、あなたはもう帰ってください」
     彼は、僕と目を合わせずに言いました。
    「何を言ってるんですか。あなたはここへ来て、三十分も経っていないんですよ。点滴も終わっていませんし、もう少し……一晩とは言いませんが、せめてもう数時間は寝ていなくては」
     呆れた僕の言葉が、耳に入っていたのかどうか。彼は棒切れのような脚を絨毯へ降ろし、ベッドの足元にあったサンダルに足を入れました。そして、点滴台を掴むと、からからとキャスターの音を立てながら歩き始めました。本気で外に出て、研究作業に戻る気なのです。
    「教授殿、いけませんよ。外には行かせません」
     僕が部屋のドアの前、正確には液晶画面の前に立ち塞がっても、教授殿とは視線が合いませんでした。ずっと、黒い瞳を伏し目がちにしているのです。合わせないように敢えてそうしているのは、分かっていました。ただ、教授殿が僕を見なくなったことが、今まで感じたことのない焦りをもたらしていました。謎が解けないことではなく、謎そのものがもたらす焦りです。
     内心の焦りがどれくらい表に出ていたかは、分かりませんが──そんな僕に比して、教授殿は冷静でした。普段にも増して冷静、あるいは淡白に見えました。
    「……エルロック・ショルメ。もう一度言いますが、あなたはもう帰ってください。私は、研究作業に戻りますので」
    「だめだと、何度でも言いますよ。ベッドにお戻りなさい。今までだって倒れたことはありましたが、少なくとも二、三時間は眠っていたじゃありませんか。今回もそうなさい」
     こんな話し方は滅多としません。僕は、子供と話す機会は少ないですからね。
    「……作業が、残っているのです。どいてください」
     教授殿は、少し俯き加減になりながら言いました。ただ僕は、自分がどかずにいれば、教授殿はこれ以上ドアや液晶画面に近付けないと思っていました。教授殿は、他人に過度に近付かれたり、近い距離で話されたりするのを嫌うのです。
    「教授殿がベッドに戻られるなら、検討しますけれどね。そんな状態で研究に戻っても却って効率が悪いと、賢明なあなたならお分かりでしょう? 十分に休み切らずに作業して、また倒れて。その繰り返しになりますよ。あなたの体のバッテリーが、どんどん消耗して──」
     その瞬間です。
     僕の顔の横の壁に、白衣の腕が突き立てられました。教授殿は、液晶画面を叩くように操作し、マキナに通信を繋ぎました。
    「エルロック・ショルメを研究所から出しなさい。……穏便に。彼の役割は終わったはずです。休息も」
     液晶画面を触れる程に近付いてきていたので、教授殿は僕の肩越しに通信するような格好になっていました。彼の低く抑揚の小さい声が、いつもよりずっと近くに聞こえました。
     通信を終えたらすぐに離れるのかと思っていましたが、教授殿はそのままの位置から僕を見つめました。顔のパーツ全てに何の感情も浮かんでおらず、何を思っているのかが僕には分かりませんでした。
     鼻先と鼻先が触れ合いそうな距離でした。教授殿からこんなに近くでまじまじと見られたことがなく、僕は緊張していました。探偵の職業柄、こちらからまじまじと見るのはよくあることですが、その逆は案外──案外、何でしょうね。一般論としての「まじまじと見られること」に僕はたじろいでいるのか、あるいは教授殿から見られることに何か特殊性があるのか。両方かもしれません。
    「聞いての通りです。エルロック、あなたはもう帰ってください。今、マキナが迎えに来ます」
    「しかし、教授殿」
    「あなたが……あなたは……」
     教授殿は、壁に手を突いたまま、さらに少し俯きました。数秒の後、顔を上げた彼は再び僕を──睨んでいました。あの尖った瞳をしていました。
    「あなたに、これ以上ここにいてほしくありません。私は、自分の力で回復します」
     ──普段の僕なら、どれだけ厄介払いされそうになっても気にも留めません。そのまま逃げるように帰ることもあります。しかし、そのときは──間近に、視線を合わせて言われたからでしょうか。僕たちの身長差というのは、僕が二センチばかり高いだけなので、視線を合わせるのは簡単なのです。僕には、楔を打たれたように感じられました。
     そのとき、ドアが開き、マキナが現れました。
    「玄関までお連れしなさい」
     了解、とマキナは答え、僕に頭部を向けて歩くよう促しました。僕は鞄を持ち、何も言わずにその部屋を出ました。ドアが閉まる前にちらりと振り返ると、教授殿が点滴台ごと崩れ落ちるのが見えました。
    「教授殿!」
    「心配はいりません、ミスター・ショルメ」
     その言葉通り、すぐに他のマキナがやって来て、寝室へ入って行きました。
     そうですよね。僕は、少し俯きました。マキナならきっと、僕よりも適切に丁寧に、何より静かに、教授殿の看病ができるでしょう。そのように人工知能を開発し、学習させ、育てたのは教授殿です。なるほど、これも自分の力で回復する、ということなのかもしれません。確かに──僕が傍にいる必要など、ないのでしょうね。僕は、内心で苦笑しました。
    「本日はあなたのご助力に感謝します。ミスター・ショルメ」
     玄関まで来ると、マキナは改めて言いました。ですが僕には、笑って答える気力が残っていませんでした。
    「いえ……。あ……そうだ」
    「何でしょう」
     僕は、ボストンバッグを持ち直しました。
    「寝室の冷蔵庫に、アメリカ土産が入っていますので、教授殿にどうぞ。ブルーから始まるものです」
    「分かりました。勧めてみます」
     よろしく、と僕は研究所を出ました。
     複雑な気分で帰って来て、この日記を書いています。
     倒れていた教授殿を助けられたことは、僕もよかったと思うのです。ただ、教授殿に「ここにいてほしくない」と言われたのが何故か堪えました。いつもなら気にしないのに。
     そう言えば、コートのクリーニングをマキナに頼んだのでした。替えは二、三着ありますが、研究所にあっても仕方ないでしょうから、後で受け取りに行かないと。専用の機械を使って三日かかると言っていましたから、どんなにかピカピカになっているのでしょうね。
     そんなふうに考えでもしないと、あの研究所を訪ねるのは気が重く感じるようになってしまいました。いっそ、マキナがデリバリーしてくれたら気楽なのですけどね。


    九月二十六日
     良い一日かは分かりませんが、大変な驚きと刺激に満ちた日でした。ただ、謎がまた増えた気がします。
     僕は今日の日付が変わった頃、紫のコートと帽子、そして顔半分を隠す仮面を身に着けて──つまり探偵怪盗ホームズとなって、とある場所に潜入していました。これは、パリにある怪盗連盟の依頼を受けたものです。
     探偵業の時の僕は、殺人事件でなければ依頼をお断りしています。刺激的ではありませんから。怪盗業の方も、殺人事件とは言わないまでも、刺激的な依頼でなければあまりお受けしません。ロンドンの地理に詳しいとか、そういう理由で無理やり連れて行かれたことがないではありませんが。
     ただ今回は、その財宝を本来の持ち主に返せば、殺人事件の被疑者の一人の疑いが晴れるという事情があったので、ご協力申し上げた次第です。遺体の検分や実際の捜査に加われないのは残念ですが、真犯人が見つかることを祈るとしましょう。
     連盟の建物から出るとき、僕はシャツやジャケットといったごく普通の格好に戻っていました。街中を怪盗の格好で歩くと目立ちますからね、屋根の上を跳んで行くならともかく。怪盗の衣装一式を脱いで鞄に入れ、僕はそれを持って歩き始めました。
     連盟の敷地から一旦裏通りに出て、それから人や車の多い通りに出ようと思っていました。僕が成人男性とは言え、暗い裏通りは危ないですからね。早めに明るい通りへ出ようと思っていたのです。
     ──そう思っていた矢先に、まさしく危ない出来事が起こりました。
     裏通りを歩いていたところ、背後で何かを噴射するような音が聞こえました。振り返ろうとする前に、僕は首をがっちりとホールドされてしまいました。
     助けて! 等と叫ぼうにも、喉が苦しくて声が出せません。引き剥がそうとして腕を掴むと、ひやりと冷たい感触がしました。これは人間の腕ではない。息苦しさと命の危険を感じながら、僕は脳を素早く巡らせました。こんな腕で、こんな強い力で人間を拘束できる存在は限られます。甲冑姿の危険怪盗レクトル、それを模した兵器レクトロイド、そしてファントム・エクス・マキナ。そのどれかである可能性が高いけれど──僕は抑え込まれながら腕の先端、つまり手の部分に触ってみました。形状が鉤爪ではなく、人間と同じ五本の指があります。レクトルやレクトロイドではなく、ファントム・エクス・マキナです。
     しかも、装甲に覆われたその手は──僕が触れて指の在り処を確かめると、ぴくりと動きました。ただのマキナなら、僕が何をしても動揺などしないはず。つまり、中に人間がいるのでは?
    「……教授殿。あなた、ですね?」
     僕の声を絞った問いかけに、背後の人物は暫し黙って答えませんでした。
    「マキナスーツを着た、あなたなんでしょう。名探偵の僕に……隠し通せると思いましたか? それに……」
     僕が話す間に、腕の力は徐々に緩んでいました。呼吸がしやすくなり、僕は一旦息をついてから続けました。
    「『ホームズ』の名を継ぐ者に、『モリアーティ』の気配が分からない訳がないんです。放してください。僕は逃げたりしませんから」
     数秒の沈黙の後、僕は解放されました。後ろを振り返ると、白いファントム・エクス・マキナが数歩下がり、僕から距離を取りました。
     それから──頭部のフルフェイスヘルメットが開き、教授殿が顔を見せました。ヘルメットの蓋の部分は、背中の部分に格納されたようでした。
     薄暗がりで僕たちは、互いの顔を見ました。教授殿と視線が合った刹那、僕は以前に研究所で見た彼の瞳を思い出していました。尖ったようなあの瞳に、僕は少々魅入られたのです。しかし、その晩の教授殿は、いつものような、そして皆に見せるのと同じような表情や瞳をしていました。顔色も悪くないと言ってよいでしょう。何よりのことですが、少々寂しく思う僕もいました。
     教授殿は、平らかな口調で言いました。
    「……連盟の登録情報をハッキングして、漸くあなたの居場所を掴めました。あなたはロンドンやパリを行ったり来たりしていますから……手間をかけさせてくれましたね」
     それを聞いて僕は、教授殿の瞳から別のことへと意識を動かさざるを得ませんでした。
    「僕を探していたのですか。何かご用でしたか?」
    「……渡す物が一点。あなたへの質問が一点あります」
     そう言って彼が差し出したのは、僕のインバネスコートでした。クリーニング店に出したときのようにハンガーにかけられ、ファスナー付きのカバーもかかっています。汚れはなくなり、皺がすっかり伸びていました。プロ同然の仕上がりです。
    「やあ、ありがとうございます。受け取りに行かねばと思っていたのですが、つい伸び伸びになってしまって。しかし、この仕上がりですと、寧ろこちらがお代を支払わねばなりませんね」
    「必要ありません。マキナたちからあなたへの謝礼と聞いていますから。料金を払われても困ります」
     僕が受け取って鞄に収める間に──怪盗の衣装が入るようにと、少し大きめのものを用意していたのです──教授殿は質問を続けました。
    「……冷蔵庫のあれは、何ですか」
    「あれ?」
     教授殿は少し不機嫌そうな顔になって答えました。
    「あの大量の、ブルーベリーです」
    「ああ、あれですね。あれは……」
     あれは教授殿へのアメリカ土産ですよ。知り合いのブルーベリー農家が、殺人事件で疑われてしまいましてね。無実を証明したお礼としてもらったんです。真空で冷凍してあるから、しばらくはもつだろうと言っていました。ブルーベリーが目にいいというはっきりしたデータは得られていないそうなのですが、まあ、常日頃ブルーライトを浴びておられる教授殿には悪くないお土産かな、と思いまして……。
     僕がそう喋る間も、教授殿はずっと不機嫌そうな──というよりは、何かを認めたくないような顔をしていました。
    「では、単なるアメリカ土産だというのですね」
    「え? ええ……」
    「それ以上の……それ以外の意図はない、と?」
     僕は、質問の意図がよく分からないまま頷きました。教授殿は、視線を逸らしました。あ、また僕を見なくなった──と、その時僕はやはり、焦るような気持ちになりました。
     何か理由があった方がよかったですか? 教授殿、行き倒れから回復記念! とか? ──等と冗談めかして言う気にはなれませんでした。ある推論が浮かんだからです。
     もしかして僕は──理由は分からないけれど──教授殿を傷つけたのではないか? 本当に理由は分からず根拠もないけれど、ああして視線を逸らしたり瞳を尖らせたりするのは、傷ついたときの顔ではないのか? 教授殿が僕のことで傷つくだなんて、考えたこともなかったけれど──。
     僕が自身で得た推論に愕然としている間に、教授殿はヘルメットを被り直していました。
    「……用は済みました。初めに拘束しようとしたことは、謝罪します。それでは」
     教授殿、と僕が追い縋る間もなく、彼はマキナスーツの背中にある飛行ユニットを起動させました。あのユニットにより、持続的な低空度飛行が可能だという話を以前に聞きました。一般家屋の屋根の上程度なら、飛んで行けるわけです。あっという間に、教授殿は見えなくなりました。
     僕は重くなった鞄を持って、暗い裏通りで一人になりました。
     明るい通りに行く気になれず、そのまま裏通りを通って帰りました。幸運にも、トラブルなどはありませんでした。ジャポネで言うカツアゲとか。
     空がまだ暗いうちに帰宅しました。これから少し眠ります。あの推論について考えるのは、その後にしましょう。


    九月二十七日
     関わりを持っていた相手を傷つけたかもしれないと思ったとき、あなたならどうしますか?
    「俺なら、謝っちゃうかなあ。申し訳ない気持ちでいっぱいになりそうだし……。手紙を書くのもいいと思うよ。あとは、誰かに間に入ってもらうとか」
    「いや、まず本当に傷つけたのかどうか確かめた方がいいんじゃないか。取り越し苦労ってこともあるし。ところで、その相手って姉さんじゃないだろうな?」
    「傷つけたかどうか、傷つけたならどの部分をどの程度の負傷させたのかを確認すべきだろう。その相手がマイロードなら、一ヶ月は出禁にするのだが……」
    「私じゃないわよ、多分。この人のせいで一番傷ついてるのはミネットのお財布よ、ツケにしてばかりなんだから。──でも、確かめるにしても、今すぐには難しいって時もあるんじゃない? 時間を置いてもいいと思うわ」
     カフェ・ミネットに来ても黙って座って、厚かましく振る舞わない僕が、余程珍しかったのでしょうか。今日の分はツケにしないで払うと言ったからでしょうか。常連客やカフェのマスター、ギャルソンたちは親身になって……これは親身、ですよね? 一部恫喝になりかけていた人たちもいた気がしますが、それぞれ自分なりのアドバイスをくれました。郵便局員の彼には、配達中に引き留めてしまって悪いことをしましたね。後日ナナイモバーを奢ると言ったら喜んでいましたが、マスターには「それもツケにしないで払ってね」と釘を刺されましたよ。やれやれ。
     数人いた常連客のアドバイスの中でも、ファッション業界で働く彼女の話は、何か腑に落ちるものがありましたね。
    「傷つけたかもしれないと思う理由が、アナタのやったことなら、それを謝ればいいわよね。でも、そんなにはっきり、具体的に『これだ』とは分からないんでしょ?」
     ご明察ですね。貴女も探偵になれそうですよ。
    「デザイナーが作るのは衣装だけじゃなくて、それを身に着けた人だから、人を見る目を養わないといけないの。……それで、何か明確な出来事があったわけではないけど、傷つけたかもしれないと思うのよね。それは、アナタが相手の様子を見てそう思ったんじゃないのかしら」
     うーん、さすがは世界を相手に活動するデザイナー兼モデル。なかなか鋭くていらっしゃる。
    「相手のことをよく知っていればいるほど、視線や表情で発する無言のサインは、確信に近いものになるわ。アナタはそういう相手のそういう様子を見たから、心当たりがなくても、傷つけたかもしれないと疑っているんでしょ。確かめるまでもないんじゃないかしら」
     確かに。
     僕は、ヴィクター・モリアーティの一番の理解者と自負するわけではありませんが、それでもホームズの称号を継いで以来の腐れ縁です。それなりに長い付き合いがあります──互いに若いので、長いと言っても限りがあるのは確かですが。多少なりとも、彼については知っているつもりです。少なくとも、彼を「異端の天才」「犯罪王」と遠巻きに見る人よりは。
     よし、と僕は立ち上がりました。
     スコーンとミルクティーのお代をきちんと現金で支払うと、僕はマスターやギャルソン、常連客たちに見送られてカフェを出ました。やめてくださいよ、もう二度と来られないみたいじゃないですか。
    「そんなことにはさせないわ。あなたのツケの総額がいくらになってるか、分かってるの?」
    「地の果てまで追いかけても請求するからな。下水道や屋根裏に潜ったって、ヘルが見つけ出すさ」
    「見つけ出したときには、総資産と収入を調査した上で返済計画を立ててもらう」
     やれやれ、大袈裟な話になってきましたねえ。では、失礼。
     僕はロンドンに向かうべく、ユーロスターに乗れる駅を目指して歩き出しました。

     ここまでの日記を、ユーロスターの車内で書きました。二等車のスタンダードクラスはビュッフェがありますが、スコーンでお腹いっぱいだったので、飲み物だけもらいました。
     ビュッフェの多彩な食べ物や飲み物を見ていると、教授殿は倒れてから、きちんと食事を摂っているだろうかとふと考えました。ただ、昨日の深夜に会った際には、顔色は悪くなかったようです。彼は、失敗を無駄にする人ではありませんからね。しばらくは食事摂取に気をつけるでしょう──しばらくは。
     ここからは、自宅に帰ってから書いた部分になります。
     僕は、研究所の入口の前に立ち、セキュリティシステムの呼び出しボタンを押しました。
    「ミスター・ショルメですね」
     どうも、マキナの皆さん。教授殿はご在宅ですか?
    「はい。ミスター・ショルメが訪ねて来たら、すぐに知らせるように言われています」
     僕が? また、何かご用でしょうか。
    「それ以上のことは、私たちには不明です。……エントランスを解錠しました。お入りください」
     マキナに促されて、玄関を通りました。いつもならそのまま、勝手知ったるとばかりに紅茶を飲む席へ進むところです。しかし、今日はおや、と立ち止まらざるを得ませんでした。
    「教授殿」
    「エルロック・ショルメですか。こんにちは、と一応言っておきましょう」
     教授殿が、玄関から見える位置に座り、コンピュータを操作していました。
    「ええ……こんにちは。作業フロアのこんなに手前にいるとは、珍しいですね」
    「客が来たら、すぐ分かるようにしておきたかったのです」
    「客というのは、僕のことですか。マキナが言っていましたよ」
    「そうです」
    「そうですか……。それで、その……」
     僕は、教授殿の頭部をまじまじと見つめざるを得ませんでした。
    「その……、ヘルメット……ですか? それは……何ですか?」
     教授殿は、目元まで隠れる黒いヘルメットで、頭部を覆っていました。うなじの銀髪が細い束になって、ヘルメットからはみ出て見えました。その状態で顔をこちらに向けられると、異形の姿のようでした。
    「これは、試作品です。頭部に繋いだ電極と目元のレンズで、大脳と視神経に特殊な効果をもたらす機器です。まだスイッチを入れていないので、効果はこれから確かめるところですが……」
    「特殊な効果、とは?」
     教授殿は、コンピュータに向き直りました。しかしそれは、そこに特に見るべきものがあるからというよりは、僕から顔を背けるためというように見えました。
    「……あなたを認識しなくなります」
    「えっ」
     僕は思わず大声を出してしまいました。
    「私の記憶領域からあなたの記憶はなくなり、あなたを見ることはなくなり、あなたの声も聞こえなくなります。触れられても、何も……」
    「ど……そんな、どうしてですか、教授殿。教授殿は今までだって散々僕を邪険にして来ましたし、僕も教授殿にそうされるだけのいろいろな邪魔やいたずらをしてきた自覚はありますが……。そうだとしても、こんなふうにされる程のことを、僕はしてしまったのですか」
     僕は動揺して、思わず数歩前に進み出ていました。膝が震えそうでした。それが目に入ったのか、教授殿は後退したいような素振りを見せましたが、デスクに手を置いて耐えているようでした。
     少し俯いて、教授殿はヘルメットの側頭部に手を宛行いました。
    「……スイッチを入れます。さようなら、エルロック・ショルメ」
    「待ってください! 待って!」
     身長一七三センチメートルの僕の平均歩幅は、七十七・八五センチメートルです。それをどれくらい上回る長さで足を伸ばしたか、あるいは床を跳んではねたか分かりませんが──僕は、玄関付近からほんの数歩で教授殿の傍に駆け寄りました。教授殿は椅子から動かず、スイッチを入れようとしていました。その血色のない指先がスイッチの部品を動かそうとした一瞬前、間一髪で僕は──教授殿の腕を抑えるのに成功しました。
     そして、大きな音を立てて、僕たちは倒れ込みました。慌てて突進して来た僕が立ち止まれず、教授殿と折り重なって床に倒れたのです。椅子が横倒しになり、僕の鹿撃ち帽は脱げて飛び、教授殿のヘルメットは外れて転がりました。
     痛みと衝撃で、僕たちは暫く動けませんでした。右脚の膝頭を強かに打ってしまったので、僕は左膝を突いて何とか身を起こしました。ずっと折り重なったままでは教授殿が重たいだろうし、人の体温や人との接触が苦手な教授殿には負担だろうと思ったのです。しかし──。
    「教授殿……? しっかり! 教授殿、教授殿!」
     教授殿は仰向けに倒れたまま、青白い瞼を下ろして動きませんでした。呼吸はしているようでしたが、呼び声への反応はありませんでした。頭を打ったのでしょうか。それともまさか、僕が間に合ったと思っただけで、スイッチは押されていたのか? 不安と焦りが内心をいっぱいにしました。
     頭に着けていた黒いヘルメットは、衝撃のせいかぱっくりと割れていました。よく見るとハリボテのようです。では、意識があれば僕の声に反応するということ。この点は、一先ず安心できます。
     どうしてこんなものを着けていたのか、という疑問は、後回しにしましょう。精密機械でないと分かると、僕はそのヘルメットを脇へ寄せてしまいました。教授殿を、ベッドのあるあの部屋に運ばなくてはなりません。頭を打ったようですから、場合によっては、救急搬送も必要かもしれないのです。
     マキナを呼ぶのが速いだろうけれど、どうしたら呼べるのだろう。「マキナの皆さん」等と呼びかけたら来るのでしょうか。この前はたくさんいて集まって来たのに、今日に限って近くにいないなんて。どうしたら……。
    「……そこの液晶画面……。A─4─Nを選択してください。ナーシング・モードになったマキナが、やって来るはずです……」
    「A─4─Nですね? 分かりました、ありがとうございます。……うん?」
     教授殿がうっすらと目を開け、僕を見上げていました。
     僕は思わず、がばりと教授殿の足元へ跪きました。
    「教授殿……! よかった、意識が回復したのですね」
    「……意識を喪失していたわけではありません。脳震盪を起こして、目を開けられなかっただけです」
    「そうでしたか……」
     ああ、そうだ。早くマキナを呼ばなくてはならないんでした。ナーシング・モードというからには、看病については心配いらないのでしょうね。マキナを呼んだら、僕は帰りますので……。
    「エルロック」
     そう話している途中に名前を呼ばれ、僕は一旦口を噤みました。教授殿が、弱々しいながらも手を伸ばしていたのです。
    「……何ですか?」
    「やはりマキナは、まだ呼ばないでください。……こちらへ」
    「こちら、と言うと……」
     腕が疲れたのか、教授殿の手が床に降りました。
    「私の傍へ、来てください」
     黒い陶器のような──いえ、違いますね。僕はもっと相応しい比喩を知っています。例えば、星のない夜空とか。底が見えない暗い湖だとか。光を拒むオニキスだとか。そんな瞳が、僕を見つめていました。そして、傍へ来てほしいと願っている。どうしたことでしょう──どうすればよいのでしょう?
     そんな気持ちで僕は、彼の傍へ寄りました。教授殿の足元に膝を突いていたのを、だんだんと顔の方へと近寄って行きました。教授殿がストップと言ったらいつでも止まれるよう、ゆっくりと移動しました。しかし、教授殿は「もう少し」と繰り返しました。
    「この辺りですか?」
     僕の痛む膝が教授の肩と並ぶくらいになると、教授殿は漸く頷きました。それから、静かに言いました。
    「顔を、見せてください」 
    「顔? こうですか?」
     僕は、身を少し屈めました。帽子が脱げていたので、僕の顔はよく見えるだろうと思いました。しかし、教授殿は再び手招きをしました。
    「もう少し近くで」
    「……こう、ですか……?」
     僕は、真上から教授殿を見下ろす格好になりました。視線がまっすぐにぶつかって、僕は少々緊張せずにはいられませんでした。
    「その位置で結構です。……ふっ!」
    「いたっ」
     僕は、驚いて仰け反りました。教授殿は僕の動きを止め、痛むはずの体に力を入れたかと思うと──僕の頬を平手で打ったのです。教授殿の細い腕ですから、例えば警護官や番犬君とは比べ物にならないのですが、それでもヒリヒリと頬が痛み始めました。
    「何をするんですか、教授殿! これでは、僕までマキナに看護してもらわなくてはなりませんよ」
    「マキナの看護リソースをあなたに使う訳にはいきません。自分で湿布を貼るなり、病院を受診するなりしてください。それにしても……」
     教授殿は、依然として仰向けになったまま、不思議そうな顔をしていました。検証結果に納得がいかない時の顔にも似ていました。その目には天井が映っており、頭の中では何かが素早く計算されているのだろうかと思わせました。
    「……仮説は真とはならなかった……。ダメージが足りないのか……? もう一度叩いたら、どうなるか……期待値は……」
     危険を感じて、僕は少し後退りしました。具体的には、教授殿の手の届かない位置まで。
    「エルロック、どこへ行くのですか。傍へ来てください」
     教授殿が再び、こちらを見ていました。
     ギリシャ神話のセイレーンという妖精は、美しい声で船乗りたちを惑わして遭難や難破をさせたり、食い殺したりしてしまうのでしたっけ。声とは違いますが、教授殿のその短い言葉は、どうしてか僕に傍へ行きたい気持ちを掻き立てました。名を呼ばれて、一つの質問と一つの要求をされただけだというのに。僕は、ジャポネの人が正座するように、両膝を床に置いて動きにくいようにしました。
    「……そんな言葉を言っても騙されませんよ。また叩くんでしょう。喜んで叩かれる性癖は持っていないんです、遠慮します」
    「私も、あなたがそんなものの持ち主なら、わざわざこうして叩きません。あなたにダメージを与えるのが目的ですから」
    「……ダメージ? 教授殿はさっきから、何の検証をなさっているんですか?」
     そう訊かれると、教授殿は初めて、体を起こす素振りを見せました。細い体に白衣の裾を巻き付けたまま、横を向いてから半身を起こします。
    「その質問への答えは黙秘します。……」
     教授殿は、液晶画面を操作し、マキナを呼びました。すぐに、ナーシング・モードになったマキナが四機やって来ました。教授殿をストレッチャーに乗せて──今回はスペースが比較的広かったのと、頭を打っていたからでしょう──寝室へ運んでいきました。
     僕は帰った方がよいような気がしていました。ただ、まだ教授殿に尋ねられていない謎があります──あのハリボテのこと、僕を認識しなくなるという嘘、僕をひっぱたく検証。何より、教授殿が頭を打ったのは僕が押し倒したせいですから、責任をもって少しは看病するべきではないかとも思っていました。僕にだって良心はあるのです。
     迷っていると、マキナが一機僕のところへやって来ました。
    「ミスター・ショルメ。マスターが、あなたと話をしたいと言っています」
    「……叩きたい、ではなく?」
    「そのようなことは言っていませんでした」
     マキナに言わなかっただけとも考えられますが、折角の機会です。行くことにしましょう。
     僕が寝室へ入ると、教授殿は頭に氷枕を当てて仰向けになっていました。
     マキナが用意したのか、テーブルには電気ケトルとティーセット、何種かのティーバッグが乗っていました。淹れることまではしなかったのは、僕が紅茶を普段から自分で勝手に淹れるからでしょう。
     紅茶は後でゆっくり頂くことにして、僕は椅子を持って来て教授殿の腰辺りに置きました。そこへ座り、教授殿の顔を眺めました。教授殿も、僕の顔に目をやっているようでした。それから、ため息をつきました。
    「……その距離では、手が届きません。検証ができないならあなたに用はありませんので、帰ってください」
    「残念ながら、僕の方は検証ができなくとも用があるのです。教授殿の近頃の振る舞いに関して、いくつも謎がありますからね。まず──どうして先程は、あんな嘘をついたんですか? 僕を認識しなくなるなんて」
    「……その検証は済みましたし、質的データは得られました。よって、あなたに話すべきことはないと判断します」
    「それは、本当に『べき』で判断していることですか? 教授殿が話し『たくない』という感情で判断しているのでは?」
     黒い瞳が、幾度かぱちぱちと瞬きました。それから、青白い瞼がゆっくりと下りました。
    「……話だけでも、最後まで聞くことにしましょうか」
     どうも、と僕は帽子を被り直しました。
     ちょうど一週間前にも、こうして寝ている教授殿と話をしたのでしたね。あの時は、いくらも話をしないうちに追い出されてしまいました。鼻先と鼻先が触れ合いそうな距離で、「あなたにここにいてほしくない」と言われたことをよく覚えています。その言葉は墓碑銘のように刻まれ、その時の感情は楔のように打ち込まれているのですから。
     今日は、話したいことを全て話せるでしょうか。僕は、寛いでいるふうを装いながらも、少々肩が強張っていました。
    「これは僕の推論ですが──今からする僕たちの会話というのは、情報交換や感情の交信といったものよりは、『答え合わせ』に近いものになるのではありませんか?」
    「……そう考える根拠は?」
    「教授殿が僕の話を聞こうと言ったときの、前後の流れからです。教授殿は、さっき僕の言ったことが的外れな憶測ではなかったから、話を聞く価値があると思ったのではありませんか」
     教授殿は、目を閉じたまま僕の声を聞いていました。
    「そうですね……。それもあります」
    「他にも理由が?」
     枕の上で小さく頷いたので、氷枕が水っぽい音を立てました。
    「あなたは名探偵ですから、一つの論理が到達し得る多くの分岐、可能性を考えるはずです。それを、真偽で言えば偽が大半を占めるとしても聞きたかった」
     薄い胸を少し上下させて、教授殿はひとつ呼吸をしました。
    「……今回私が直面した現象は、これまでのデータや検証方法では分析し難いものでした。感情の変化を数値化するというのは、例えば汗や心拍といった生理的変化、あるいは脳波などを調べれば不可能ではないでしょう。ただ、あなたと話している間中ずっと、電極などを身に着けているわけにもいきませんからね」
    「感情の変化? 教授殿、その現象というのは?」
     教授殿の目が開きました。話し過ぎた、と言っているように見えました。
    「……黙秘します」
     ふむ、と僕は顎に手を当てました。
    「では、僕の推理を。僕が見た、教授殿がその現象に直面したと思しき場面は二回……いや、今日を含めて三回あります。一度目はちょうど一週間前、倒れてここで寝ていたとき。僕が来てバイタルが改善していてもいいじゃないですか、僕は気にしませんよ──と、僕が言ったときです。その直後に、教授殿は僕を帰らせましたね。覚えていますか?」
    「覚えています。ですが、何故その時だと?」
     僕は両手を組み合わせました。
    「何というか……。教授殿が言うところの、生理的な変化、でしょうね。教授殿の視線だとか、声の調子がいつもと違って感じられたのですよ」
    「どのように?」
     僕は、一瞬言葉に詰まりました。何と言えばいいのか分からなかったというよりは、何故かその時胸中にあった言葉を、口に出す勇気が出なかったのです。それで僕はその時は、曖昧に笑って誤魔化してしまいました。
    「……まあ、そう急がずに。それは、三回全てについて説明してからにしましょう」
     教授殿が薄目を開けてちらりと僕を見ましたが、またすぐ目を閉じました。白い睫毛は、鳥の産毛のようでした。
    「二度目は、昨日の深夜です。僕が置いて行った、大量のブルーベリーがありましたよね。あれはアメリカ土産という以外に特に意味はない、と僕が言ったとき、教授殿はやはり様子がいつもと違ったのですよ」
    「……三度目は?」
     血色のない唇が声を発し、僕を促しました。
    「三度目? 今日、ひっぱたかれた時ですよ」
     僕は、わざと不満げに言ってみせました。
    「傍へ来て顔を見せてほしいというから、遺言でも残すつもりかと思って、僕は真剣だったのに……ひどいですよ、僕の心を弄んだのですね」
    「弄んでいません。心にもないことを言わないでください。それに、遺言を遺すなら電子の書面として残します。あなたには言いません」
     教授殿の表情が、心なしかツンとしているようです。少し幼く見えました。真剣だったのは本当なのになあ。僕は、内心で苦笑しました。
    「……それでまあ、『ひっぱたく』という教授殿の行動やその時の言葉から、ひっぱたく意図はこうではないか、と一つ仮説を立てました。それを踏まえて、教授殿の謎に関する僕の推論はおおよそ正しいのではないか、と今の僕は思っているわけです」
    「その仮説とは?」
     僕は、組み合わせていた手を放しました。
    「……教授殿は……。僕にダメージを与える、つまり傷つけることで、最近の気分の変調が改善されると思ったのではありませんか? そして、何故そんなことをするのかと言えば──僕の振る舞いによって、教授殿が傷ついていたから」
     違いますか?
     青白い顔が少し横に傾き、僕がいる方とは反対の壁を見ていました。地下なので窓はありませんが、柔らかな白の壁紙が貼られていました。教授殿に視線を外されても、僕は焦ってはいませんでした。白い壁を黒板に見立てて、数式を書いて計算でもしているのかな、と想像するくらいには余裕がありました。
    「どうしても証明できないのです。エルロック・ショルメ──あなたが私の何であるのか」
     彼は依然、何もない白い壁の方を向いていました。証明不可能な数式や理論に出会った数学者は、こんなふうに──虚を見つめたくなるものなのでしょうか。それとも、僕という証明できない存在からいっとき、目を逸らしているだけなのでしょうか。
    「来るだけで私のバイタルを改善し、眩しい光でさえ平気にさせる。それを嫌がりもせずに、私を苛立たせる。私の出生した日にものを置いて行く。それなのに土産以外の意味がなく、私を腹立たしくさせる。──そうですね。私は、傷ついていたと言えるのでしょう。あなたに責があるというわけではない出来事で、怒りに分類される感情を喚起され、それを一人で持て余していたのですから」
     壁に文章を書き並べるように言ってから、彼はゆっくりと体をずらしてこちらを向きました。
    「私はあなたによって傷つき、感情の安定を欠いていた。ならば、逆のことを行えば──私があなたを傷つければ、私は安定を取り戻すのではないかと仮説を立てました。少々安直なものではありますが……AならばBである、AでないならばBでないというのは論理の基礎でもありますから」
    「でも、その仮説は偽だったでしょう?」
     嘘とハリボテで僕を心理的に傷つけても、顔を叩いて僕を身体的に傷つけても、安定というのは訪れなかったでしょう?
    「ええ。ですから、また異なる仮説や検証方法を考えなくてはなりません」
     教授殿は、天井を睨むように見上げながら話を結びました。
     僕も、世の大多数の人と異なる価値観や着眼点の持ち主だとは自覚しています。殺人事件は刺激的だ、等と言ったら、眉をひそめる人も多いでしょう。それでも、教授殿の煩悶が本質的に何であるのか、世の大多数の人が言うところの何という感情であるのか──おおよそ見当がつきました。だからと言って、それを教授殿に言おうとは思いません。多分彼は、自分で検証して得られた結果でなければ納得しませんから。そして恐らく、このときの僕は、その推論が正しかった場合に、それと向き合う勇気を持てずにいたのです。
     僕は、両手を広げてみせました。
    「『ホームズ』との関係に、あなたほど悩んだ『モリアーティ』というのは、歴史上存在したのでしょうかねえ」
    「さあ……私の親と、あなたの先代のことはよく知りません。……それに、あなたのことで私は、悩んでいるわけではありませんよ」
    「一方的な怒りの感情を持て余すことは、悩みの内に入らないのですか?」
    「検証方法の検討という悩みに比べれば、些末なことです。……ん?」
     僕がからかうように話しかけていると、教授殿は突然目を瞠りました。
     どうしました、と僕が尋ねる前に、教授殿はベッドの上に半身を起こしました。そして、マットレスの上で手を這わせて動かし、何かを探すような素振りをしました。
    「……またか。また、何も持ち込まずに来てしまったのですね」
    「ああ……、もしかして、教授殿はタブレット端末か何かをお探しですか?」
    「タブレットでなくともよいのです。紙と鉛筆でもいい。私は検証する前にもっと──分析、あるいは分解をすべきだったのです。素因数分解のレベルまで」
     教授殿は比喩と思っていないのでしょうが、学術的な用語での比喩を日常会話に訳すのには、少々慣れが要ります。僕は、最も慣れている人間の一人と自負していますけどね。
     む、と教授殿が唇を曲げました。
    「ですが分解というのは、どちらを分解すればよいのでしょう」
    「どちらって、何と何ですか?」
     教授殿が、ゆっくりと僕を見上げました。
    「私が持て余す感情の変化と、あなたそのものです」
     僕は内心の動揺を悟られないように、わざとらしく笑ってみせました。
    「おやおや、教授殿には外科手術の心得はないでしょう?」
    「ありませんよ。あなたそのものというか、あなたのパーソナリティと言うべきでした。あなたが原因で感情の変化が起きているわけですから、やはりあなたを分解、分析すべきなのでしょうか」
     視線をブランケットに落として、教授殿はじっと考え始めました。僕は──逃れるためではありませんが──紅茶を淹れに椅子を立ちました。
     電気ケトルに水を入れてから、ベッドの方を振り返ると、教授殿がこちらを見ていました。
    「……お湯を、二人分沸かして頂けませんか」
     僕が返事をする前に、教授殿は脚をくるりと回してベッドから下ろしました。僕は、黙ってケトルの水を少し増やしました。
     教授殿は、サンダルの足を引きずるように歩いて──これは頭を打ったからではなく、いつもこんな歩き方です──テーブルの方へ来ました。長方形のテーブルの長辺に僕が座っていたので、彼は短辺の方に座るものとばかり思っていました。しかし──。
    「……教授殿?」
    「何です?」
     それは、僕が「それで本当にいいのか」という視線を向けざるを得ない出来事でした。教授殿は、何の躊躇いも見せず、僕の隣の椅子に腰を下ろしたのです。
    「……安心してください、もう叩きはしません」
    「それは分かっていますが……。いつも、こんなに近くに座らないじゃないですか」
     教授殿は人の温度が苦手ですからね。それとも、僕のかっこいい顔を見に来たとか?
     冗談を口にして僕が空回りしても、教授殿はじっと僕を見つめるだけでした。無表情というよりは、何かに集中しているように見えました。
    「あなたを分解するためには、あなたを観察することがまず必要かと思いましたから。……」
     教授殿に見られている間に、お湯が沸きました。僕は、それを言い訳に立ち上がり、一旦教授殿から離れました。
     シンクの横には、小さな作業台がありました。まずマグカップにお湯を注ぎ、少しの間を置いてからティーバッグをすとん、と下ろしました。数秒ではありますが、マグカップを温めてからお茶を淹れるのを僕は好みました。濃い茶色の紅茶がひらひらとたなびくように抽出されるのを、僕は暫し眺めていました。
     教授殿が砂糖やミルクを入れるとは思えなかったので、僕はストレートのままテーブルへ持って行きました。少々居心地の悪さを感じながら、僕は座り直しました。
     教授殿は両手を、マグカップをくるむように添えました。
    「──恐ろしいですか? 分解されるのは」
    「分解、分解と言われると、言葉のイメージがありますからねえ。それに……」
     恐らく僕は、『ホームズ』の称号を継いで以来初めて、自分が「解き明かす対象」になっているんですよ──解き明かされる側、暴かれる側と言ってもよいでしょう。それも、データ分析にかけては、世界でも指折りの専門家である『モリアーティ』によって、です。教授殿は心理学やパーソナリティ心理学には然程お詳しいわけではないと思いますが、それでも数学や科学や工学や哲学など、あらゆる学問分野の分析方法で十分にやってのけるでしょう。それが全く恐ろしくないと言えば、嘘になります。
     そこまで言ってから紅茶を啜る僕のことも、教授殿はじっと見ていました。視線が僕の体表のどこを動いているか、分かりそうなほどです。
    「……それで、教授殿。そうして見ていて何かデータは得られそうなのですか?」
    「目視からのデータは、例えばあなたが少々緊張しているとか、その程度です。ただ、あなたの話について気になることがあります」
    「それは?」
     教授殿が、視線を壁に向けました。
    「……自分が何者か分からない、だから知りたいという願いを持つ人はたくさんいます。特に、若い世代で多くなると──アイデンティティ・クライシスというものでしょうか。だから、非科学的な心理テストや心理学の分析などに頼りたくなる。あなたも、年齢としては十分若い。ただ、あなたの場合は『名探偵ホームズ』となることで自我を定義している。だから、アイデンティティそのものはさして揺らいでいないはずなのです」
     それなのに何故、パーソナリティを分解されることを恐れるのか、ですか?
    「ええ。私には、それに関する仮説が一つあります。──分解するのがこの『ヴィクター・モリアーティ』であるから、です」
     僕は、ティーカップを置きました。
    「それは先程も言った通りですよ。教授殿はデータ分析の専門家でいらっしゃるから、当たり前で……」
    「私個人がどう、というのではありません」
     教授殿は、少し身を乗り出して僕を見つめました。僕は、いきなり距離を詰められて少々緊張していました。
    「あなたにとって私が何なのか、それが重要なのです。あなたはもう、それについて証明を終えているはず。そして、その証明内容と、分析されることへの恐れは繋がっているはずなのです。あなたにとってヴィクター・モリアーティはXである、Xはあなたにとって恐れるべきものである。よってヴィクター・モリアーティはあなたにとって恐れるべき存在である。簡単な三段論法です」
     僕にとって教授殿が何であるか、僕はその証明を既に終えている──ですって?
     ティーカップを持とうとして、指が震えているのに気付いてやめました。震えは、教授殿に見えたでしょうか。
     ──侵入者排除プランA、実行します。
     ──あなたに、これ以上ここにいてほしくありません。
     ──それ以上の……それ以外の意図はない、と?
     僕は、思い出していました。教授殿の、内側で揺らぐものを抑えつけたような声。尖っていながら何かを乞うような黒い瞳。それらは恐らく、教授殿が傷ついたときの言外のサインだったのです。
     証明は完全ではありません。僕は、他者と異なる価値観の持ち主ではあっても、さすがに自分の感性を疑わざるを得ないからです──僕の言動で傷つく教授殿に魅入られているという感性を。教授殿に傷ついてほしい、傷つけたいとは露ほども思わないけれど、僕のことで傷ついた教授殿は妖しく美しいと感じるのです。普段、感情表現に乏しく、人間そのものに興味が薄そうに見えるからでしょうか。だから、自分が特別のように思えて嬉しくなっている?
     こうして自分を疑っているから、いつまでも「よってヴィクター・モリアーティはエルロック・ショルメにとってXである」と定義できずにいるのです。それは、完全な証明とは言えません。証明終了、とは書けないのです。
    「……残念ながら、証明は完全ではありません。僕にとって教授殿が何であるのか、もはっきりと定義するには至っていないんですよ」
    「途中までは証明できていると?」
    「できていますが……『黙秘します』」
     僕が教授殿を真似て言うと、教授殿はむっとしたように眉を寄せました。何だか、顔のパーツが真ん中に集まったようですね。
    「代わりの提案があるのですよ」
    「提案?」
    「ええ──僕は、『教授殿にとって僕は何であるのか』を推理する。教授殿は、『僕にとって教授殿は何であるのか』を分析する。それで、早く結論に辿り着いた方の勝ちです」
     教授殿は、ぱっと少し目を瞠ってから、二、三度瞬きをしました。それから、ふと口元を和ませました。
    「互いが互いの何であるのかを、より深く探求するのですか。『ホームズ』と『モリアーティ』の対決にしては、随分と平和ですね」
    「ええ、滝壺に落ちる必要もありません」
     まあ、「ライヘンバッハ」を組織の名前にしている時点で、教授殿は常に滝にいるようなものであるような気もしますが、それはさておき。
    「あ……ふむ、なるほど」
     教授殿が、何かに気が付いたように頷きました。
    「何ですか?」
    「今、そうしてヘラヘラしているあなたを見て、比較がしやすくなったのです。先程、証明について尋ねたときのあなたは、かなり深刻な顔をしていました。あなたでもそんな顔をするのか、と思うくらい」
     僕は、大袈裟に両手を広げてみせました。
    「ヘラヘラだなんて。僕だって、深刻な顔をすることくらいありますよ。探偵事務所の家賃をかき集めたり、事務所経営の資金繰りに悩んだりとか」
    「経理のプロを雇うか、人工知能に任せては?」
    「えっ? 作ってくれるということですか?」
    「そんなわけないでしょう」
     なあんだ、と落胆してみせる僕に、教授殿は穏やかにため息をついてみせました。
    「研究すべきものがまた増えましたからね。些末なことに割いているリソースはないんです」
    「僕のことを研究するのに、僕に割くリソースがないというのはおかしくありませんか?」
    「ありません」
    「矛盾では?」
    「矛盾しません。あなたなら分かるでしょう」
     分からないなあ、証明してみせてくださいよ──ふざけながら、僕は内心で胸を撫で下ろしていました。僕の証明を完成させるべき時は、今少し先になるでしょう。それとも、僕より前に教授殿が完成させてしまうでしょうか。僕のことで傷ついた教授殿に魅入られている、という論理の分岐を教授殿自身が見つけるのかどうか。楽しみであるような、やはり恐ろしいような、複雑な気持ちです。
     それよりも、僕も教授殿にとって僕が何なのかを思考し、証明しなくてはなりません。こうしてペンを走らせながらも、僕は笑顔になってしまいます。何しろ、教授殿について知り、考える許可を、教授殿本人から取り付けたようなものですからね。ある程度の推理は完成していますが、もう少し分岐を考えてみましょうか。
     長い日記になりました。眠いですし、そろそろ終わりたいと思います。教授殿も、ちゃんと眠っていますように。よい研究はよい睡眠、よい食事からです。おやすみなさい──親愛なる教授殿。
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    MEMOうちのエルモリをサルベージ教授にとって扱いやすい相手っているのかな……
    「多分ヘルちゃはだいぶ扱いやすい相手だったんだろうなと思う」というのと「自分の中で描いた相手の人物像と相手自身の自己意識の齟齬の程度が扱いやすさ・扱いにくさと感じられる要素なのではないか、齟齬が大きいほど扱いにくいのではないか」みたいなことを思いながらも文章がまとまらねえ
    齟齬が何たらというのは例えば、教授はエルロックのことを「彼はAな性格だからBの言動をすると思われるのでCという対応をしよう」と思ったけどエルロックは「僕はXという性格なのでYという言動をします」と来るから教授とエルロックの間でエルロックに関する解釈違いが起こってるみたいなそういう
    エルロックの場合さらに「僕はAな性格だからBという言動が来ると予測してCという対応をしようと思ったでしょう?残念!!!僕はXな性格でもあるのでYという言動をします!!!!!!」って感じで来るから教授は「解釈違い地雷です」ってブロックする
    🔎⚗️🔎⚗️🔎⚗️🔎⚗️🔎⚗️🔎⚗️

    探偵「害虫の定義が恣意的に過ぎませんか!? ああ嘆かわしい、僕が何の害を及ぼしたというのです」
    教授「どうせ 1820

    まろんじ

    DOODLE【エルモリ】ヴィクター・モリアーティ観察日記 ハロウィンの日 教授視点10月31日

     まだこんなものを書いているのですか。
     これで何冊目になるのです? この行為に何の意義があるのですか?
     私の様子を書き留めることがそんなに刺激的なのですか? では、私が私の様子を書き留めれば同様の刺激を得られますか? そのような刺激は決して得たくなどありませんが。
     ともかく、ハロウィンに研究所へ菓子をねだりに来るのはやめろと言ったはずです。名探偵を自称する貴方の記憶力でも忘れる可能性もあるかと思い、こうして貴方の日記とやらに苦情を書き残しておくことにしました。必ず目を通しておくように。さもなくば、私のマキナがこの日記帳を哀れな姿にします。貴方本人を哀れな姿にしないのは最後の慈悲です。
     毎年貴方へのハロウィン対策をしては、それをすり抜けられる身にもなってください。今年は、菓子を与えつつ体の動きを奪おうと、天井を開いて頭上から菓子を大量に降らせるように研究所を改造工事しました。これでしばらくは動けまいと菓子の山から背を向けようとしたら、何かが動くのが見えたのです。
     焦げ茶色の傘が、大きなきのこのようにニョキ、と山から頭を出していました。傘の下から覗いた顔の、満足そ 1144

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    まろんじ

    DOODLE【エルモリ】ヴィクター・モリアーティ観察日記 ハロウィンの日 教授視点10月31日

     まだこんなものを書いているのですか。
     これで何冊目になるのです? この行為に何の意義があるのですか?
     私の様子を書き留めることがそんなに刺激的なのですか? では、私が私の様子を書き留めれば同様の刺激を得られますか? そのような刺激は決して得たくなどありませんが。
     ともかく、ハロウィンに研究所へ菓子をねだりに来るのはやめろと言ったはずです。名探偵を自称する貴方の記憶力でも忘れる可能性もあるかと思い、こうして貴方の日記とやらに苦情を書き残しておくことにしました。必ず目を通しておくように。さもなくば、私のマキナがこの日記帳を哀れな姿にします。貴方本人を哀れな姿にしないのは最後の慈悲です。
     毎年貴方へのハロウィン対策をしては、それをすり抜けられる身にもなってください。今年は、菓子を与えつつ体の動きを奪おうと、天井を開いて頭上から菓子を大量に降らせるように研究所を改造工事しました。これでしばらくは動けまいと菓子の山から背を向けようとしたら、何かが動くのが見えたのです。
     焦げ茶色の傘が、大きなきのこのようにニョキ、と山から頭を出していました。傘の下から覗いた顔の、満足そ 1144