フィガ晶♂SS学パロバレンタイン 落ち着かない気持ちで午前の授業を終えた、バレンタイン当日。賑やかな教室。鞄の中の弁当箱と、もうひとつの包みを見比べ、晶は観念して後者を手に取った。
洒落たパッケージに華を添えるリボン。露骨なデザインが友人たちの目に触れないよう、ブレザーの内側に隠して、向かった先は保健室だ。
心のなかで平常心と唱えているうちに、 ノックの力加減すら分からなくなって、部屋の前でみっともなく深呼吸をした。ドアを叩くと、すぐに返事がくる。
「どうぞ」
「……失礼します」
声に心臓の鼓動が乗らないよう気を張った。机に向かっていた先生が、事務椅子にかけたままこちらを振り向く。
「ああ、いらっしゃい」
怪我も病気もない身でこの部屋を訪ねるのは、あまり褒められたことではないかもしれない。ただ、来訪者の顔が分かると僅かばかり柔らかくなる彼の表情が、いつも晶を自惚れさせた。
どうしたの、と優しく尋ねられ言葉に詰まる。ここまで来たらもう後戻りをする選択肢はない。部屋に他の生徒がいないことを確認して、用意してしまったチョコを差し出した。
沢山悩んだんです。授業中も、家に帰っても、 夢の中までも。先生のことで頭をいっぱいにして。先生に喜んでほしくて。
──なんて、そんなこと言えるはずもなく。
「これ、良かったら。日頃の感謝の気持ちです」
気取らず、気取らせないように。頭の中で何度も反芻した台詞だ。
「ええ、いいの? ありがとう」
先生の手にチョコを預ける。お互いの指先がほんの少し触れ合って、それだけで堪らなかった。
お礼にココアでもいれようか、という嬉しい誘いは断った。顔が上げられなくて、このままではボロが出そうだった。昼食がまだだから、と適当な理由をつけて早々に引き上げる。本当は、胸がいっぱいで、昼食の入る余裕なんて見つからなかったけれど。
普段通りに話せた、と思う。何も指摘されなかった。先生も素直に受け取ってくれたし。
でもそれって、つまり、意識もされていないということで──。
途端に、廊下の寒さが染み入る。遠くにあったはずの喧騒が、今度はやけに耳につく。
勝手な淡い期待が、浮ついていた気持ちが、だんだん温度を失っていき、教室に戻る頃には、晶はすっかり意気消沈していた。
「どうしたの晶、 元気ないじゃん」
窓側の席に辿り着くより先に、晶に声をかけたのは、 同じクラスの女子生徒だった。特に親しい仲でもないけれど、彼女は誰にでも気兼ねなく声をかけていく明るい性格の持ち主だった。向かいには彼女の親友もいて、二人の挟む机の上には、辛うじて昼食と呼べそうな菓子パンの袋と一緒に、チョコレートのパッケージがいくつも鮮やかに並んでいる。
晶の視線の先を追って、女子生徒たちは合点がいったとばかりに同情の声を上げた。
「あーね、 わかったわかった」
「大丈夫、貰えない男子なんていっぱい居るじゃん」
「えっ、いや……」
否定することも出来ずに晶は口ごもる。しょぼくれる原因は近いところにあったが、自分が渡す側なのだと漏らしてしまえば、きっと予鈴が鳴っても開放してもらえない。
「まあ、甘いものでも食べて元気だしなよ」
「沢山あるからお裾分けしたげる」
「来月は期待してるからね」
テンポよく続く会話に流されながら、近くの空席から引き寄せられた椅子に、促されるまま腰を下ろす。
「どれがいい?」
「これ美味しかったよ」
磨かれた爪が光る華奢な指先が叩いたのは、いやに見覚えのあるパッケージだった。人気ブランドの、そこそこ値を張る逸品。
「いいの? 友達にあげるために用意したんじゃ……」
「まさかあ! こんないいチョコ、自分用か本命にしか買わないよ」
「そ、そっか……」
差し出されたチョコの箱は、つい先程、日頃のお礼と言って渡したそれと同じデザインだ。
社会人の基準が高校生と違うことを祈りながら、お礼を言って、並んだボンボンショコラのひと粒を摘む。口の中でとろけるガナッシュを味わいながら、そういえばさあ、と話し出した女子生徒の声に耳を傾ける。
「今朝、フィガロにチョコ渡しに行ったんだけどね」
「……えっ!?」
口の中に満ちる幸せの味に浸っていた晶は、 突然挙げられた養護教諭の名前に驚いて、思わず声を上げた。
そうか……。それは、そうだ。すこし考えてみれば、驚くような話でもない。彼が魅力的な人だということは、晶自身がよく知っていた。
自分のようなバレンタインと無縁な人生を送っているわけがないのだと気を落とす。たくさんのチョコが贈られてきたのだろう。俺のチョコなんて、きっと埋もれてしまうほど。
「あ、言っとくけどアタシのは義理だかんね」
晶の心情を知ってかしらでか、薄く色の乗った唇から笑い声がこぼれた。机の端に寄せられていたコンビニのチョコ菓子が指される。
なるほど、これは誰が見ても義理だと分かる。期待しない、期待させない。来年はこういうチョコを選ぶべきなのか。感傷に浸る晶を他所に、女子生徒は話を続ける。
「例の噂が本当か確かめてみたくてさ」
「ガチっぽいよねえ。隣のクラスの子も、三年の先輩も断られたって」
「……噂?」
晶が首を傾げると、上向きの長いまつ毛が瞬いた。
「あれ、 晶は知らないの?」
「へえ、あんなに仲良いのに」
「えっと……?」
話に追いついていない晶を見て、女子生徒はふーん、と声を揃えた。ふたりの間で交わされたアイコンタクトの意味は、晶にはさっぱり検討がつかない。
あのね、と潜められた甘いソプラノは、これからとっておきの話をするという合図だ。
「あいつ、バレンタインに贈られるもの、ぜんぶ受け取り拒否してるんだって」
「好きな人からのチョコしか受け取らない主義らしいよ」
「なんて言ってたっけ、確か──」
「勘違いさせたら悪いじゃない」
頬をほてらせて保健室に駆け込んだ晶に、ココアを用意しながら、養護教諭はあっけらかんと仔細を話した。
自分がそこそこモテること。毎年バレンタインの贈り物は全て同じ文句で断っていること。
今年は晶からのチョコしか受け取っていないこと。
とっくに呼吸は整っているのに、晶の頬に差した朱がひく様子はない。
「俺だって、勘違いしちゃいますよ……!」
「へえ、いいね。どんな風に?」
他の生徒には内緒だよ。と、常套句と共に置かれるマグカップ。ゆるい猫の顔が描かれたそれが、自分だけのために用意されているものだと晶はしらない。手を出さずにいるのだから、これくらいの贔屓は許されて然るべきだろう。
「あの、 先生……さっき渡したチョコ、やっぱり返してください」
「どうして?」
「日頃の感謝だなんて言って、 勘違いさせたままなのは、嫌なので……。やり直しさせてください」
ああ、そう。このいじらしさが堪らないのだ。
「......いいよ」
男は機嫌が良かった。想い人の鈍さにも、いい加減焦れてきた頃だったのだ。
隠しきれない恋心を瞳に宿し、必死に取り繕っている姿も、もちろん可愛かったけれど。 好きな子が自分を想って顔を赤くしている様子に、年甲斐もなく胸が高鳴る。あまりいい思い出のないイベントに、今回ばかりは感謝した。
「勘違いかどうか、確かめてごらん」
(この養護教諭は絶対在学中に付き合ってくれないし、なんならこのあと、 晶くんがいくら想いを伝えてもはぐらかして終わる)