確か、その日は合唱部の面々に自主練習をさせて、自分は吹奏楽部で合わせをしていた日だ。部員数の少ない合唱部の練習は、吹奏楽部の練習室である音楽室のすぐ隣、狭い音楽準備室で行われている。こちらで楽器を鳴り響かせない限りは隣から声が筒抜けで聞こえてくるから、サボっていたり、なにか他のことをしていたりするものならすぐにわかる。
合唱部員でピアノをしっかり弾けるのは私だけで、他は発声練習のためにある程度弾けるか弾けないか。だから、突然隣の部屋から精巧なピアノの音が聞こえてきたときにはひどく動揺してしまった。顧問が来るにもまだ時間が早すぎる。指揮をとっていた吹奏楽部員に断って、なおも続く美しい音色に導かれ部室の扉を開ける。調律のなっていない楽器で、ここまでの音楽を奏でられるのは。
「わお、ソナタ先輩」
検討はついていたが、やはり彼がそこに座っていた。
「ん、みー吹部行ってたの」
顧問からも準部員と認められるソナタ先輩は、いつも突然部室にやってきて、突然発声指導をしたり、伴奏したりして、突然部屋を後にする。今は退室する様子はない。
「部長に捨てられた可哀想な部員だと思ってたのに」
同意を求めて側の部員を引き寄せるが、彼女はあまり先輩のノリについていけていない。苦笑しつつ答える。
「今日は合わせなのでね、少々席を外させてもらってますが」
若干引き気味だった部員を解放し、またピアノに向かって指を動かす。
「そう。じゃあ、アリアにも頑張れって言ってくれない?」
了解し、音楽室への扉に手をかけてからひとつ思い出す。
「でも先輩、今日生徒会の会議じゃありませんでした?」
吹奏楽部の方にも役員が何人かいて、今日はことごとく休んでいる。私は二年なので関係はないが、現役の学芸委員長の彼はここにいてはまずいのではないか。
「だって、本当進まないんだもん。僕がいても無駄」
彼は不貞腐れて頬を膨らませる。綺麗な顔が台無しだ。少し息をつく。
「それなら仕方ありませんね。良いときまで遊んでってくださいな。今日は先生も遅れるそうなのでね」
私のことばを聞いた途端、彼はにっと笑ってハ長調のスケールを弾く。上のレの音は鍵盤が壊れていて音が出ないはずなのに、どうしてかソナタ先輩が鳴らせばその音が聞こえる。
「助かる。暇つぶしてくね」
まあ、彼が楽しいならそれで良いんじゃなかろうか。困惑した表情を浮かべる一年をそのままに、音楽室へ戻ることにした。