怪異に巻き込まれる勇者達の話 1 この村はおかしい。そう確信したのは夕食の後だった。
招かれた屋敷で夕食を出してくれるのかと思っていたら、村の中心にある公会堂へ連れて行かれた。公会堂に入ると数え切れないほどの靴が置かれていて、何やら奥から大勢の男達らしき声が聞こえてきた。
「客人が来ると村人総出で歓迎するのがシキタリなのです」
シキタリ、という語に当てはまる漢字はあるのかとふと考えてしまうほどに、この村に来てから何かとその言葉を聞いた。「村に来た者は全員この屋敷に泊めるシキタリなのです」「黄昏時を過ぎてからは村から出てはいけないシキタリがあるのです」過疎化真っ只中の山奥の村にはこういったシキタリと呼ばれるルールが存在するとは聞いたことがある。実際、かなりの田舎の村落出身のトワに聞くと村にだけ伝わる習慣などがあるようだった。今どきナンセンスだな、とブレは感じるが、こういったものは余所者に否定されることにとても敏感だ。郷に入っては郷に従え、とむかしの人はよく言ったものである。あえて反抗することもないだろう、とブレは不可解さを感じながらも黙っていたし、皆も特段異を唱えなかった。今思えば、皆口にすることの危険さを本能的に感じ取っていたのだろう。ざらりとした何かが体にまとわりつく奇妙な感覚を受けたのはブレだけではなかったようだ。
「やっぱりこの村、怪しくねえ?」
夕食を終え屋敷に戻り、一番大きな時の部屋に集まった時、トワがはじめに言い出した。それを呼応するように、空が「僕もそう思う。何かヘンだよこの村」と心底おびえた顔をして続けた。ホラー物が苦手な空は、夕方頃からよく挙動不審にキョロキョロと周りを見渡している。風もないのにざわめく竹藪に悲鳴をあげ、誰もいないはずの古びたバス停──バスは一日に往復一本ずつしかない──を見て「今そこの脇におばあさんが座ってたのに消えた」とトワの腕に抱きつき震え、公会堂には行きたくないと喚いていた。ブレにもトワにも時にも感じないものを感じている空に、なぜよりによって一番怖がりの空ばかり…とブレは憔悴しきった空に同情した。
「晩飯のあれ何だったんだよ」
「歓迎すると言っていたのにみんな無言で食べていたな」
「食べ始めたら喋っちゃいけないって意味わかんねえ」
トワと時の会話に空がコクコクと首を振る。
「誰も顔をあげないしご飯の味全然わかんなかったよ…」
公会堂には村中の男が集まっていたらしく、襖で閉め切られた大広間には所狭しと長机が並べられていた。子どもや女性の姿はなく、成人男性のみが集められていたのだろう。若い男はおらず皆中年以上のようで、村ではかなり過疎化が進んでいるのだろうと察せられた。
村人達の下世話な話題の入り混じる雑談に耳を傾けていると、ガラリと襖が開けられる音がした。一斉に村人達が静まりかえる。シン…とした無音に、思わずブレ達も口をつぐんだ。襖の向こうから、白い昔ながらの割烹着を着た女達が膳を運び入ってきた。女性は集まっていないのではなく、給仕を任されているがために大広間にはいなかったのだとその時理解した。女達は一言も喋らず、そつのない所作で全員分の膳を並べていく。カチャカチャといった皿の音はせず、膳を置く時も全く音がしない。あまりにも静かなのである。季節柄外から虫の声でも聞こえてこようものなのに、それすらない。無音に耐えられなくなったのか、トワが足を組み直した。ブレにはその衣擦れの音がひどく大きく感じられた。
目の前に置かれた膳には、ごくありふれたハレの日に見るような献立が並んでいた。山の中らしく、野菜や山菜そして鶏肉や豚肉らしき肉。海は遠いからか刺身はない。質素ながら手の込んだ膳に何かしら感想を述べたいものだが、言い出せる空気ではなくブレは男達が手を合わせ一礼するのに合わせて心の中でいただきますと唱えた。チラと横を見れば三人も同じ動作をしている。神妙な顔付きで長い指をきちんと揃えて合わせている時、こういう時に真っ先に食べたがるくせにどういうわけか眉間に皺を寄せてなかなか箸を持とうとしないトワ、眉を八の字に下げてコップに注がれた茶を飲み干す空。それぞれに話しかけたくとも、無音の時は継続したままである。男達は皆、俯いたまま体勢も変えぬままにただ箸で飯を口に運んでいる。これは一体何なのだろう、とブレは麩の浮いた味噌汁を喉の奥に流し込んだ。
「あれ、食べちゃいけねえモノだったんじゃねえかな」
大きな体を猫背に曲げて、夕飯の時に見せた表情でトワが呟いた。
「そういえばトワ、なかなか箸をつけなかったね」
ブレの言葉に空が「僕トワの向かいにいたからずっと見てたけど、じーっとご飯を見つめてたよね?」と続ける。
「だってよ、作り物みてえだったんだよアレ。精巧に作られたCGみたいな見た目でさ、ホントに今作ってきたのか?ていうくらい違和感があったんだよ」
「そこまで見てなかった。俺には普通の美味しそうな料理に見えたから」
「時は平然と食べてたね」
「ブレお前はどう感じた?」
トワにいきなり振られて、ブレは膳の内容を思い返した。トワの言う『作り物』には見えなかったのでそう返すと、「ブレにもわかんなかったのかよ」と期待した答えを得られなかったからだろう軽い舌打ちと共に短く吐き捨てられた。
「俺さ、こういうの敏感なんだよ。イヤな空気っての?皮膚が粟立つ感じ。ぞわぞわしてさ、食っちゃいけねえって俺の中の俺が警告してきたけど、食わずにいられる雰囲気じゃねえから食ったけどさ…」
トワの警告が真実であっても、あの場では料理を残すという選択肢は用意されていなかった。男達は食べ終えると、じぃと四人の座る机に視線を向けた。食べ終えるまで逸らしてくれなさそうなその視線の居心地悪さと気味悪さに、ブレは全ての鉢の中のものを味噌汁で胃に流し込んだ。
「…異界のものを食べたら元の世界に戻れない、というのはよくある話だな」
時の言葉にトワが頷く。時は読書が趣味の一つなので、昔話や伝承、神話にも詳しい。時とトワだけで意思疎通が出来ていることに自分だけ混ざれないのが不安なのか、空が「どういうこと?」と二人の視線に割って入った。
「黄泉戸喫って聞いたことあるか?空」
「ヨモツヘグイ?何それ」
「黄泉の…あの世のものを食べたら生きてる世界に戻れなくなるという話だよ。古事記に出てくる」
「コジキって?」
古事記が何かわかっていない空に、ブレは思わず「学校で習っただろ」と口を挟んだ。この感じだと有名なはずのイザナギとイザナミの話もよく覚えてないだろう。
「興味ないことは覚えてないよ〜」
「どうせ授業中寝てたからだろ」
「う…寝てたけどさぁ」
時が空に苦笑いを浮かべている。トワが「俺だって知ってるぞ古事記くらい!」と得意顔を決めている。重苦しい空気が和らいで、四人は笑い合った。
「…てことは、僕たちもうこの村から出られないってこと?」
笑い合ったのも束の間、空が突然正気に戻って青ざめはじめた。怖がりだからこそ、すぐに思考が悪い方へ向かう。
「そういう伝承が世の中にはあるというだけで、そうと決まっているものじゃない」
だから安心しろ、という時の言葉は空を励ましているつもりなのだろうが、あまりに虚しく床へと落ちてゆく。畳張りの和室は年月を感じさせ、この屋敷が相当昔からあったことを想起させる。
「すまねえ空、怖がらせた」
「トワ、自分の勘を謝る必要はないよ。トワの勘が役に立つかもしれない」
「…ならいいけどよ」
トワの呟きを最後に、しばらく沈黙が続く。誰もが今同じ想像を巡らせているのだろう。現実的なブレ自身でさえ、部屋にわずかに漂う異質な歪みに少し息苦しさを覚える。何がどうおかしいのか言語化は出来ない。しかし何かがおかしいということは確実である。ここは本当はこの世ではなくすでにあの世で、自分達はもう死んでいて魂だけの存在なのではないか…と非現実的なことをふと考え、すぐに脳裏から消した。
このままでは良くない。ブレはどうにかこの空気を打開しようと、「おれの部屋の菓子取ってくるよ」と立ち上がった。それとほぼ同時に、廊下へと繋がる障子がガラリと開かれた。空が悲鳴を上げてトワに抱きつく。トワも突然のことを驚いたようで、二人は雑貨屋のぬいぐるみコーナーに置かれている抱き合った動物のぬいぐるみのように互いの肩を抱きしめ合った。それも束の間、ハッと正気に戻ったトワが「おい離れろよ」と鬱陶しそうに空を引き剥がした。
「失礼致します」
廊下にちょこんと正座をし、深々と頭を下げるのはこの屋敷に住んでいるという少女だ。白地に薄水色で花の刺繍が施された清楚な着物に、眉で切り揃えられた艶やかな日本髪。いかにも古い日本家屋に似つかわしいいでたちから覗く手首には、赤い紐で括られた小さな鈴が巻き付いていた。
「驚かせてしまったようで、申し訳ございません」
詫びて頭を上げるのと合わせて、鈴がちりんと鳴る。鈴は少女が動くたびにちりんちりんと小さく音を立てる。この村に来て最初にあった村人がこの少女で、屋敷まで案内する間も、屋敷から公会堂へ案内する間にも、歩くたびに鈴が鳴っていた。
「奈備さん、どうしたんですか?」
時に奈備と呼ばれた少女が、時に視線を合わせる。顔だけを動かしたからか、鈴は鳴らなかった。
「あと半刻ほどで屋敷の灯りを全て消させていただきます。それ以降は、何があってもご自分のお部屋から出ないでください。それがシキタリでございます」
「何故です?」
「シキタリだからでございます」
またシキタリかよ、とトワが苛立った声で呟いた。無理もない。この村に来てから何度もこの少女から同じことを言われている。そして、理由は聞いても「シキタリだから」の一点張り。はじめの方は地方独特の風習のようなものかと不可解ながらも受け入れていたブレも、さすがにまた言われると不可解どころではない。この村には何かある、とそれは確信へと変わっていく。そして自分達はそれを巻き込まれてしまったのだとも。
「……トイレに行きたくなったらどうするの?」
部屋にトイレないんだし、と空が問いかける。トイレと洗面所は廊下の突き当たりを曲がったところで、部屋から出ないと辿り着けない。夜中に用を足したくなっても出てはいけないのだろうか。ごく当たり前の疑問に、少女は「ですから今のうちに済ませておいてください」とあっさり返してきた。
「ええ〜…困るよ」
「申し訳ありませんがお従いください」
「シキタリだから、ってことかよ」
「はい」
これ以上何も言うことはない、と言わんばかりのきっぱりとした終止符に、四人は顔を見合わせた。誰がどう聞いても何も答えてはくれないだろう。時が口元に手を当てて何やら考えはじめたが、その間に少女はスッと障子を閉めて視界から消えた。
「……時、考えまとまった?」
「やはりこの村は……」
「なぁ、」
「どうしたの?トワ」
時の言葉を遮るように狼狽した声を出すトワの方を見ると、キリッとしているはずの眉を情けなく下げて泣きそうな目でブレを見つめてきた。
「鈴の音…しなかったよな?」
三人がハッとして障子を、先程開けられた箇所を見た。障子はもちろん閉まっているし、少女の気配もどこにもない。
「しなかったんだよ。あんだけチリチリ鳴ってる鈴がさ、障子閉めた後全然しなかったんだよ」
トワの顔が半泣きどころか今すぐ泣きそうになっている。そういえば、障子が開けられるまでも鈴の音はしなかった。あの障子は突然開いたのだ。
「開ける時も、鈴の音はしてなかったような…おれ達が気付かなかっただけかもしれないけど」
「さすがに気付くだろうが」
「ね、ねぇ、障子の向こうにまだいるんじゃないかな?!僕達の話聞いてるとか!だったら音がしなくても説明つくよね?!」
開けてみてよ、と空が震えながら障子を指差した。自分が開ける気はないらしく、三人に順番に視線を送っている。
「いないと思うけど……」
ブレが立ち上がると、空がトワの後ろにサッと隠れた。時はあまり怖がってはいないようで、「気配は感じないがな」と淡々としている。こういう時は恐る恐る開けるより一気に開けた方がいい。ブレは障子に手をかけると、勢いよく開け放った。
「……」
「……いない?」
「いないな」
廊下に顔を覗かせて、左右を確認する。廊下に点々と置かれた行灯の明かりだけがほのかに存在を主張するだけで、少女の存在はどこにも見当たらない。
「じゃあ何で鈴の音がしなかったの?」
「おれに聞かれてもわかんないよ」
障子を閉めて、部屋の中に向き直る。空は相変わらずトワの背中にくっついたままで、トワも「離れろ」と空を邪険にすることもなくくっつかせたままだ。
「とにかく、今のうちにトイレ行っておこう」
夜中に行けないシキタリなんだし、とブレは三人に促した。廊下に出たくないと怯える空だが、一人だけ部屋に残されるのはもっと怖いからとトワの腕に自分の腕を絡めつかせてついてきた。「歩きづらいから離れろよ」とトワが何度か腕を振ろうとするも、空の腕はびくともしていなかった。
ぎし…と軋む廊下を通り抜けて曲がると、ノブのついたドアがあり上に「お手洗い」と札がかけられていた。電気のスイッチはすぐそばにあったので、見つけた時がすぐに入れる。チカチカ、と何度か瞬いてからついた蛍光灯は年代を感じさせる。紅葉の彫りの入った窓ガラスもまた雰囲気に一役買っている。
それぞれ手早く用を済ませ、ついでに洗面所で顔を洗い歯を磨いた。もうじき部屋から出られなくなるのだから、今のうちに済ませておかなければならない。これがホラー映画なら鏡に髪の長い女でも写るのだろうな…と思いながらブレは鏡を見つめたが、鏡には何も写らなかった。
「戻ろう。もうすぐ灯りが消される」
時が「置いてかないでよ!」と焦る空の道具を自分の持参したカゴにまとめて入れてやっている。こういう時さりげなく他人のフォローが出来る時は頼もしい。普段のぽやんとした天然な雰囲気は、村に来てからずっと消えている。この中でしっかりしなきゃいけないのはおれと時だな…と気を引き締めながら、ブレは行灯の並んでいる間隔を歩幅で測りながら自分の部屋へと戻った。三人も一旦自分にあてがわれた部屋に入る。それぞれの部屋は襖で仕切られているだけで繋がっているので、寝る支度をしたら布団を持って時の部屋へ集合することを洗面所で決めた。一人で寝るのは危険だし、何より特に空を一人にしておけない。自分の部屋から出るなとは言われたが、襖で繋がっているのだからそれぞれの部屋の行き来は許されるだろう。ブレは畳の上に用意されていた浴衣に着替え、布団を抱えて足で襖を開けた。
四人での旅行は久しぶりだった。
卒業してからそれぞれ違う職業につき、会える時間もかなり減った。月に一度集まれるかどうかな中で、自然と話題は毎年夏休みに計画していた旅行の話になった。社会人となった今では夏休みは数日しか取れないものの、何とか皆で予定を合わせて、二日間なら擦り合わせることが出来た。そうなるともう気分は旅先で、さてどこに行こう、あそこがいい、と久々に食べるトワの手料理に舌鼓を打ちながら学生に戻ったように話に花を咲かせたのだった。
温泉宿でのんびりするのはどうだろう。いっそテーマパークではしゃぐのもいいんじゃないか。キャンプでバーベキューしよう。あれこれとプランは無限に湧き出て、すんなりとは決まらない。それでも、いつの間にか意見が集約されていくのが四人の常だった。今回もはじめは皆バラバラなことを主張していたものの、しばらく話しているうちに山奥にある秘湯の宿を訪ねようということにまとまった。スマホが圏外になったら仕事の連絡がつかなくなるから困る、と大真面目に言うブレには、三人が「旅行に仕事を持ち込むな」と即座に突っ込んでいた。
山奥にある秘湯はもちろん公共交通機関がない。バスがあるらしいとは旅行雑誌やクチコミに書いてあったものの、一日に数本しかないとなると利用しにくい。レンタカーを借りて行くことに決めた。運転免許は全員持っている。しかしまともに運転というものを日常しているのはバイク通勤をしているブレと農協の公用車を使うことの多いトワで、時と空は普段全く運転をしない。基本的にトワに運転させればいいんじゃない?と自分にお鉢が回ってこないのをいいことに軽口を叩く空に、それもそうだなとあとの二人が同意したためトワからツッコミを受けるのは学生時代からよく見た光景だ。「結局俺かよ〜」と文句を言いながらも、レンタカーのサイトを見ながら「この車種がいい」だの「こっちの店だとこの車借りれる」だのうきうきと借りる車を見繕いはじめたのはトワらしかった。
旅行当日、トワは得意顔で借りたレンタカーに乗って集合場所のブレの住むマンション──ちょうど四人の家から中間にあるし、駐車場が広いため車を停めやすい──に現れた。時は時間前に来てブレの部屋で待っていたものの、空は時間になっても姿を見せなかった。ブレがラインをすると『ごめん寝坊した』という一言と、謝っているインコのスタンプが送られてきた。最近空はこのインコのスタンプがお気に入りらしく、よく使っている。待ち合わせ時間から20分ほど遅れてきた汗だくの空をクーラーのよく当たる助手席に座らせ、トワの運転する車は目的地に向けて走り始めた。農協の車は軽バンか軽トラだから、こんなワゴンは久しぶりだとトワはずっとご機嫌でいつも以上にうるさかった。目的地は高速道路も使って3.4時間。途中別の観光地に寄るために一旦高速を降りたところで運転を代わろうという時からの申し出に、一抹の不安を感じつつも本人のやる気を優先して交代した。しかし、いくら安全運転とはいえ完全ペーパードライバーの運転は常日頃運転している者からすると恐怖でしかない。ブレはバイクの運転はするものの自動車の運転はしないため、勝手のわかるトワが助手席に座ったのもよくなかった。時の運転が決して下手なわけではないが、始終トワの指示を仰ごうとするのと法定速度を維持して後続車を詰まらせるのにうんざりしたトワが、「そこのコンビニ入ってくれ」と言い出したため、時の運転はほんの10分ほど走っただけのところで終わった。その後しばらく落ち込んだ時は、後部座席でブレに慰められていた。
「こんなところでエンストなんてついてねえよな…」
車一台がギリギリ通れる幅の山道を登りながらトワが愚痴をこぼした。レンタカーなのに突然エンストを起こし、道の途中で動かなくなってしまった。幸いどうにかまだ対向車がすれ違える道だったため、車をそのままにして四人は外へ出ることにした。スマホは圏外、周りに人気はなく、車が来る気配もない。ここまで来る途中、最後に見た集落まではかなりの距離がある。さてどうしたものかと思いながらトワがボンネットを開けて見ているのをブレは眺めていたが、しばらくしてトワが「お手上げ」のポーズをして見せてきた。
「近くに集落があればいいんだが…」
目的の秘湯まではまだかなりある。歩いて行くと夜中になるかもしれない。手分けをして、車を見失わない程度に散らばって辺りを見回していると、空が高めの声で三人を呼んだ。
「看板があるよ!村があるみたい!」
「本当か?!」
「ナイス!」
「でかした空!」
三人は口々に空を褒め称え、空が指差す看板の前に集まった。看板には『か○○○村→』と書かれていた。塗装が剥げていてよく読めないが、矢印の先に集落があることは読み取れた。
「行ってみようか?」
「そうだね、集落があるなら電波が入るかもしれないし、電話を貸してもらえるよ」
「ここからどれくらい遠いんだろうな?」
「見たところ細い山道だが、そう遠くはないんじゃないか?ここまで来る途中にバス停があったし、バス停から歩いて集落に向かう人用のショートカットの道なのかもしれない」
いつの間にバス停を見ていたのだろう、とブレは時の観察力に関心した。時のことだから単に景色が物珍しくて外を見続けていたからなだけかもしれないが。
「んじゃ、とにかく行ってみようぜ」
各々貴重品を入れた鞄だけを車から出し、トワが先頭切って山道に入りだす。空も「せっかくの旅行なのについてないよ〜」とため息をつきながら後に続く。人が歩いた形跡のある山道は土と枯葉が踏み固められていて意外と歩きやすい。日常的に使われているのだろうということが道の状態からわかる。
しばらく歩くと、古びた神社の裏手へ出た。朽ちかけた本殿は小ぢんまりとしていて、屋根が苔むして深緑色をしており、柱も外壁も風雨に曝されて所々裂けたり穴が空いたりしている。神主のいない、管理者すらいるのかわからない神社だが、しかしそこに人の営みがあることはわかる物──小銭すら入ってなさそうな賽銭箱のそばにお供物らしき林檎と蜜柑がカビのない新鮮な姿で置かれていた。
「まさかこんな場所に出るとは思わなかったぜ」
「うわぁ、めちゃくちゃ古いねこの神社。台風来たら潰れそう」
「実際傾いてるしな」
「でも、あの看板は本当だったってことだね」
ホッとした顔で四人はお互いの顔を見合わせた。この先にきっと家があり人が住んでいる。スマホの電波は変わらず圏外のままだが、電話さえ借りられたらどうとでもなる。早く行こう、とここに用はないとばかりに足早に境内から出ようと踏み出したところで、チリン、とどこからともなく鈴の音がした。
「もうじき黄昏時となります。黄昏時を過ぎてからは村から出てはいけません」
本殿の方から聞こえた鈴の音と少女らしき声に、四人は足を止めて振り返った。着物姿の少女──歳は十ほどだろうか──がいつの間にかそこにいた。つい先ほどまで本殿の周りをそれぞれが彷徨いていた時には誰もいなかったのだから、着物姿の少女は突然そこに現れた。
「うわっ!!びっくりさせんなよ!!」
大袈裟にトワが驚く。無理もない、人影どころか動物の気配すらない場所にいきなりスゥと現れたのだ、驚かない方がおかしい。ブレは訝しげに少女を睨んだ。本殿の中に隠れていたのだとしたら、とんだ悪趣味の持ち主だ。見知らぬ者達が境内を彷徨くさまを覗き見て、出てくるタイミングを見計らっていたのだから。
「黄昏時を過ぎてからは村から出てはいけません。ご案内します。今夜は村にお泊りください」
四人それぞれの驚きの顔と動作をよそに、少女は同じ言葉を繰り返した。
「俺達は今夜この先の宿を予約してる。電話を借りたらここから戻るよ」
時の言葉に、少女は無言でかぶりを振った。真っ直ぐの黒髪が絹織物のように艶々と光を乱反射させながら揺れる。
「シキタリです」
「シキタリ?」
「はい、シキタリです」
時が「どうする?」という顔でブレを見た。時につられたのか、トワと空までブレを見る。「決定をおれに委ねるな」とブレは言いたくなったのを堪えてため息をついた。
郷に入っては郷に従え、ということわざがある。不慣れな未知の土地で住人の忠告を聞かなかった場合、電話を借りられない程度のことでは済まないかもしれない。宿泊予定の秘湯の宿は険しい山の奥座敷で、建物の雰囲気も良く料理も山の幸をふんだんに使った美味しそうな献立だった。檜造りの露天風呂がブレの一番の楽しみで、到着したら最初に風呂に行こうと秘かにわくわくしていたが、仕方がない。期待は薄いが、この村にも温泉くらいはあるかもしれない。無理矢理「泊まれ」と強要するのだから、客人をもてなす設備は整っているのかもしれない。ブレは「わかった」と少女に返した。
「ご理解くださりありがとうございます。それではご案内いたします。私から離れずついてきてください」
「あ、あのさ、ちょっと待って!僕達何にも持ってきてないんだけど。泊まる用意は車の中に置いてきちゃったし」
取りに戻るのもダメなの?と空がオロオロと問いかける。車から神社まではそう距離はなかったから、取りに戻る時間はあるだろう。
「もう『門』は閉まりました。ご安心ください、屋敷にそれなりの用意はありますので」
「門って何だよ?」
「門は門です」
「意味わかんねえよ」
シキタリだの門だの不可解な語を並べる少女を、四人は不信感を露わにした表情で凝視した。睨みつけられても怯まない少女の真っ直ぐな瞳は、来訪者をからかっているようには見えない。
「ここは狭間ですので危険です。黄昏時が訪れる前に村へ急ぎましょう」
チリンと鈴を鳴らして少女が村への道へと四人を誘う。どこから音がしているのだろうと少女の全身をよく見たら、手首に巻かれた紐に鈴がついているのがチラリと見えた。
「行こう」
ブレは納得いかない顔を浮かべて立ち止まったままのトワの腕を引っ張った。トワは自分の中で腑に落ちないことがあると強情だ。一度引っ張っただけでは動こうとしなかったが、時の「ひとりでここで夜を過ごすつもりか?」という一言に体の強張りが弛んだ。時はブレが時々嫉妬するほどにトワの扱いがうまい。大人しくブレに腕を引かれてついていくトワを見て、空が「犬の散歩みたい」と軽口を叩いて笑った。
少女は名前を奈備と言った。村を訪れた人を、宿である自分の屋敷まで案内しているとも言った。村はいかにもといった田舎の原風景が広がっており、大人しくしていたトワがその風景に懐かしくなったのか「俺の村と同じレベルの田舎だ!」とはしゃぎはじめた。ブレもトワの出身の村に行ったことがあるから頭の中で比べてみると、確かにいい勝負だったので思わず噴き出してしまった。その時は田舎だからだろうと気にも止めてなかったが、少女の屋敷に着くまで村人には一人も出会わなかった。
案内された屋敷は客人の気配がなく、住人の気配すらない。家族はいないのかと時が奈備に問うたが、答えは得られなかった。「あなたがたのお世話は私がしますので、何なりとお申し付けください」と言いながら四人を一人ずつ部屋へと案内した。ぎしぎしと軋む廊下づたいに、障子が並んでいる。それぞれの部屋は横並びで、襖で仕切られているだけだった。家具がなく真ん中に机が置かれ布団が隅に畳んでおかれている各部屋は大きさには多少の差があり、たまたま時にあてがわれた部屋が10畳ほどあり一番大きかった。廊下は長く、他にもいくつか部屋が並んでいるようだった。「他の部屋は覗かないでください」と奈備に言われたが、誰か他人が泊まっているかもしれないのでその忠告は四人とも素直に受け入れた。
「なあ、風呂場ってどこだよ?」
山道を登ってきたからさっぱりしたくてよ、とトワが言った。ブレも汗をかいているから風呂がもらえるなら今すぐもらいたい。温泉はもはや期待出来ないが、湯船につかれるだけでもありがたい。
「玄関をこことは反対の方向に行けばすぐに浴室があります。今入られますか?」
「入れるなら入りたいぜ」
「お湯につかって疲れを取りたいしな」
「賛成〜!」
口々に嬉しそうな反応を示す三人に、ブレも同意を示した。
「それでは今からご案内いたします。タオルも浴室まで持って行きます」
ついてきてください、と奈備は鈴をチリンチリンと鳴らし、四人の前を進む。歩き慣れているからなのか足袋を履いているからなのか、鈴の音はするのに足音は全くしなかった。
風呂場は大人の男が四人で入るには手狭だったが、宿泊所として使われているだけのことはあり古さはあるものの綺麗に管理されていて清潔感があった。温泉なのかと聞いたら「源泉を引いています」と返ってきたことにブレは満足し、顔に出てしまった感情をトワに気付かれからかわれてしまった。トワの方が明らかに嬉しそうな顔をしていたのだが。
風呂から上がると、奈備が玄関にいた。夕餉は村の公会堂で食べるのがシキタリだと言う。待たせるのも悪いからとそれぞれ手早く準備をし、「他の道へ逸れませんよう」と先頭を歩く奈備の後ろ姿を見ながら、四人は公会堂へと向かったのだった。
(続)