Have a nice holiday カタカタとキーボードを叩く音だけが部屋にある。所謂人をダメにするクッションに凭れかかったフロイドも、デスク前に座ったリドルも、一切言葉を発していなかった。
自分は仕事をしているので静かなのは当たり前といえばそうなのだが、フロイドが静かなのは少し……気味が悪いなとリドルは思う。静かにしてくれと確かに言った。けれど、静かにこちらを見つめていろだなんて言っていない。アンバーとオリーブの瞳から発される視線に、なんの感情も籠っていないことがまた不気味だった。
予定では休みとなっていた今日、急に仕事が舞い込んできた。
午前八時、リドルが朝食を終え、フロイドを待つ間にしておくことを考えていた頃。ある一本の電話を受けた。上司からのものだ。無視する訳にもいかなくて、嫌な予感を見ないふりをして携帯電話を手に取る。これまで休日に連絡が来る、ましてや上司からなんてこと無かったため少し緊張したので、どんな緊急事態が起こったのかとシミュレーションしながら対応した。なんでも、部下が仕事を失敗したらしい。そのリカバーをしてほしい、と。わざわざ電話までするようなことなのか、明日ではいけなかったのか。疑問と不満が頭の中で渦巻く。ため息混じりに文句を口にしようした所で、できたら今日中にお願いしたいという声を聞き、思わず頷いてしまっていた。それはリドルの仕事であったし、部下のミスは上司である自分がカバーすべきだ。だけど、よりにもよって今日にやってくるなんて。ああ、もう。ルールに違反してはいないが人の休日を潰すのはどうなのか。そんな八つ当たりじみた思いが上司へと向かう。文句の一つでも言ってやればよかった。フロイドには急遽仕事が入ってしまったと正直に言うしかあるまい。
溜め息を吐いてフロイドに連絡を取ろうとしたとき、耳元で彼の声が聞こえた。リドルの気分とかけ離れた、明るい声音だった。
「何してんの?」
「……フロイド、驚かせないでくれ」
「驚いてねーじゃん」
どうやら、フロイドに伝えるための文を考えている間に部屋に入ってきたらしい。全く気づかなかった。フロイドはリドルの頭に顎を乗せ、ぐだぐだと絡んでくる。不法侵入しておいて態度が大きすぎやしないだろうか。フロイドにはこういったところがある。尊大な猫のようで可愛げを感じるときもあるが、今日のリドルにはそんな心の余裕はなかったので、ただただ苛立ちを覚えた。
フロイドの顎が当たって地味に痛い。はあ。また溜め息が洩れた。フロイドが茶化すように発した「疲れてんね~」という言葉に無性に腹が立った。他人事のように言ってるんじゃないよ。リドルの頭に体重を乗せて寄りかかるフロイドを雑に退かし、向き合う。この雰囲気で言うことではないが
「いいかい、これはボクも本意ではないんだ」
「え、うん……何の話?」
「急遽仕事が入った」
「はあ?!! なんで!!」
「ボクも言いたいよ」
フロイドがぎゃあぎゃあと不満だと主張する。話を聞いていたかい? ボクも不本意だと言っているだろう。お菓子売り場で駄々をこねる子供のように足をバタつかせるフロイドは、眉を寄せてリドルの着ているシャツの裾を引っ張った。もはや鬱陶しささえ感じる。どうにかしようにも、フロイドはこちらの話を聞き入れようとしない。
嘆いていても何も進まないので、顔をしわくちゃにして全身で嫌がるフロイドを放って椅子に座ったのだった。単に説得することを諦めたともいう。
性分といったほうが良いのかもしれない。着々と進んでいく仕事と平行して他の準備も行っている自分が映るパソコンの画面を見て思った。与えられたものを熟したくなってしまうのだ。面白くない休日だと自分でも思う。当の本人であるリドルでさえそうなのだから、フロイドにとってはなおさらではなかろうか。
「ねぇーえ」
「なんだい」
「暇ぁ」
「キミはそうだろうね」
自分のせいで暇になっているのは承知しているが、気に触るのは触るのだ。あまり苛立たせないでほしい。そう思ってフロイドに直接、「自己嫌悪に陥ってしまうからやめてくれ」「あまり八つ当たりはしたくないんだ」と怒りを堪えて言った。堪えている時点でもうダメなのかもしれない。いや、まだ間に合うはずだ。それでも言い募ってくるので、つい乱暴な口調で返してしまった。恐らくフロイドは気にしないだろう。彼だってするのだから気にしていたって構いはしないけれど。それはそれとして忍耐力のない自分に嫌気が差した。
「しりとりしない?」
「嫌だよ」
「ルール分かる?」
「いつも思っているのだけどね、キミは話を聞くことができないのかい?」
至極普段通りにこちらの話を聞かず次々と進めていくフロイドに、怒りよりも呆れが先立った。
「聞いてるしぃー。それより知ってんのかどうなのか教えてよ」
聞いていた上で尚この返答というのはどうなのだろう。眉を顰めてフロイドを見やった。彼がコミュニケーションを取る気があるのかどうか未だに分からない。これに始まったことではないが、過ごす年月が増えるに連れてフロイドが掴みづらくなっていく。まるでぬた鰻だ。これじゃあ彼をギャフンと言わせる日はまだまだ先になるだろう。そう考えながら渋々と返事をする。これ以上面倒なことになるのは避けたかった。もう十分面倒なのだけど。
「監督生の故郷の遊びだろう。知っているとも」
「んじゃあ、オレから~」
「するのは決定事項なんだね」
「気分転換にいーでしょ」
「そうかもしれないけれど……」
「ま、負けちゃうのが怖いってなら仕方ないかあ」
「ハア? そんなこと誰も言ってないだろう」
「えー? 違うのォ?」
煽るように言ってくるフロイドの目的は読めている。こちらを誘いに乗せようとしているのだろう。はん。全部お見通しだよ。分かっていたとしても腹の立つ彼の言い草に、眉間に皺が寄った気がする。えー? じゃないよ。
「じゃあやっぱイヤなんでしょ、オレに負けンの」
「……しつこい男は嫌われると言うけれど、キミはどう思う?」
堪えきれなくなった苛立ちが棘となって言葉を覆った。フロイドは意にも介さず飄々と続ける。
「オレもしつこいのってきらーい。だから抵抗すんのやめてよ」
ニタリと笑い、挑発するようにリドルをつついて告げた。いや、これは挑発しているのだ。こんな奴の手に乗ってたまるか、という気持ちと、そこまで言うならしてやっても、という気持ちがながい混ぜになって気持ち悪い。それにしても腹立つなコイツ。
「ハイ、リサイクル」
「いきなりだね」
「ほら、続きは?」
「……ルマンド」
なんだかんだとフロイドの策に乗ってしまった。こちらが悪いわけではないが、少しは悪いと思っている。逢瀬を楽しみにしていたリドルも、それを後押ししていた。まあしかし。休憩が必要なのは分かるが、そうまでして作る意味がフロイドにあるのだろうか。あまり関係のないことなのだけど。
こういった手はフロイドの得意分野だった。勿論リドルが勝っている分野もあるが、これに関しては彼が一歩先を行っている。ジェイドやアズールなどを筆頭に上手な人を観察し、勉強してそのうち追い越すつもりだ。
「ドリア」
「アイスクリーム」
「無能」
「鵜」
たとえくだらない遊びだったとしても、負けという立場に立つのは嫌だ。そんなリドルの中の負けず嫌いに火が付き、しりとりはポンポンと順調に進んでいく。フロイドの手のひらの上で転がされているようでやっぱり不愉快なのだけど、それと同時に楽しくもある。どう言い表すのが適切なのか分からないが、心地いいのは確かだった。
「裏起毛」
「それってあったかいやつ?」
取り敢えず「う」で攻めていこうと作戦を立てていると、フロイドが合わせていた目を瞬かせてしりとりを途中で切り上げて話しかけてきた。裏起毛という言葉が気になったようだ。
「オレこないだ使ってみたよ。めっちゃふわふわだった」
「へえ」
「でも寒くないしいらねーかな。金魚ちゃん使ったことある?」
フロイドは寒さに強いとは聞いていたが、近頃の寒さも耐え得るとは知らなかった。そういえばジェイドがコートを着用しているところもあまり見ない。故郷が寒冷地だとかで、慣れているのかもしれない。
胡座をかいたフロイドを上から下まで眺めて、初めて彼の身につけているものが室内というのを差し引いても薄いことに気づく。暖房をそこまで強くしていないこの部屋でのこの格好は流石に肌寒いのではないだろうか。あまり寒さに強くないリドルは思案を巡らせた。どこまでがフロイドの「寒くない」なのか分からないのだ。平然とした顔をしているから、きっと大丈夫なのだろうけど。
「今着ているよ」
「おおー! どう!?」
「暖かいよ。着ぶくれしてしまうから上は薄めのものが良いんじゃないかな」
「あー、確かに。ちょっと気になる」
「キミはもっと膨れたほうが良いだろう」
「えー? 別にヘンじゃなくね? 今のままでいーと思うけど」
「シルエットが細長いだろう。遠目から見ると棒切れみたいだよ」
「人間って誰だってそうじゃん」
「……あぁ、そういえばそうだね」
「今気づいたの? ウケる」
「ウケるな」
「ねぇ、オレってそんなに細く見える?」
「細いというより長い、だね。横幅が縦の長さに対して足りていないように見えるんだ」
「横幅って言うなよ」
「どうしてだい? 横幅は横幅だろう」
「……金魚ちゃんはー、オレがもっと太ってたら嬉しい?」
「どちらでも良いよ。それぞれの良さがある」
「好みで言うと?」
「肉がある方が嬉しい」
「正直でいいね~」
「今度外食しに行こう」
言外にもっと食べろと告げた。一緒に出かける頻度を高くしても良いかもしれない。共に食事をするあいてがいないと疎かにしてしまうのはフロイドもリドルも同じだった。
「ん、楽しみにしてる。次オレだよね。裏起毛の『う』だからー、羽毛」
「右脳」
「虚」
「老嫗」
「うなぎ」
「吟醸」
「『う』、ね。う~~……、ん、飽きたァ」
「ボクの勝ちだね」
誇らしげに笑って自身の勝利宣言すると、不貞腐れたように頬に空気を入れたフロイドが顔を逸らした。
リドルの言葉に反応した彼は合わせていた目線をそらし、「へえ、ふぅん。そーなんだ、そっかあ」と不服そうな声で呟いた。どうしたんだろう。特に変なことは言っていないはずだけれど。尋ねてみてもフロイドははっきりしない態度を続け、濁してばかりいる。
学生時代、どこまでも自分本位に突き進む目の前の男の姿に怒りや呆れと、……認めたくないがほんの少しの羨望を抱いていたことを思い出した。守るべきルールに従わない所は不可解であるが、その姿はフロイドを何より魅力的にしていたと思う。そうでなければリドルが惚れてしまった理由がない。
「そう、ならいいけど」
なんなんだ一体。突如として下降に向かった機嫌は、何かのきっかけで少し上向きになったらしい。リドルには分からない何かあったんだろう。おそらく。リドルの言葉一つでころころと機嫌を変える彼を、可愛らしいと思うようになった自分は、きっと恋というものに脳まで侵食されてしまっているに違いない。重症だ。