馴染ませる話 触れていいかと問われて、浪巫謠はまず一拍を置いて考えた。
何故、とか、何処に、とか思うことはいくらでもある。けれど結局は「何故」とも「何処に」とも問うことはせずに、ただ首を縦に振ることを答えとした。是。言外の応えを受けて、裂魔弦は嬉しそうに笑った。
そうしてゆっくりと、肩以外を隙間なく赤で覆われた腕を差し向けてくる。思ったより慎重に背中へと回された掌が、どこか恐る恐るといった様子で引き寄せようとするのを、巫謠はいっそ焦れったさを覚えながら受け入れた。互いの胸がぴたりと合わさって、自分のものではない温もりが衣越しにじわりと伝わってくる。それは巫謠の胸の内をそわそわと落ち着かない気持ちにさせたが、今すぐ振り払いたくなるような不快感などではなく、ただ単純に他者との触れ合いに不慣れであるゆえに感じる違和感なのだろう。
それはそれとして、このまま棒立ちで抱き締められるままというのも手持ち無沙汰なもので、数瞬の思案の末に、巫謠は抱擁に応えるように裂魔弦の背に自らの腕を回してみた。
そうすると不思議なことに先程までの落ち着かなさはすうと解けて、拼圖の片が合わさった瞬間のように、なんだかしっくりと心に馴染んだ気がした。その代わりに裂魔弦の方が、まるでそんな反応は全く予想していなかったようにぴくりと肩を震わせて、いっそうぎこちなく身を硬くしてしまったものだから、そのちぐはぐさが実に自分達らしいと思えて、巫謠はおかしくなった。
けれど同時に、ほんの少し引っかかりを覚える。求めるのは自分ばかりで、巫謠に応えてもらえるとは欠片も思っていないのか。そう思ってしまうと今度はじわじわと、これはらしくない行いなのではないかと、不安とも羞恥ともつかぬ感情が染み出してくる。
思えば、長じてからはこんな風に誰かと触れ合う機会は久しく訪れなかった。一方的に身を寄せられた記憶はあっても、自分から応えた試しはどれほどあっただろうか。思い至れば、確かにこれはらしくない行為だったと自覚する。せざるを得ない。
瞬間、急くように腕を引こうとして、しかし、ぎゅうと突然力強さを増した抱擁に阻まれる。こつりと肩に当たった硬質な感触は、彼の右目を覆う仮面のものだろうか、それとも額に二つ生えた赤い角のものだろうか。逃避に似た思考が過ぎる。自分が今取るべき対応がわからない。途方に暮れる思いで、結局は棒立ちのままでいるしかない巫謠に、やがてくぐもった声が囁いた。もっと。
「もっとさ、触ってくれよ浪」
親に強請る子供のような声だった。そのくせ、乞われる望みは我儘とも呼べないようなささやかなものだった。そのいとけなさを感じさせる要求に応えるように、改めて、その背中に掌を添える。刹那の逡巡を置いて、片側の手はその頭の方へ置いてみる。一度、二度、よく似た色をした髪を梳くように撫でれば、それが気に入ったのか、くふくふとお饒舌りな彼にしては随分と控えめな笑い声が零れ落ちた。
こんなつたない触れ合いで喜びを得るような純真な心が、魔性の言霊を起源とするものであることを、この頃の巫謠は度々信じられなく思っていた。それでも、心を持たぬはずの琵琶に自我を与え、言葉を与え、遂には人のような手足を与えた、その発端は巫謠に宿る魔性の力なのだという。それがけっして覆らぬ事実と受け止めるならば、魔性の眷属らしい残虐性や享楽主義さを示すことのないその心の有り様は、尊ぶべきものだと思う。多くの人々の心を惑わせ、狂わせた、この忌むべき魔性が生み出した、数少ない幸いの一つなのだと。
「……こうやってお前にくっついてるとさ、すごく落ち着くっていうか、しっくりくるんだよな」
琵琶としての『聆牙』の姿である時、彼は常に巫謠に背負われるか、その腕に抱えられている。四六時中とはいかずとも、一日を大半を巫謠に触れられて過ごしている。それが琵琶にとっての当たり前だった。人に似た形を得たところで、その当たり前の日々の記憶が消えたりはしない。だから、離れている時間が長くなるほど落ち着かなくなるのだと言う。文字通り地に足をつけて立っているはずなのに、自分が何処にいるのかわからなくなるような感覚。それは人から見れば刷り込みのようなものであっても、器物からすればごく当然のものであると。器物とは、誰かと共に在り、使われることで、その真価を示すものなのだから。
「お前に触れてると、此処にいるって感じられるし、此処にいていいって思えるんだよ」
その言葉に、巫謠はようやく得心する。
だから、彼はあえて『裂魔弦』の姿のままで求めたのだ。『聆牙』という琵琶に戻れば、自らの足で移動することができない彼を巫謠が抱え持つことは必然となる。逆説、手足を得た『裂魔弦』の姿ならば、巫謠がその身に触れる必要はどこにもないのだ。その上で、彼は『裂魔弦』として求めた。不必要な身で、浪巫謠に触れて、触れられる為の許しが欲しいのだと。
「、」
何かを、言ってやりたいと思った。けれど、この喉に宿った魔性とその影響を厭うあまり、自身が発するべき言葉のほとんどを琵琶に代弁させてきた巫謠には、肝心な時にかけるべき言葉を見つけることができない。言葉にせずとも解り合えてきた彼だからこそ、尚更に。
だから言葉の代わりに巫謠は裂魔弦の頭を撫でた。そうすることで、この状況はたとえ不必要なものであったとしても、けっして煩わしいものではないことを示す。
すると、肩に乗せられていた頭が、甘えるようにぐりぐりと額の辺りを擦り付けてくる。その都度、例の硬質な感触が肩に押し当てられて、少し痛い。それでもやめろとは言わなかった。
最初の違和感など初めから無かったように、抱き込まれる感覚も、温もりも、すっかりと馴染んでいた。思えばそれも、当然のことなのかもしれない。器物の形と、人の形と、違いはあれど、その魂はどちらも同じ彼であるならば。触れられることは不慣れであっても、それに触れることは、巫謠にとっても当たり前のことだった。この腕に、心に、馴染むのは当たり前のことなのだ。
そんな風に感慨に耽っていると、突然、ぱっと抱擁が解かれてしまった。始まりは焦れったいほどにゆっくりと、確かめるように触れてきたというのに、離れる時はなんて潔いことだろう。「あんがとな」と満足そうに笑う裂魔弦に、もういいのかと視線で問う。
「十分だって。おかげさまでたっぷり充電できたしな。
それにしてもだ。やっぱ手足があるってのはオモシロイもんだなぁ。こうやって誰かに自分から触れるなんざ、ただの楽器だった頃じゃ考えられねえことだしな」
そう言って、裂魔弦はまじまじと自らの手を見つめる。今しがた触れていた感触を馴染ませるように、閉じては開いて、繰り返す。額に生えた一対の角と、僅かに尖った耳以外は人と変わりない姿の中で、その赤い両手だけが、奇妙に作り物めいて見えた。
ふと、巫謠はその手に触れてみたいと思った。抱き込まれた時、彼の身体が温かいことを知った。けれど、その指先はどうなのだろう。どんな感触がして、どんな温度を持っているのか、これまで意識してこなかったことが、急に気になり始める。
思えば、そんな些細なことすらも、巫謠は知らないのだ。『聆牙』と共に在った時間は長く、それと比べれば『裂魔弦』と共に過ごした時間ははるかに短い。それでも、知ろうと思えばいくらでも知り得るだけの時間は既に積み重なっていたはずなのに、知ろうとしなかった。
改めて、巫謠は目前の男を見る。己によく似た暁色の髪。琵琶の頃と同じ碧い瞳は、かつて垣間見た過去の中の母に似ている。右目側にだけつけた仮面は『聆牙』の面影を強く残し、触れればきっと、琵琶の彼に触れた時と同じ無機質な感触が指先に返ってくるだろう。それとは逆に、二対の赤い角は存外やわらかそうで、血の通った温かさを宿しているような、そんな印象を受ける。触れたら嫌がるだろうか。どこまでなら彼は許してくれるだろう。自分は、どこまで彼に許せるのだろう。
知る為に、確かめる為に、巫謠は口を開いた。
聆牙、と。己が呼びかける銘は、器物の形であろうと人の形であろうと変わらない。何故ならどちらも同じなのだ。母の遺品と共に荼毘に付すはずだった琵琶。この身に宿る魔性が心を与えたモノ。そして自らの手足を得てまで巫謠と同じ道を歩もうとしてくれた相棒。
同じであるならば、巫謠を誰よりも理解しているのが彼であるように、彼を誰よりも知り得るのは己でありたかった。だから、これもまた当然のことなのだと思う。これからを共に在るために、この身に、この心に、その存在を馴染ませるように、知りたいと思うのは当然のこと。
喉から零れ落ちるのは、最初に問われた言葉。
――俺も、お前に、触れていいか?