寒い日の話「だぁーーっさみぃーーっ!! 浪ちゃんあっためて~~!!」
などとふざけた台詞が部屋に響いた一秒後には、文字通り飛びつく勢いで抱きついてきた男に押し倒されていた。牀榻に倒れ込んだ背中が地味に痛い。お構いなしにぐりぐりと頭を擦り付けてくる裂魔弦の様を見ていると、琵琶として生まれる前は犬だったのではないかとくだらないことを考えてしまう。
そもそも、寒いなどとどの口が言っているのか。確かに気温は昨夜から急激に冷え込んでいて、外から戻ってきたらしい裂魔弦の身体は、まだ日の高い時刻であるにも関わらず思わず眉を顰めたくなるほどに冷たい。けれど、こんもりと雪が積もった中庭を、肩を外気に晒した無防備な格好のままで平然と遊び回っていた姿を知っている巫謠からすれば、全てが白々しく映るものでしかなかった。
要は、甘えるための口実でしかないのだ。
本当は裂魔弦だって、本気で温めてほしいわけではないのだろう。――そうなのだろうか?
器物であったその身が、肉を得て温もりを得たからといって、特段冷気を忌避する必要も、冷えた身体を温める必要もないのかもしれない。純粋な器物であった頃と変わらず、人間のような細やかな配慮を必要とするような体質ではないのかもしれない。本当のところなんて巫謠にはわからないけれど、どんな寒空の下であっても裂魔弦は格好を改めるようなことはしなかったし、寒い寒いと口にしながらも今まで彼が風邪を引いた例はなかったから、結局は平気だという言葉を信じて、そういうものなのだと思うしかなかった。
そうして今もその信用が続いているのなら、「寒い」も、「温めて」も、やはり戯れ言以上の意味は持たないのだ。無意味で、無駄で、だからこそ巫謠の気分次第で今すぐ押し退けてもいいし、逆にこのまま受け入れ続けても、どちらでもよかった。どちらでも良いのだと、判断を委ねられていた。小賢しい。
巫謠は瞼を下ろす。一拍の間を置いて、そうして結局のしかかる重みを退かすのではなく、受け入れるように、二、三度、肩の辺りに置かれた頭を撫でてやる。そうすると、もっとと言わんばかりにまた頭を擦り付けられるので、応じてやる。
最近知ったことだが、裂魔弦は巫謠に触れられることを殊の外気に入っているらしい。器物としての性質で、誰かに触れられ使われている時が一番落ち着くこととは別に、一個体的な嗜好として巫謠に触れられることを好んでいるという。
つまりそれは『特別』ということだ。だから巫謠は殊更与えたくなる。甘えてきてくれるのなら甘やかしたいし、甘やかしてくれるのなら甘えたい。そういう欲求を巫謠に芽生えさせたのは他ならぬ聆牙/裂魔弦で、だからこそ、巫謠にとっても彼は『特別』だった。
撫でる手を止め、代わりに両腕で抱え込むように抱き締める。「浪?」と怪訝そうな声が聞こえた。口を閉ざしたままでいると、不意にごろりと横向きに体勢を変えられて、先程まで巫謠がしていたように頭を撫でられる。笑みを含んだ優しい声が、鼓膜を擽った。
「どったの浪ちゃん? お前もやっぱり寒い?」
違う、と思った。――本当に? 本当だろうか?
もう一度、違う、と思った。
巫謠の身体は先程からずっと、裂魔弦のそれより温かくて、だから寒くなどないはずだった。寒さを感じる理由はないはずだった。それでも確かに、巫謠は寒かったのだと思う。彼が戻ってくる前からずっと、本当は寒かったのだと思う。身体ではなく心で、今、確かに『寒い』と感じているのだ。
嗚呼そういうことかと、ようやく理解する。戯れであっても、意味などなかったとしても、それはけっして虚言などではなく、無駄なことでもなかったのだ。
結局、こんなのは甘えるための口実なのだ。答えは最初からわかっていたこと。だから巫謠はそれ以上多くを考えることはせず、彼の言った「寒い」と「温めて」の代わりに、自分なりの言葉で甘えることにした。要は、自分達は、
「――お前と、離れ難いだけだ」
ただそれだけが、今自分達にとって『特別』意味のあることなのだ。
ぎゅう、と強く抱き締めたその身体は、いつの間にか巫謠と同じくらい温かくなっていた。