不自由な愛の話 剥き出しの肩にかすかな肌寒さを感じて目を開けた。
どうやら障子窓が少し開いたままになっているらしい。閉めなければなと頭の中では考えながら、手足は一向に行動に移せない。それは膝上に乗せて抱え込んでいる重みのせいであり、何よりそれを手放したくない己の心のせいであった。目前に広がる薄い背中に顔を寄せ、その温もりや、深奥でひっそりと脈打つ心音を堪能する。腰に回した腕の、その先、人形の指を弄るように己の指を絡めて遊ぶ感触を楽しむ。そうしてあっという間に微睡みの尾を引かれるように、開けたばかりの瞼が落ちそうになる。
嗚呼でも、多少の寒さくらい自分には大したことではないけれど、巫謠は風邪を引いてしまうかもしれない。泥濘みのような安らぎに浸っていた思考が、そう思い至った瞬間に『動かなければ』と手足に信号を送り出す。
我ながら、健気なことだと思う。だけどそうして唯一人の為だけに思考し行動することは、裂魔弦にとっては苦なことではなかった。自ら操ることのできる身体を得る前の、純粋な器物であった頃からそれは変わらない。だからむしろ、今はそれを嬉しいとすら思えるのだ。こうして自ら、唯一の人に触れて、その身を案じて行動を起こせることが。それを可能とする器を得られたことが、そうして今なお共に在れることが、正しく得難い幸福であるのだと、折に触れて実感する。噛み締めるように、心に刻む。
そうしてようやっと手放し難い温もりを離そうと腕を引きかけたところで、しかし、それを阻むようにゆるく手を握り込まれた。咎めるように爪の先で甲を引っ掻かれて、その甘やかな痛みに困ったように眉尻を下げて苦笑う。
「……浪~? 窓開いてるみてえだから、閉めねえと寒いだろ?」
「後でいい」
にべもない簡潔な返答を寄越した彼は、またするりと互いの指同士を絡め合って、文字通り手遊みに興じだす。いつかのように傷跡を確認する為ではなく、正しく、戯れでしかない動き。最近はこうやって、ただ意味もなく触れられることも増えた。
なんとなく悪戯心が芽生えて、絡められた指を振りほどくように逃がす。直ぐ様追いかけてきた指先を逆に捕まえて、巫謠のやり方を真似るように指の間に己のそれを絡め通して握る。そのまま肩越しに口許へ運んで戯れに口付ける。すると瞬時に振りほどかれた手で、大人しくしていろ、とばかりにぺしりと額を叩かれた。
仕置きと呼ぶにはあまりにもやわらかすぎる一手に、くつくつと喉奥から笑いが込み上げてくる。その間に、またしても裂魔弦の指は巫謠のそれに絡め取られて玩具にされていた。
「俺の指、そんなにすき?」
見えてはいないだろうが、こてんと首を傾げて問えば、内容を吟味するように少しの間を置いて、巫謠は答えた。
「指だけではない」
「んじゃ、他は? 俺様のどこがすき?」
「…………」
今度は随分と長い沈黙が挟まった。余程真剣に考えているのか、指を弄っていた手はぴたりと止まってしまっている。自分から仕掛けたこととはいえ、放っておかれている指先が寂しい。構ってと駄々を捏ねるように軽く揺さぶりながら、真面目な相方の思考を取り上げるようにわざとらしく呆れた声を上げる。
「浪ちゃーん? そこは嘘でも『全部』って答えるとこだと思うんですケドねぇ?」
「お前に偽りを答える意味がない」
「そりゃごもっとも」
それは浪巫謠は嘘を吐かないという意味と、仮に嘘を吐いたところで裂魔弦には看破されてしまうという二つの意味を持っている。軽く受け流してはみせたものの、不意に差し出された信頼に頬が緩むのを抑えられない。こんの琵琶タラシちゃんめ。冗談めかしつつも本心からの文句を口にしなかったのは、「それに」と珍しく巫謠が言葉を続ける素振りを見せた為であった。
「俺は、お前の『全て』はまだ知らない」
どくり、と胸の奥で何かが跳ねた。きっとそれは類稀なる音感を持った巫謠の耳にも、確実に届いてしまっただろう。今更巫謠に隠し立てするようなことなど無いけれど、何故かそわそわとして落ち着かない気持ちになる。居た堪れなくもあり、同時に、期待や喜びに似た感情が波打っていた。だってそれは、
「……お前は、知りてぇの?」
「……お前が望まぬことを暴くつもりはない」
だが、と声は躊躇いがちに続ける。
「知りたいとは、思っている」
最初に『お前』に触れてみたいと思った日から、ずっと。
まるで初心な生娘の告白を聞いているようだ。それともそれは、そのようないじましい想いであってほしいという心が、そう聞かせたのかもしれない。身勝手だなと思う。だから、今巫謠の顔が見られなくて残念だと思う一方で、巫謠に顔を見られなくてよかったと思ってしまう。目ではなく心で他者を視ることができてしまう巫謠には、きっとそんな身勝手さも見透かされてしまう。それともお前は、そんな心すら知りたいと思ってくれるのだろうか。
「いいぜ」
気がつけば、想いは言葉になっていた。無意識に零れ落ちたそれは、だからこそ嘘偽りのない本心の欠片だった。
「お前が望むなら、いくらでも教えてやる」
心からそう告げたのに、返ってきたのはしかし不満そうな巫謠の声だった。
「……お前はいつもそうだ」
浪巫謠が望むのなら、器物はその歌を彩る『音』となり、他者との交渉を担う『口』となり、行く手を阻む敵を食い千切る『牙』となる。そして時にはその意志すら静寂の裡に封じ込めることができてしまう。どれだけの忠言を送ろうとも、最後には浪巫謠の意志を尊重し、従う。手足を持たぬ純粋な器物であった頃から変わらぬ聆牙/裂魔弦の在り方に、初めて巫謠は否やを唱えた。
――不意に、『自由』という言葉が過ぎる。
手足を得た器物を、巫謠はよく『自由』と称した。何処へ行き、何をするも器物の自由なのだと。そう口にする時の巫謠は、いつもどこか寂しさを滲ませていて。だから裂魔弦はその度に疑問に思わずにはいられなかった。器物が手足を得たことで自由になったのなら、因果に決着をつけた巫謠だって自由の身となったはずなのに。なのにどうして、巫謠は未だ『不自由』そうにしているのだろう。
(――『俺』が自由に望んでいいように、お前もまた望んでいいはずなのにな)
こんな時、裂魔弦はこの相方を不器用だと思わずにはいられない。他者の心を慮るばかりに、いつも損な役回りを引き受けてしまう。その結果、文字通り痛い目に遭ったことも少なくないというのに、きっとこの不器用な性分は死ぬまで治らないのだろう。そんな男だから、殊更甘やかしたくなるのだと、彼が理解する日はきっと来ないのだろう。
指を絡めあった手を握りこむ。それだけでは足りなくて、巻き付けた腕に力を込めて抱き締める。ぴたりと身を寄せた背中越しに、規則正しい心音が鼓膜に伝わってくる。
彼が――浪巫謠が生きて、其処に居てくれる。何にも縛られることのない空の下で、己の意志で道を決めて、歩いている。それだけで十分すぎるのに。
触れてもいいかと訊かれた。共に考えたいと、これからを相談された。離れ難いと身を寄せられた。他愛ない日々の中で求められていく内に、欲が湧いた。日毎にいや増して、もっともっとと望むようになった。もっと求められたい。もっと甘やかされたい。もっと求めたい。もっと甘やかしたい。
望めというのなら望んでやろう。お前が望んだように、『自由』に、求めてやろう。それで後悔するというなら、その時はその時だ。どうしたって聆牙/裂魔弦には、浪巫謠を想わぬ生き方など出来はしないのだから。
「――言葉、間違えちまったな」
顔が見たいな、と思った。誰にも見せたことのない心の深奥を見抜くような、透き通った翡翠の色を見たい。見てほしい。そうして胸の内の全てを教えてやりたい。想いを全て伝えるには、自他ともに認めるお饒舌りであっても、言葉だけでは不自由すぎるとわかってしまったから。
そろりと腕を離すと、まるで最初から理解っていたかのように巫謠が振り返った。望んだ通りに翡翠の双眸に見下されて、また鼓動が一つ跳ねた。触れたいな、と思った時にはもう手を伸ばしていて、揃いの色をした髪をそろりとよけて、白い頬に触れた。そこは確かに温かくて、ずっと知っていたはずなのに、その温もりが泣きたくなるほど嬉しかった。きっと、同じくらい愛おしかった。万感の思いを込めて、伝える。
「全部教える。全部知ってくれ。お前にだけ、全部だ。巫謠」
そしてもしも、本当に『自由』な心のままに求めていいというのなら。お前を教えてほしい。全てではなくていいから。お前が教えてもいいと思ったものだけ、全部この心に教えてほしい。お前の声によって生まれたこの『命』に、お前という『歌』を教えて、満たしてほしい。この『心』は、この『魂』は、ずっとそうして生きてきたのだから。
「――、」
不意に、唇にそれは触れた。やわらかな羽のような、触れるだけの一瞬の感触。顔にかかった暁色の髪が肌をさらりと撫でて、息を呑むほど間近に迫った翡翠色が甘く揺れる。知らなかった。好いた相手には、そんな表情をするだなんて、誰も知れるはずがなかった。この世で一番の宝を見つけたように、晴れやかに、満足そうに、幸せそうに、巫謠は微笑った。
「――俺も、全てお前にだけ渡すから。お前だけでいい。お前だけが俺を全て、知っていてくれ」
ぽたり、と。遂に涙が零れた。それは裂魔弦のものであり、巫謠のものでもあった。互いの目から決壊した雫はぱたりぱたりとそれぞれの身体に、床に落ちて、混ざって、どちらのものともわからなくなる。
ふたりして泣いて、笑って、すこし息苦しくなって、そうして息継ぎをするように、呼吸を教え合うように、また唇を重ねる。触れて、離して、また触れたくなって、もっともっとと欲が募る。身体がなくてはわからなかった。お前がいなければ知ることはなかった。これまでの道のりは、全てこの瞬間に辿り着く為にあったのだと、熱に浮かされたような想いが巡る。夢心地に似た高揚の中、情動のままにもう一度唇を寄せ合って――――
――――くしゅんっ
『…………』
夢が音を立てて弾けたように、その一瞬で、熱を孕んだ空気は霧散した。
ぽかん、と呆けた顔で互いを見つめ合うこと数秒。そして、込み上げた衝動のままに裂魔弦は吹き出した。そのまま大笑いする裂魔弦につられるように、巫謠も喉の奥で押し殺しきれなかった笑い声を零す。笑って笑って、笑いすぎてまた違う種類の涙が出る。
「だぁから言っただろ?! 閉めねえと寒いって!!」
未だ抑えきれない笑いの衝動に腹を抱えながら告げれば、べしりと強めに頭を叩かれた。そのまま巫謠は窓辺へと向かうと、八つ当たりのようにぴしゃりと、半端に開けられていた障子を閉める。しかし行動ほどその表情は怒ってはいない。おそらくあれは照れ隠しだろう。それを証明するように、かつかつと戻ってきた巫謠は勢いよく裂魔弦に抱きつきながら牀榻へと転がり込んでみせた。裂魔弦を抱き枕に、不貞寝を決め込む態である。
もう一度爆笑したくなる衝動を必死に堪えながら、手繰り寄せた毛布を肩まで掛けてやり、宥めるようにその背を叩く。じろりと剣呑な光を湛えた翡翠に睨みつけられたが、ちっとも怖くはなかった。むしろ可愛い。
「焦らずにいこうぜ、浪。俺達には、まだまだこれから、いくらでも時間があるんだからよ」
そう笑いかければ、じ、と数秒睨まれた後、やがて諦めたように瞼が落とされた。態度は完全に不貞腐れているが、その両腕はずっと裂魔弦の背に回されたままなのだから、どうしたって可愛いとしか思えない。眠る体勢に入った相方を見、裂魔弦はそっとその前髪をかき分け、顕になった額の傷跡に唇を寄せた。
「――おやすみ、巫謠」
告げる声は、自分でも胸焼けがしそうなくらい甘ったるい音をしていた。
そう、焦ることはない。この心の中身を全て伝えるには一日では到底足りない。そしてそれは、日々を重ねていくほどにいや増していき、ふたりが共にある限り際限なく湧き出していくのだろう。それでも、ふたりは言ったのだ。全てを知ってくれと。だからその全てをこの心に刻むまでは離れられない。
さて、はたしてそれは巫謠が望んだ『自由』に反することだろうか。けれどもこれは間違いなく、それぞれの『自由』な意志で選んだことでもある。
だから明日になったらまず最初に教えよう。望ましい『不自由』も、この世には確かにあるということを。それは何処にでも行けるがゆえに何処にも留まれないような『自由』より、余程幸福なものであることを。
『自由』に動く手足が無かろうと、『不自由』であろうと、浪巫謠と共にあるならば『聆牙』は確かに『幸い』であったのだと。巫謠と共にあるためならば喜んで『不自由』を選ぶ――お前の声が生み出した、お前の為の『牙』は、そんな一途な魂の持ち主なのだと、まず最初に理解してもらおう。
そんな未来に想いを馳せながら、眠りを覚えた器物の化身は、この世で唯一の人を大切に腕にしまいながら、上機嫌に目を閉じたのだった。
返事は無いと思っていたのに、くぐもった声で小さく「おやすみ」と返した巫謠に、愛おしいやら可笑しいやらで裂魔弦が再び大笑いし、牀榻から蹴り落とされるまで、あとすこし――