無題 その年の夏も茹だるような暑さで、黄色いコンクリートの道路には真昼の日差しが照り付けていた。
とぼとぼと、坂道をのぼる。
滑降する。
また歩いてのぼる。
そして、滑降する。
園長が子供から取り上げたものを保管している物置で、偶然見つけてくすねてきたスケートボードで、この夏、アカギは滑降を繰り返していた。
自分でもどうしてこんなに飽きもせず繰り返しているのかわからなかったが、やめる理由もなかったし、だいいち、ありえないほど退屈で、暇だった。
中学校の夏休みが始まる前、アカギがベッドに隠していたたばこと金を、施設の園長が見つけて取り上げた。およそ中学生には似つかわしく無いほどの金は、ギャンブルで手に入れたものだ。夜毎こっそりと抜け出して深夜徘徊するうち出会った南郷という男が、飲み屋で気まぐれにアカギにポーカーを教えたことがきっかけとなり、その豪運に入れ込んだ大人たちに連れられて、アカギはいまや半分違法な賭場にまで出入りするようになっていた。新しいルール、新しいゲーム。退屈は確かに紛れたから、他のことよりは気に入っていた。けれどアカギにはギャンブルというものが、今ひとつ何が楽しいのか、わからなかった。
反抗的なアカギ専用のお気に入りの折檻をやり終えた園長は、荒くなった息をしずめながら、陰湿な笑みを浮かべているように見えた。そして、優しさたっぷりの声色で、夏休みの間中アカギの外出場所は大人が決めたいくつかの”お行儀の良い”場所のみ許可し、夕食以降の外出は認めない、という罰則を言い渡した。アカギは力の入らない体で黙ってそれを聞いていた。
監視用に持たされたGPS付き携帯電話を図書館の隅の水飲み場の裏に置くと、アカギはいつもの坂道へと向かう。人がちらほら通る田舎の住宅地といった風情の通りの、見逃してしまいそうな目立たない路地に入って、短いトンネルを抜けると、そこが長い坂のふもとで、道路のように舗装されて道幅は広いが、車はおろか、この何もない場所に入ってくる人間はほとんどいない。
ごーごーと足に地面と走るタイヤの振動を感じて滑り降りながら、アカギはもう一度地面を蹴って下り坂を加速した。
スピードを出せば出すほど、カーブを曲がり切るのはきつくなる。数え切れないほど転んだ。何度かは壁に激突したこともある。うまく曲がりきるときもあった。自分がコツを掴んだのがわかったし、それなりに達成感も感じはしたけれど、やはり自分が求めているのはもっと違う何かだという気がして、一層もどかしい。
十数回目の滑降で大きなカーブを描きながら坂道のふもとが見えてきたとき、ちょうどアカギがゴールする場所に、人が立っていた。
スピードのついたボードをガリガリと音を立てて乗り捨て、飛び出すように地面に降りる。その音で気がついたのか、その男はこちらを向いた。少し長めの髪の、細身の男で、学生服に似合わない濃い色のサングラスを掛けていた。
「よう、市川さん」
「アカギか」
のろのろとボードを回収して、アカギは男のもとに向かった。
市川はこの町の公立高校の三年生で、落ち着いた物腰の青年だった。車で登校し、使用人の付き添いが常に側にいるのは、裕福な家の養子だから、という理由のみではない。
市川は今のアカギとおなじ13歳のときに、事故で失明した。その事故が何であったのか、さまざまな憶測がこの町の狭い世間をとびかったが、誰も事故そのものを見たという者は現れず、人々の噂話は曖昧な調子にとどまり、市川が物静かで行儀の良い青年であることも手伝って、それにしても可哀想にというありきたりな感想で締め括られるしかないのだった。
けれど、アカギは知っている。市川は銃で失明したのだ。自らに向かって撃った銃の暴発で。初めて会った夜、市川が自ら語った真実だった。
その時同時にこの男の素の姿は物腰柔らかでも、行儀がいいわけでもないことも知ったのだが、さて今、目の前の市川は───なんというか、間抜けだった。
「アンタ、何してんの?」
「買った」
「だろうね」
片手に学生鞄と白杖を提げ、もう片方の手でなぜか似合わないコンビニのソフトクリームを持ち、指先にはタバコを挟んでいる。ソフトクリームはもちろんこの暑さで溶けて、だらだらと骨張った手に既に滴りはじめている。
「溶けてるぜ」
「んなことわかってる」
そう言って優雅にタバコのほうをくわえて吸いこむ。
「いつものお付きがいないじゃん」
「コンビニで、まいた」
あまり要領を得ない会話だなとアカギは思った。聞きたいのは、どうして一人でそんな間抜けな姿で自分の前に立ってるのかということなのだが。
「……まあ、いいけど。制服でタバコ売ってもらえるトコ、俺にも教えてくれよ」
「ガキが煙草なんて吸うな、馬鹿。」
「ほんと、つまんねえな。あのメガネに買わせたんだろ、どうせ」
市川の付き添い役は大抵家の使用人が当番で行っているが、たまに都合がつかなくなると運転手の中野という眼鏡をかけた、影の薄い地味な中年男が、付き添いも兼任することになっていた。この男は運転手の仕事のかたわら、それなりに借金もあるにも関わらず、ギャンブルをやめることができずにずるずると賭場に出入りするような生活を送っていた。ある夜、やくざやそれに類する人間が集まるような店で麻雀を打ち謝礼を貰う市川を見かけた中野は、よせば良いのに家のものにばらされたくなければ金を寄越せとと市川を強請ろうとしたが、逆に雇い主、つまり市川の養父の金をこっそりかすめてはギャンブルに費やしていることをネタに脅し返されて、今やすっかり男子高校生の従順な犬として首を垂れるしかなくなっているのだった。
「たまには、こういうモンが食いたくなる。……中野のやつ、火つけますよなんて言うから、珍しいと思ってつけさせてやったんだが、あの野郎吸いながら食えるわけねェじゃねえか。どうりでなんかニヤニヤと嫌な声だと思ったんだ」
「眺めて楽しむつもりだったんだろ」
市川はサングラスの向こうからじろりとアカギのほうを睨んだ。もしかすると、案外困っているんだろうか。
「市川さんって、たまに抜けてる。なんか、実践的な生活力ってやつがない」
「うるせえな。じゃあほら、やるよ。冷たくて甘いぜ」
「誰がいるか。タバコの方よこしなよ」
はー、とため息をついて市川はタバコをアカギに譲り、鞄を置いて腕をまくると、ようやく溶けたソフトクリームの先を吸った。
「ところで、お前しばらく、あの辺の店顔出さなかったじゃねえか。出て行ったかそれとも死んだかと思ってな」
「ただの中坊が、出ていくも何もないでしょ。死ぬほうがもしかしたら確率あるかも」
「またやられたのか」
「おまけに、一文なしになった」
「可哀想になあ」
「思ってないくせに」
__________
坂道は、長くゆるやかなカーブを描いていて、三メートルほどの高い壁が道に沿ってそびえている。
昔、この長い壁の向こう側には海に面して大きな刑務所があったのだ。市川の生まれる十年以上前の話で、現在は跡地が線路となって使われているが、無力感すら覚えるような高さのコンクリートの壁に遮られ、海も線路も、何も見えなかったことを、視力を失った今も覚えている。
この町に駅はなく、海の匂いと、時折通過する電車の走行音だけが、湿った風に乗って届く。
市川がアカギという少年に出会ったのは一年前のことだった。どうしてこんな子供が賭場に辿り着いたのかはわからないが、なんでも髪が根本から真っ白で、豪運の持ち主だという。髪の色はわからないが、ギャンブルについては天賦の才といってもよい程のものを市川も感じた。ただの運だけではなく、大変賢く、大人より豪胆であった。だが本人は大勝ちしても一向に喜ぶことはなく、相変わらず退屈そうな顔をしてまるで他人事のようにしているらしい。その晩、それを面白くなく思った半分ヤクザみたいなチンピラが、もっと取り返しの効かない代償のある賭けをしよう、それならこのガキも必死になるはずだ、と言った。負けた側の爪を剥ぐルールが提案され、アカギを連れてきた南郷という男は必死で反対したが、当の本人はあっさり了承、あっさりと勝ち、半グレの泣き叫ぶ声が聞こえた後、その場には何となく怯えたような、白けた空気が漂った。市川は中野に少年を連れてくるよう命じると、手探りでタバコに火をつけた。他人と話そうと思ったのは随分久しぶりだった。
図書館に寄って帰るというアカギに付き合って歩きだす。傾き始めた太陽が西日へと変わり、町の全てをオレンジに染める。
「可哀想と、思ってなくはない。殴られるのは痛くて辛いからな。でもお前金には興味ないだろう。どうせ使い道だってないんだ」
「あるし」
「家出か?」
アカギは少し考えているようだった。
「まあ、そうといえばそう、なるのかな」
「どこか親戚でもいるのか」
「多分いない」
「ふーん」
珍しくアカギの話にしては曖昧だったが、たしかに、いつか出ていくという思いで心を支えていなければ、あんなところでは一秒も生きて行けないだろう。自分の意思や自由というものにほとんど執着をしていないように見えるこの少年が見せた欲に、市川は興味を持った。
「じゃどこに行くつもりなんだ」
「ん……海」
「海?」
予想外の子供らしい答えに、思わず笑いが漏れたが、アカギは気にする様子もなく話を続けた。駅のないこの町から出るには、車を使うしかないが、1日かけてバス停のある街まで徒歩で向かい、そこからバスに乗る予定だったという。13歳の子供の足ではかなり厳しい道のりだと思えた。
読書感想文でも書くのかと思ったが、図書館に着くとアカギは真っ直ぐ水飲み場に向かい、給水機の裏に手を突っ込んで携帯を取り出した。"保護者"はGPSでアカギを見張っているのだろう。この賢く抜け目のない子供に対してはあまりにも間の抜けた策だ。
「本当は夏休みに入ってすぐ、行くつもりだったんだ。それも、ただの海じゃない」
「へえ?」
「夜。夜の海、行ってみたいんだ。……この様でしばらく無理そうだけど」
アカギはプラプラと携帯を揺らしてみせた。
「しばらくというと、どのくらい」
「ま、あと3日だな。一応夜中も見張られてるんだけどさ、大人ってすぐ油断するから」
「大人を舐めるな。お前んとこのは大人の中でも特別にアホな種類だ」
「度を越して口が悪いところが市川さんの長所だよ」
あ、でも抜け出せたところでバス代がないや、とアカギが笑った。
「何これ」
「貸してやる。いらないならいい」
「……」
白く幼い手が市川の手から札を抜き取り、サンキュ、と言ってポケットにくしゃりと突っ込む音がした。
__________
【市川に借りた金も園長に取られたアカギを夜道で拾った市川 運転手が運転する車で海へ向かう2人】
海へと向かう道は上下が激しく、崖に沿って曲がりくねっている。アカギが車に酔ったかもと言い出して、放っておけばいいと思ったが、中野は嫌そうな顔をして車を停めた。アカギは道端で吐いた。市川はどうしてか、急に心が冷めてゆくのを感じた。
何をしているんだろうか。好奇心にしても情けにしても、こんなこどもに付き合って、振り回されて。
弱い者に同情するような自分ではこれまで到底生き延びてこられなかった。それは身寄りを失い光を失ってからの市川の人生の決まりごとで、これから先もずっとそうだ。養父の庇護と援助が得られるのは高校卒業まで、つまりあと8ヶ月足らずだと言い渡されている。彼らが遠い親戚の子である市川を養子にしたのは世間体のための慈善行為でしかなく、つながりは形だけで、責任を果たしたと見るや、世話ばかりかかる市川はあっさりと厄介払いをされる。別にいいと思っている。そんなことはずっと前から知っていたし、そもそも表でまともに生きていく性分など持ち合わせていなかった。市川は卒業と同時に代打ちのスカウトを受けると決めていた。勝ち続ければ、大事に扱われる。
苦しそうにえずいている少年の痩せた背を適当にさすると、冷蔵肉のように冷たかった。
初めてなにかがおかしいと思った。
__________
【夜の海に入っていくアカギ。市川の嫌な感覚が一層増し、間違いを犯したことに気づく】
濡れた冷たい手で、手首を掴まれた。
その瞬間、市川の見えない目が未来の自分を見た。ざっと血の気がひき、足元はふらついて、ジャバジャバと波音が立ち、そのまま崩れるように海面に尻もちをついた。
この少年に海を見せてはいけなかった。
ようやくわかった。あの高く厚く人を無気力にさせる壁の意味。
壁が、アカギと海を決して交わらないように隔てていた。
駅が無いから、アカギは町から出ようと考えることさえ諦めてきた。
市川は自分の迂闊さに眩暈がした。あの坂道を、壁の前を、アカギが何度も行ったり来たりし始めたことこそ警鐘だと、気がつくべきだったのだ。育ちきって手遅れになるまで、少年がいくら本能で求めようとも、蛹になることさえ教えず、無知のまま、幼虫のままで飼い殺しておかなければいけなかった!
波間でいまだ覚醒の余韻に茫洋とするアカギを放置して、市川は四つん這いになり波の方向を必死で確かめながら浜に戻った。荒くなった息をなんとか鎮め、冷たい手で砂浜に置いた学生鞄を探り、アカギが飲まなかったペットボトルの水の蓋を開けて錠剤を入れた。記憶の中でその水が青くなっていくのを眺め、口に含むと、意を決してもう一度海に入った。
夜明け前の国道を滑るように走る心地よい車内で、眠るアカギが市川の肩にもたれている。運転席の中野が不安と好奇を含んだ目でこちらを盗み見ているのがわかったが、それも全く気にならないほど疲れていた。
今さら壁の内側に連れ帰っても無駄だ。アカギは蛹には戻らない。羽化を止めるには命を奪うしかない。いつかアカギと出会ったことを、生かしておいたことを心から後悔するだろう。それでも殺さなかった。市川の血にも、匂い立つほどの濃い狂気が、たった一滴、混じっている。