「せーんせ!」
放課後、人気もまばらな廊下に響いたのは変声期途中のしゃがれた声だった。声が出しづらいのだろう、歪に揺れる声音は少し苦しそうで、菅原は十数年ほど前に迎えた自身の第二次成長期に思いを馳せる。しゃがれた声の主は、菅原が受け持つ現代文のクラスの生徒だ。及川が所属するクラスの担任ではないので、授業以外での関わりはない。しかし、どうしてかすっかり懐かれて、授業中・休み時間・放課後問わず「先生、先生」と菅原の姿を見つけると花が咲いたように笑い、駆け寄ってくる。ついこのあいだは、体育の授業中にグラウンドから2階にいる菅原に声をかけてきて、すぐそばにいた「懐かれていますね」と化学教師に笑われた。この化学教師はいかにも好好爺といった人だから良かったが、学年主任などに見つかったら「生徒との距離が近すぎる」とどやされていたかもしれない。
「及川、廊下を走らない」
「はぁい」
ドタドタと勢いよく走る生徒を教師として嗜める。菅原まであと二メートルほどの距離だったが、及川と呼ばれた生徒は注意を素直に受け、勢いを落とした。上履きがリノリウムの床と擦れ、キュッと小さく鳴いた。及川の鳶色の髪がふわりと揺れる。
及川は綺麗な子どもだった。容姿というよりは纏っている空気だろうか。遠くからでも目を引く。友人も多く、人に囲まれていくところをよく見る。生徒間の色恋沙汰にはノータッチだが、「何組の誰それが及川に告白した」「振られた」「付き合った」「別れた」などの噂が教師の耳にも入ってくる。パッと見たところ同世代より少し大人っぽい雰囲気があるから、注目を浴びやすいのかもしれない。人懐っこい雰囲気は教師の間でも評判だ。悪い噂は聞いたことがない。
残り二メートルほど、及川は走らないように、競歩と小走りギリギリのスピードで菅原のもとへやってきた。最近また背丈が伸びたようで、以前より少し目線が近くなった。生徒の成長を間近で見られるのは教師の特権だ。ふとした瞬間に、おがったなあ、としみじみする。少しずつ、大人になっていく反面、菅原と目を合わせ、へへへと笑う姿は年相応で可愛らしかった。