ねぇ、こうちゃんいつのまにか眠っていたようだった。
日曜の昼下がり、暖かな春の空気に包まれて菅原はすっかり眠くなってしまった。ぼんやりとした頭と気怠い身体に逆らうことなく、居間にあるソファーに深く腰掛け、微睡むこと早一時間。せっかくの休日が……と、のろのろ身体を起こすが、左手だけ自由が利かず、立ち上がるまでには至れない。仕方がないかと半開きになったベランダへと続くガラス扉のほうを見る。すると、網戸越しにベランダの手すりの上をするりと通るかたまりが見え、菅原は二十代の頃に暮らしていたアパートを思い出した。同じようにベランダの手すりの上を滑るかたまり。斑ら模様を歪ませながら手すりの上を器用に歩くのは、菅原の住むアパートの、二軒先の戸建てで飼われている猫だった。さぞ良いものを食べているようで、外を出歩いているのにも拘らず毛並みが良く、水晶玉のような瞳はきらきらと輝いていたのを覚えている。いつだって仏頂面をしているその猫はどこか及川の幼馴染である岩泉を彷彿とさせるため、菅原は勝手に「岩泉」と呼んでいた。それに対し、及川は「スガちゃんさあ、よく見て!岩ちゃんはもっと愛嬌ある顔してるし!」と遺憾の意を示したが、菅原がそれを受け入れることはなかった。そもそもこの猫が家人に「ミーコ」と呼ばれていることを知っている。それでも、菅原にはもう岩泉にしか見えないので「岩泉」なのだ。
閑話休題。春うらら、柔らかい陽光と、心地良い気温。半開きのガラス扉から飛び込んでくる風には、沈丁花の匂いが乗っている。テレビニュースを観ればお天気情報と一緒に桜の観測状況の知らせが入り、ここ一週間ほど春の訪れに落ち着かない自分がいた。毎年春がやってくるけれど、いつだって鮮明に蘇るのは高校を卒業した三月のこと。強引に及川に制服デートの約束を取り付け、一日中連れ回した。思えばあれは一生分の制服デートだった。何せ通っている学校が違った。付き合い始めたのは良いけれど互いにバレー漬けの毎日。大会で会えば敵同士だ。部活を引退すれば、今度は受験が待っていたし、受験が終われば新生活に向けた準備に追われ、あれよあれよと言う間に春になった。
「俺の今日一日、スガちゃんに全部あげる」
そう云って、あの日の及川は朝から晩まで付き合ってくれたっけ。
閑話休題。春の陽気に誘われて家を飛び出した子どもたちのはしゃぐ声が耳に届く。バタバタと賑やかな、それでいて重さを感じさせない複数の足音。あれは確か菅原が赴任した二つ目の小学校。スポーツに力を入れている学校で、野球にサッカー、バスケットボールなど、地元のチームに所属している子どもたちが多かった。バレーボールも然り。たまたま帰国していた及川が仕事終わりの菅原を迎えにきて、ちょっとした騒ぎになった。菅原の傍らに立つ及川を中心に輪が出来上がり、「でっか!」「スガセンの知り合い?」「スポーツやってる?」「バレー?」「プロの選手?」「強い?」「チームどこ?」「サーブ打って!」「トス上げて!」など、四方八方から子どもたちの声が飛び交った。子どもたちの勢いに目をパチクリさせる及川の顔に、菅原は珍しいものを見たとクスリと笑ったが、すぐさま子どもたちを制するべく声を上げようとする。すると及川は菅原のほうを見てウインクをひとつ。それから子どもたちに向かって、「よーし、一人一本ずつだけ相手してやろう!」と言い放つ。大歓声のち、子どもたちはガッチリと、ひと回りもふた回りも大きい及川の手を掴み、体育館へと走っていった。遠ざかる及川に「ごめん!」と菅原が叫べば、及川はくるりと振り返って胡桃色の目をゆるりと細めながら「スガちゃんの可愛い生徒たちのためだかんね」と笑った。この頃から、及川の目尻に笑い皺が浮かぶようになったのを覚えている。
閑話休題。春うらら、柔らかい陽光と、心地良い気温。半開きのガラス扉から飛び込んでくる風には、沈丁花の匂いが乗っている。おまけに、すぐそばの路地で遊んでいるであろう子どもたちの声が聞こえて、菅原はふっと笑った。菅原の左隣には、ソファーに深く腰掛け、ぐんにゃりと背もたれに頭を乗せて天を仰いでいる男が一人。すうすうと穏やかな寝息を立て、気持ち良さそうに眠っている。鳶色の髪が風に吹かれてそよりと揺れ、額に前髪が触れてくすぐったいのか、時折もぞりと身じろいでいた。
まあるいおでこが可愛い。菅原よりも上背があり、ひとまわりほど厚みのある身体。それでもあどけない寝顔は可愛らしく、好ましく感じた。そうっと右手を伸ばし、額をくすぐる前髪を避けてやる。何せ菅原の左手は、男の右手にぎゅうと捕まえられている。動かせないのだ。起こさないようにと繋いだ手を動かさないよう細心の注意を払っていたが、顔にかかった手の影に気がついたようで、長いまつ毛がふるりと揺れたあとゆっくり瞼が上がり、ぼんやりとした胡桃色の目が菅原を見つめた。一回、二回と瞬きをし、「こうちゃん」とほんの少し掠れた、寝起きの声が菅原を呼ぶ。寝起きもまああどけないこと。起きちまったもんはしょうがないと菅原はわしわしと鳶色の髪を撫で、「徹」と子どもを寝かしつけるような柔らかい響きで及川の名前を呼んだ。
「わり、起こした」
「ん、大丈夫。むしろ寝ちゃってごめんね」
「疲れてたんだろ、まだ寝てな」
つい先日、及川は日本にやってきたばかりだ。高校卒業後、単身アルゼンチンへ。鳴かず飛ばずの期間がありつつも、腐らず己を研鑽し続け、アルゼンチン代表として国際大会に出場すること数回。バレーに焦がれ、愛し、ひたむきバレーと向き合う姿を、遠くから、近くから、菅原も見てきた。どんなに選手にも全盛期があり、それを過ぎれば過渡期に入る。身体が資本のスポーツ選手は顕著だ。現役を退き、十数年ぶりの長い休暇を持て余した及川は、遠路はるばる生まれ故郷へ帰ってきた。三日ほど実家で過ごし、以降は菅原の家に入り浸っている。そして気がつけばよく眠っていた。菅原が思うに、頭の中を整理しているのだろう。これまでの人生で、バレーをしていなかった時期のほうが短い。
「んにゃ、流石に寝過ぎなので起きマス……」
ここで漸く菅原の左手が解放された。ずっと繋がっていた手のひらに空気が入り込み、少しずつ籠った体温が放たれていく。及川はのろのろと起き上がったのち、まず両手をぐっと前に伸ばし、それから今度は上に向かって上体を伸ばした。及川の身体は胸も腕も菅原よりもずっと厚みがあり大きい。もともと恵まれた体躯ではあるが、トレーニングを欠かさなかった及川の努力の結晶でもある。及川が選手として過ごしてきた期間は、ひと癖もふた癖もある連中が揃ったことから、『黄金世代』を通り越して『妖怪世代』と呼ばれた。『妖怪世代』略して『モンジェネ』。菅原からすれば、及川も紛れもなくモンスターの一員であると思うのだが、如何せん、揃うのは秀才ではなく天才たちだ。ゆえに「全員倒す」と長きに亘り、モンスターたちと渡り合い、心身は摩耗しきっている。だから、ゆっくり過ごせば良いと、菅原は昼夜問わず及川が昏昏と眠り続けても文句は云わなかった。
「ねぇ、こうちゃん」
身体を伸ばし切った及川は、一度立ち上がり、ソファーに深く掛け直した。ウェイトもそこそこあるので、及川が座り直した拍子に菅原はバランスを崩し、意図せず及川に身体を預けるようなかたちになった。それを甘えられたと勘違いした及川は「ふふふ」と小さく笑って満足げに、自身にもたれている菅原の肩に手を回す。「これ、勘違いされてるな」と思いつつも菅原が素直にそれを受け入れれば、こてんと菅原の頭に及川の頭が寄りかかった。甘え甘えられ三十代半ば、心地良い関係を構築できたとしみじみ思う。肩に回されたのとは反対の手を捕まえ、にぎにぎと弄びながら、ふと、ひとつの疑問が菅原の頭に浮かぶ。
及川が菅原を「こうちゃん」と呼ぶようになったのはいつからだろうか。少なくとも二十代の頃は、互いに名字で呼び合っていた。ときおり、睦事の際に名前で呼ばれることはあったが、それ以外は高校時代から一貫していたはずだ。
「なあ」
「んー、なあに?」
「お前っていつから俺のこと、名前で呼んでた?」
爽やか君。菅原君。スガちゃん。初めは妙なあだ名から始まったが、思い返せば少しずつ距離が縮まっている。赤の他人から恋人にまで発展したのだからそりゃあそうだが。そうでないと困る。でも思い出そうとしても、菅原の記憶のなかの及川は、いつだって『スガちゃん』と呼んでいることが多い。
「えー?」
パッと菅原の頭から重量が消えたかと思えば、ぴったりくっついていた身体が離れる。そして目をまんまるにした及川が菅原を覗き込む。一秒、二秒と短い沈黙のあと、及川の胡桃色の瞳がじっとりと湿度を含んだのがわかった。眉根をわざとらしく寄せ、唇をつんと尖らせ、いかにも不機嫌ですと言った表情だ。菅原は何が気に障ったのかわからず、ほんの少したじろぎ、そんな菅原の様子を見て、及川は愉快そうに笑った。
「まあ、そういうとこも好きだけど」
ほんの少しだけ恨めしそうな声を出しつつ、及川の手が菅原の頬に伸びる。及川の爪は、現役を引退した今も綺麗に整えられている。まあ習慣だよね、と菅原の家に来てからもときたま、やすりで爪を整えていた。手の甲でするりと頬撫でられ、滑らかに滑る爪の感触がくすぐったかった。何処となく蠱惑的に「教えてほしい?」と問われれば、菅原は素直に頷くほかない。ふふふ、と微笑む姿に「こんなAVあったな」なんて雑念が過ぎったところで、ぎゅむっと頬を抓られ、菅原は悲鳴を上げた。
「内緒、教えてあげない」
たてたてよこよこ丸描いてちょん。縦横無尽に引っ張り回されたのち、菅原の頬は解放された。まるで容赦がなかった。頬の痛みで縮こまる菅原をよそに、「さーて、散歩でも行くかなあ」と及川はソファーから立ち上がった。日曜の昼下がり。春うらら、柔らかい陽光と、心地良い気温。絶好の散歩日和。半開きのガラス扉から入り込んだ沈丁花の甘い香りを吸い込みながら、及川はあのときのことを思い出しながら、また、ふふふと微笑んだ。