医者アナ穹 彼を思うのならそうっとしておいてやれと今しがた言われたことを思い返しながら、アナイクスは路地裏で見つけた彼の様子を観察していた。
ここはアナイクスが働いている病院の近く。彼が病室から抜け出し向かった先が一体どこなのかと思ったが薄暗いその裏路地に用があるような人間だったのかと意外な一面にまだまだ向き合わなければならないことがあるなと小さく息を吐いた。
近くもない距離からでは彼らが何をしているのか確認は出来ず、言葉さえも聞こえてこない。危ない目に合う前に彼を連れ戻してしまいたいアナイクスは早々に足を動かしたい反面、彼を知る数少ない機会に巡り合えているこの場面をもう少し見ていたいとも考えていた。
さてどうするかと踏みとどまっていると、背中を見せている相手とどうやら話がつかなかったのか、その人物は彼の胸元を掴み上げると今にも殴りかかりそうであった為、反射的に駆けてしまったアナイクス。
すぐに近くまで辿りつくと息を整え話しかける。
彼にはなるべく傷を付けないように病院まで戻る算段をしながらそれでも相手に掛ける言葉の強さは変えずに。
「失礼。その子は私の患者です。放していただけますか、手を」
その言葉で振り向いた彼の顔など覚えなくとも問題はない。それよりも肩越しに見える彼に視線を注いでいると、誰が来たのか理解した彼は分が悪いようで視線を逸らしてしまう。
「はっ、本当にお前がこいつの主治医なのか?」
「ええ。私が」
もしかすればそれは、アナイクスの表情が強張っていたからかもしれないが、それを本人は気付いていないため安易に視線を避けられ先に口を挟みたいところを我慢し、いつまでも放す気配のない彼にきつい視線を送れば、怖気ついたのか舌打ちと共に手が放れる。
思っていたより乱暴な人間ではないのだろうとは感じたがそれでも気を緩めずまずはここから立ち去ることを優先にその人間へと話し始める。
「何かあなたの気に触れるようなことを言いましたか」
「そういうんじゃねぇよ。何も喋らねーくせにその生意気な目で俺を睨んでくんだよ」
「……」
つまりは理由などない。ただの逆ギレだ。
これ以上目の前の人間を煽ってそれこそ喧嘩にでもなると面倒であるためアナイクスは口を閉ざすしかなく当たり障りのない言葉でここを後にしようと彼を呼んだ。
「穹。行きますよ」
掴み上げられた襟元の生地は放されたあとも元に戻らず、首元が大きく開いてしまったそのシャツを気にする様子はない穹と呼ばれた人物。
何をしにここに来たのかは知らないが、相手も彼に用があった訳ではないようでならば勝手に忍び込んだのだろうと思考しつつ、穹に手を伸ばす。
その手に気付き、けれど掴むわけでもなく静かにこちらへと移動する。
相手の隣を通り抜ける際もその視線は地面へと向いたままで。それに対して相手は何も思っていないように見えたアナイクスは「うちの子がお邪魔しました」とだけ伝えると、強引に手を引きその場を後にした。
追ってこないとも限らないので背後を気にしつつ陽射しの当たる場所へと顔を出せば、やっと解放されたような気分になり歩みを緩める。
「一人になりたかったのなら、もっと良い場所を教えますよ」
隣を歩く彼にそう伝えたが、こちらを振り向く様子もなくただ前を向いて歩くだけ。
手は振り払われていないだけマシかもしれないとアナイクスは返答の無い彼から視線を外し同じく前に見える仕事場へと足を動かした。
「おお帰ってきた」
開いた自動ドアの右手側、少しの空間と長椅子が設置してあり、壁にはいくつものお知らせが貼り付けられていてそれを眺めていたであろう人物が二人に気付き声を掛けてきた。
大柄な身体にアナイクスが着ればオーバーサイズの白衣が彼の身体にはぴったりと羽織られている。その首に下げたIDカードからも彼がここの医師であることは明白だ。
いかにも昔はスポーツをしていたかのような彼の笑顔は太陽のように明るい。
「どうした穹。今回も失敗か?」
そう穹の頭をがしがしと撫でまわす彼を見ながら、また始まったとアナイクスはため息ひとつ。
どう考えてもその行動を気に入っているわけではないはずの穹も、されるがままその場を動かないので休憩がてら奥にある自販機へ行くと伝え背を向ければ「俺たちの分も!」と元気な声が響き手をひと振りすることで応えとし、三人分のドリンクを購入すると元の場所へと戻った。
撫でまわし終わったのか、二人はその長椅子へと腰を降ろし何か話している。
「どうぞ」
「お、そうそうこれを飲みたかったんだよな」
「あなたはいつもそれ一択でしょうが」
「そうともいう!」
「はあ、穹」
名前を呼び、手に持っているお茶の缶を手渡せばその表情が少しだけ曇る。
その理由も、アナイクスは分かっていて「今はそれしか飲めませんからね」と付け足した。
「薬の日だったんだろ? なら仕方ないよな」
柔らかい彼の声に、穹も大人しくそれを口にしはじめる。
はたから見れば医者二人に挟まれ横一列に座る彼らは目立っているだろう。しかも入口付近ということもあり人の入れ替わりも多い。
だがここではどうもそれが日常のようで、常連の人たちやこの病院で働く人たちにとってはその光景こそ平和だなと感じる瞬間なのだそうだ。
「それで、今日は路地裏か。お前はよくそんな場所知ってるな」
「探す身にもなってほしいですよまったく。あなたのお陰でこの近辺の隙間という隙間を知り尽くせそうです」
「はは、そうすれば穹のこともすぐ見つけられるかもな!」
「できればそうはなりたくないですが」
穹を挟んで話す二人の会話を、彼は静かに聞いていた。確かに耳を傾けているのは分かっていて二人も気にすることなく続けていると、じっとしていた穹の右手が自らの右頬に軽く二度触れ次に右手を立てて左手の甲を軽く叩く。そうして立ち上がり振り返るようにアナイクスへと少しだけ視線を寄越す。
「はあ、では私も戻ります」
「そうだな俺もせっかくの休みだ! 今日は早めに家に帰るか」
「早々と帰っていればいいものを」
「そういうなよ俺との会話も楽しかったろ穹?」
「彼に答えを求めるのは止めなさい」
「ひどいなまったく~ま何かあれば連絡してくれ」
「そうならないことを祈ってますよ」
そうして彼と別れ穹とアナイクスは病室への道を歩いていく。
素直に隣を歩く彼を見て、何度目か分からないため息を心の中で吐き出した。
仕事中だということは決して忘れている訳ではない。
突き当りのエレベーターに乗り込み3階へと。