眼鏡「やあ、○○○。こんなところで合うなんて奇遇だね」
繁華街を歩いていたら、不意に後ろから声がした。ゆったりして落ち着いた雰囲気の、変声期前の男の子の声だ。聞き慣れない声なのに、どこかで聞いたことがあるような気がする。恐る恐る後ろを振り向くと、そこにはアカデミアの制服に身を包んだ男の子が立っていた。
すぐには誰か分からなくて、僕は大きく瞬きをする。視線を少し上に向けて、ようやく正体に気がついた。三つ編みにまとめたブラウンレッドの長い髪に、真っ直ぐに僕を見つめる緑の瞳。その姿は、紛れもないルチアーノのものだった。
「まさか、僕を忘れたなんて言わないよね。君の一番のパートナーなんだから」
にやにやと笑いながら、彼はからかうような笑みを浮かべる。いつもの甲高い笑い声ではなく、落ち着いた含み笑いだった。聞き慣れない声色に、少し不思議な気分になる。アカデミアに潜入している時の彼は、いつもこんな感じなのだ。
「忘れてないよ。ちょっと、すぐには分からなかっただけで。その姿の時は、いつもと雰囲気が違うから」
僕が言うと、彼は不満そうに鼻を鳴らした。いつものように眉を寄せると、苦々しい顔で僕を睨む。その姿でいつもと変わらない表情をされるのは、物凄く奇妙な気分だった。
「なんだよ。僕のことが好きなら、一目でそうだって分かるだろ。本当は、嘘を吐いてるんじゃないだろうな」
「そんなことないよ。僕は、ルチアーノのことが何よりも好きなんだから」
真っ直ぐに言うと、彼は少し恥ずかしそうに顔を伏せた。僕の脇腹をつつきながら、右隣に寄り添う。
「声が大きいよ。馬鹿」
文句は言っているが、一緒に帰るつもりみたいだ。僕が先へと歩き出すと、黙ったまま隣をついてくる。アカデミアの優等生を演じているからか、歩き方もいつもと違う気がした。
僕がすぐにルチアーノだと気づけなかったのは、彼がアカデミアの制服を着ていたからだけだはなかった。今日のルチアーノは、黒縁の眼鏡をかけていたのだ。太くてがっしりとしたプラスチックのフレームは、彼の緑の瞳を小さく見せている。視界に映る印象の違いに、すぐにはそうだと確信できなかったのだ。
「それにしても、ルチアーノが眼鏡をかけてるなんて珍しいね。いつもだったら、そのままの姿をしてるでしょう?」
僕が尋ねると、ルチアーノはこちらに視線を向けた。黒い線に囲まれた瞳が、真っ直ぐ僕に向けられる。レンズに度が入っているのか、彼の瞳はかなり小さく見えた。
「これかい? これは、潜入のための小道具だよ。眼鏡をかけていると、人間には優等生に見えるんだろう?」
楽しそうに笑いながら、ルチアーノは僕に言葉を告げる。演技じみた物言いはいつもより大人びていて、心臓がドキドキと鳴った。なんとか平静を装うと、内心を悟られないように返事をする。
「そうだね。賢そうに見えるよ」
僕の言葉を聞くと、彼はくすくすと笑った。こうして大人しく振る舞っていると、その姿は綺麗な学生の男の子にしか見えない。思わず見蕩れていると、彼は目敏く言葉をかけてきた。
「そんなに見つめてどうしたの。もしかして見蕩れてるのかい?」
図星をつくような質問を投げられ、僕は反論ができなかった。元々する気もなかったから、素直な感想を語る。
「そうだよ。すごく、綺麗だなって思ったから」
「君は、堂々と恥ずかしいことを言うね。羞恥心はないのかい?」
畳み掛けるように言われて、少し恥ずかしくなってしまう。今の彼に言われると、それが正しい意見のように感じてしまうのだ。ルチアーノの余裕綽々な態度が余計に恥ずかしくて、今度は僕が頬を染める。
「いいでしょ。本当のことなんだから」
僕の態度が面白かったようで、ルチアーノはおもむろに距離を詰めた。顔と顔が近づきそうなほどに近づくと、嬉しそうに声を潜める。
「それにしても、君がこういう趣味だったなんてな。気に入ったなら、明日からも眼鏡をかけて来てやろうか」
いつも通りの声だった。容姿に不釣り合いな甲高い声が、僕の耳に突き刺さる。からかわれているような語調に、返事をする声が慌ててしまった。
「違うよ。慣れない姿だから見蕩れてただけで、眼鏡がいいとかじゃないんだ。それに、いつもの方があどけなくてかわいいし……」
口に出してから、しまった、と思った。勢いに乗って、彼の嫌がることを口走ってしまった気がするのだ。案の定、ルチアーノは不満そうに言葉を吐く。
「なんだよ。普段の僕が子供っぽいって言うのか?」
「そういう意味じゃなくて……」
必死に弁解しようとするが、説得力はどこにもない。不満を露にするルチアーノは、弁解のしようがないほどに子供っぽかったのだ。僕が口ごもっていると、彼は畳み掛けるように言葉を続ける。
「なんだよ。そう思ってるんだろ。全く、失礼なやつだな」
そこまで言われてしまうと、これ以上の弁解はできない。どうせ図星なのだからと、大人しく認めることにした。覚悟を決めると、思いきって素直な言葉を吐く。
「確かに、子供っぽいとは思ってるよ。子供っぽいのに大人なところがあるから、ルチアーノは魅力的なんだ」
「誉めてるのか貶してるのか分からないな。罰として、しばらくはこの格好で君の家に行ってやる」
露骨に眉を寄せながら、ルチアーノはそんなことを言う。どんなルチアーノも愛おしいから、姿が変わったくらいではデメリットにはならないのだけど、それは言わないでおくことにする。僕がこの姿のルチアーノに下心を向けていると知られたら、何を言われるか分からないのだ。
「ごめんって。ルチアーノのことを子供だと思ってるわけじゃないんだよ。信じて」
必死に言葉を重ねるが、彼はそっぽを向いてしまう。あからさまな態度ではあるが、この程度ならすぐに機嫌を直すだろう。つんと済ました横顔を眺めながら、僕は苦笑いを浮かべた。