合言葉「ルチアーノに、お願いがあるんだ」
ベッドに腰を掛けると、僕は小さな声でそう言った。隣でゲームをしていたルチアーノが、怪訝そうに顔を上げる。ちらりとこちらに視線を向けると、気のない声で返事をした。
「なんだよ」
「えっと、これなんだけど……」
少し緊張を含みながら、僕は手にしていたチラシを彼に差し出す。そこに書かれていたのは、とあるキャンペーンの広告だった。目の前で揺れる広告を、ルチアーノが乱暴な態度で受け取る。黙って目を通すと、あからさまに眉を釣り上げた。
「はあ?」
甲高い声を響かせながら、彼が僕に視線を向ける。その表情を見て、僕は背筋が冷える思いがした。彼の映し出した表情は、どう見ても不機嫌だったのだ。
「えっと、そこに、キャンペーンの情報が載ってるよね? それをもらってきてほしいんだ」
嫌な予感を感じながらも、僕は思いきって言葉を続けた。僕を見つめるルチアーノの瞳が、さらに冷たい煌めきを宿す。これは、相当怒りに触れてしまったみたいだ。覚悟を決めて返事を待っていると、案の定鋭い声が飛んでくる。
「君は、僕がこんなことを言うと思ってるのか? 店で働いているってだけの、見ず知らずの一般人に? そんなこと、冗談でも言うもんじゃねーぞ」
やはり、相当なお怒りの様子だった。無理難題を頼んでいるのだから、そんな態度になって当然だろう。しかし、今回は僕も引くつもりはない。しっかりと手を握り締めると、真正面から彼に向き合う。
「嫌なのは分かってるよ。でも、手伝ってほしいんだ。このカードの効果は、僕たちのデッキと相性がいいんだよ。ショップで買ったら高くなるだろうから、お店でもらっておきたいんだ」
「だからって、僕にこんなことを言わせる気か? こんな辱しめ、僕は絶対にやりたくないね。君が言えばいいじゃないか」
「僕じゃダメなんだよ。説明を見たら分かるでしょ。このキャンペーンは、小学生以下が対象なんだから」
そっぽを向いてやり過ごそうとするルチアーノを、僕は必死で説得しようとする。この機会を逃したら、カードの入手難易度は上がってしまうのだ。できれば、キャンペーンで入手してもらいたい。
僕が持ってきたチラシは、このような内容だった。明日から、全国の玩具売り場でカード配布のキャンペーンが始まる。小学生以下を対象としていて、チラシに書かれている合言葉を店員に伝えると、カードを出してもらえる仕組みらしい。チラシに書かれている合言葉と言うのが『モンスター召喚』というものだった。
つまり、こういうことである。このチラシに書かれているカードをもらうためには、ルチアーノに合言葉を言ってもらう必要があるのだ。裏道で入手した人が転売していたり、ショップに並ぶこともあるのだろうけど、できれば正規の方法で入手したい。それには、小学生の男の子の協力が必要なのである。
「嫌なもんは嫌だね。頼むなら、龍亞や龍可を頼ればいいだろ。僕は大人なんだ、そんな恥ずかしいことは言えないよ」
必死に懇願する僕を横目に、ルチアーノは淡々と言葉を吐く。チラシをベッドの上に投げ捨てると、再びゲームに手を伸ばしていた。耳に響く電子音を聞きながらも、僕はルチアーノに向かって頭を下げる。自分の目的のためなのだ。恥を気にしている余裕などなかった。
「お願い。そんなこと言わないで、協力してよ。一生のお願いだから、この通りだよ」
「そんなこと言って、何回一生のお願いを使ったんだ? 子供じゃないんだから、一生のお願いはひとつだけにしなよ」
真っ正面から正論を言われて、僕は言葉に詰まってしまった。そんな僕を見て、ルチアーノはきひひと笑う。
「自覚はあるんだな。なら、おとなしく諦めろよ」
「それは嫌なんだよ。お願いだから、協力して! ルチアーノのお願いも聞くから!」
必死に頼み込むと、ルチアーノは嬉しそうに顔を上げた。瞳を怪しく輝かせると、僕の方に視線を向ける。自分が何を口走ったのか分からなくて、漠然とした不安が胸を満たした。
「ふーん。僕のお願いを聞いてくれるんだ。どんなことをしてもらおうかな」
にやにやと笑いながら、ルチアーノは僕に詰め寄る。明らかに悪いことを考えている笑みに、後悔が押し寄せてきた。軽い気持ちで口走ってしまったが、彼の要求はいつも恐ろしいのだ。こんな恥ずかしいことを要求したら、何が返ってくるか分からない。
「お願いを聞くって言っても、ルチアーノが協力してくれたらだよ」
なんとか言い返すと、彼はきひひと笑い声を上げる。僕を好き勝手できることが、彼には嬉しくて仕方ないみたいだ。乗ってきてくれるのは嬉しいが、反動が怖くもある。
「分かったよ。その代わり、約束は絶対に守ってもらうからな。何をやらせようか、今から楽しみだぜ」
楽しそうに笑いながら、ルチアーノは再びゲーム機を手に取る。カードの入手は確約されたが、自分の身は不安だった。
おもちゃ売り場のレジ付近は、沢山の子供で賑わっていた。おもちゃを手にレジに並ぶ子供や、キャンペーンのために店員に声をかける子供が、一斉にレジを囲んでいるのだ。店内の密度に気圧されたのか、ルチアーノが不安そうに僕を見上げる。
「なあ、本当に行くのかよ」
そう尋ねる声は、不安そうに揺れていた。昨日はあんなに自信満々だったのに、面白いほどに気分が落ちている。とはいえ、約束は約束だから、守ってもらわないといけない。
「早くしないと、カードがなくなっちゃうよ。僕に言うことを聞かせたいなら、声をかけに行かないと」
僕に急かされ、ルチアーノは黙って動きを止めた。レジ付近を睨み付けたまま、何かを考えるように俯いている。しばらくもじもじと足踏みをした後に、思いきった様子で顔を上げた。
「分かったよ」
緊張した様子でレジに近づくと、カウンターで作業をしていた女性の前で足を止める。おずおずと相手を見上げると、小さな声で呟いた。
「モンスター召喚……」
恥ずかしそうな様子のルチアーノに、店員さんが明るい笑みを見せる。カウンターの引き出しを開けると、中から一枚のカードを取り出した。
「デュエルモンスターズのカードですね。どうぞ」
手渡されたカードを受け取ると、ルチアーノはそそくさとその場を去る。僕の元に帰ってきた時には、頬が真っ赤に染まっていた。袋に包まれたカードを突きつけると、不満そうな声色で言う。
「ほら、もらってきてやったぞ」
「ありがとう」
カードを受け取ると、大切に鞄の中にしまった。ルチアーノが恥を忍んでもらってきてくれたカードだ。大切にしなくてはならない。とはいえ、デッキは二人分あるのだから、もう一枚もらっておきたいのが本心だ。恥ずかしそうに俯くルチアーノに視線を向けると、様子を窺うように尋ねてみる。
「あのさ、もう一軒分、もらってくれたりする?」
「絶対に嫌だからな!」
返ってきたのは、勢いの良すぎる即答だった。店内に響き渡る甲高い声に、近くにいたお客さんの視線が集まる。さすがに恥ずかしかったのか、ルチアーノは声を抑えた。
「こんな辱しめ、二度もやってたまるか。そんなにほしいなら、君が言いに行きなよ」
「僕じゃあもらえないんだって。でも、本当にありがとう。助かったよ」
僕が言うと、彼は恥ずかしそうに下を向く。両手を固く握り締めると、喉の奥から絞り出すような声を出した。
「覚えてろよ。帰ったら、散々君を辱しめてやるからな」
そういえば、この約束は僕がお願いを聞くことを前提に交わしていたのだ。僕のせいで恥ずかしい思いをしたのだから、彼も同じくらい恥ずかしいことを要求してくるだろう。何を求められるのかを考えると、少し気分が重くなる。
「お手柔らかにお願いします……」
僕にできることは、要求の軽減を祈ることだけだ。ルチアーノと並んで歩き出しながら、僕はこれからのことを憂うのだった。