うたた寝 リビングに足を踏み入れると、僕はソファに腰を下ろした。身体が鉛のように重くて、立っているだけで精一杯だったのである。クッションが沈み込む感触を味わいながら、背凭れに身を乗り出して息をつく。
「今日は、ちょっと疲れたな」
そんな僕の姿を見て、ルチアーノがきひひと笑い声を上げた。僕の隣に腰を下ろすと、からかうような仕草で頬をつつく。
「なんだよ。これくらいでへばるなんて、君は体力が足りないな」
「そりゃあ、ルチアーノにとっては大したことないかもしれないけどさ……」
小さな声で呟きながら、僕は天井に視線を向けた。身体が疲れきっていて、喋ることすら億劫だったのだ。気の抜けた僕の態度を見て、ルチアーノは呆れたように息をついた。
「僕が強かなんじゃなくて、君の体力が無いんだよ。世間のプロデュエリストとやらは、これくらいのトレーニングくらい平気だぞ」
「えー。本当かなぁ? 話を盛ってるんじゃないの?」
左側の頬をつつかれながら、僕は彼の発言を訝しむ。彼はなんでもないことのように言っているが、実際はものすごいトレーニングだったのである。長距離のランニングから始まり、あらゆる筋トレをやらされたのだ。おかげで、明日は確実に筋肉痛になるだろう。
「本当だぜ。このメニューは、君が買ってきたデュエル雑誌のインタビューを見て組んだんだから」
隣に座るルチアーノは、相変わらず楽しそうに笑っている。彼のことだから、わざと平均よりもきついものを選んでいるのだろう。そういうことを平気でやるのが、ルチアーノという男の子なのだ。
再び大きく息をつくと、僕はゆっくりと目を閉じる。トレーニングの緊張が解けたら、なんだか眠くなってしまったのだ。目を閉じてしまったことで、身体は急速に眠りの世界へと落ちていく。身体を前に傾けると、うとうとと船を漕いだ。
「おい」
小さな声と共に、頬に何かが触れる気配がする。クッションが軋む音が聞こえるのは、ルチアーノが身体を揺らしているからだろう。何度か頬をつつかれるが、僕は瞳を開かなかった。今度はルチアーノの方に身体を傾けて、彼の肩に頭を預ける。
「何してるんだよ。起きろって」
さすがにやりすぎだったのか、今度は頬を叩かれた。あまり容赦をされなかったのか、ぱちんと小気味よい音がする。目の覚めるような衝撃が走った後に、少し遅れて痺れが伝わってきた。
「何するの。意地悪だなぁ」
瞳を開けて抗議すると、彼は横目で僕を睨む。おおよそ子供とは思えない、冷めた視線が僕に突き刺さった。こうして正面から向き合っている時は、どっちが年上か分からなくなる。
「そんなに眠いなら、風呂に入ってから寝たらいいだろ。とっとと身体を洗ってきな」
こうも最もなことを言われてしまうと、僕は反論すらできない。少しの間を開けると、重い身体を引きずって席を立った。
「分かったよ。お風呂に行ってくるね」
ふらつく足取りで部屋から出ると、自分の部屋で着替えを取り出す。来た道を戻って洗面所へと向かうと、汗を吸い込んだ服を脱ぎ捨てた。
浴室に入ってシャワーを捻り出すと、温かいお湯を身体にかけていく。湯船にお湯を張るのは面倒だったから、シャワーだけで済ませることにした。シャンプーで髪の汚れを落とすと、ボディーソープで身体の汗を流していく。全身を流し終わる頃には、気分もさっぱりと晴れていた。
バスタオルで身体と髪を拭いてから、用意していた寝間着で身を包む。廊下に足を踏み出すと、爽やかな夕方の風が流れ込んできた。リビングを目指す足取りは、行きの何倍もしっかりしていた。シャワーで全身を洗い流しているうちに、眠気が消え去ってしまったのだ。
「上がったよ」
リビングに足を踏み入れると、僕はソファに向かって声をかける。こうして入浴の順番を知らせることが、僕たちの習慣になっていたのだ。返事が返ってきたことを確かめてから、自分の用事に移るのである。しかし、この日に限っては、少し様子が違っていた。
ソファに座っている後ろ姿から、返事が聞こえなかったのだ。確かにそこにいると分かるのに、ルチアーノが返事をしないのである。これまでも何度か先にお風呂に入っているが、こんなことは一度もなかった。不思議に思って、僕は彼の方に歩み寄る。
「ルチアーノ? どうしたの?」
何気なく顔を覗き込んで、思わず口元を押さえてしまった。ソファに座っているルチアーノは、すやすやと寝息を立てていたのだ。呼びかけに答えなかったということは、完全にスリープモードになっているのだろう。さっきは強気なことを言っていたが、彼の身体も疲労を感じていたのだ。
手で口元を押さえたまま、僕はその場に立ち尽くす。下手に動いて音を立てると、ルチアーノを起こしてしまう可能性があったのだ。僕に寝顔を見られたと知ったら、彼は機嫌を損ねるだろう。そうなったら、痛い思いをするのは僕の方なのだ。
彼の様子を窺おうと、僕は目の前に視線を向ける。ルチアーノは、ソファに座ったままの状態で目を閉じていた。機械だからなのか、頭が下を向いたりはしていない。正面に立っている僕からでも、その綺麗な顔がよく見えた。
こうして眠っていると、彼の姿はただの男の子にしか見えなかった。表情の恐ろしさは息を潜め、幼さを残した顔立ちだけが写し出されているのだ。睡眠によって体温が上がっているのか、頬はほんのりと赤くなっている。長い髪を背中に垂らしているから、女の子のようにも見えるくらいだった。
こうしてしばらく観察しても、ルチアーノが起きる気配はない。小さく息を吐くと、足音を立てないようにソファから離れた。長い廊下を通り抜けると、自分の部屋の電気をつける。迷わずに向かっていくのは、一番奥にある押し入れだ。扉を開けると、引き出しの中から毛布を取り出した。
両端を掴んで広げると、汚れがついていないかを確かめる。幼い頃から持っているものだから、見えない汚れは残っているのかもしれない。仕舞う前に洗濯をしているから、まあ大丈夫だということにしよう。一応匂いを嗅いでみたけど、特におかしなところはなかった。
毛布を小脇に抱えると、僕はルチアーノの元へと戻った。しばらくその場を離れていたが、彼に動いた気配はなかった。運び込んだ毛布を広げると、眠っているルチアーノの足元にかけてあげる。機械には必要ないかもしれないが、僕がそうしてあげたかったのだ。
音を立てないように離れると、僕は自分の部屋へと向かう。珍しくルチアーノが眠っているのだから、そのまま寝かせてあげたかった。僕も疲れきっているし、早めに眠ることにする。廊下の電気を消すと、僕は布団の中に潜り込んだ。
目が覚めると、室内が眩い光に満たされていた。一度瞳を開いてから、強烈な眩しさに目を閉じる。布団に潜り込みながら時計を見ると、時刻は十一時を指していた。ルチアーノが起こしてくれなかったから、昼過ぎまで眠ってしまったらしい。
室内の明るさに目が慣れると、僕は布団から這い出した。大きく真上に伸びをしてから、自室を出てリビングへと向かう。昨日は軽食を食べただけだったから、お腹が空いて痛いくらいだ。買い置きの冷凍食品があるから、解凍して何かを食べることにする。
リビングに足を踏み入れると、ルチアーノがソファに座っていた。さすがにもう眠ってはいなくて、テレビに視線を向けている。僕の足音を聞くと、さりげなく視線をこちらへと移動してきた。でも、それも一瞬で、またすぐにテレビに戻ってしまう。
少し気不味い空気の中で、僕は冷凍庫の引き出しを引く。買い置きのピラフを取り出すと、お皿に広げて電子レンジに入れた。温まるのを待っている間に、箸を取り出してテーブルを拭いた。それでも時間が余ったから、冷蔵庫から冷たいお茶を取り出す。
そうこうしている間に、レンジが軽快な音を立てた。熱くなったお皿を取り出して、テーブルの上へと運んでいく。お米を口に運んでいると、ソファの方から声が聞こえてきた。
「…………なあ」
「……どうしたの?」
答える声は、少し緊張してしまう。飛んできたルチアーノの声が、少し湿っていたからだ。機嫌を損ねてはいないものの、不満を抱えているのだろう。しばらくの間を置いてから、彼は湿った声で言葉を続けた。
「どうして、起こしてくれなかったんだよ」
直接的な問いに、僕は言葉を失ってしまう。口だけではなく、スプーンを動かす手も止まってしまったくらいだ。こうして尋ねているということは、誤魔化しなど許してくれないのだろう。覚悟を決めると、小さな声で言葉を返す。
「ルチアーノが、気持ち良さそうに寝てたから」
「そんなの、理由になってないだろ。毛布まで残していくなんて、子供扱いしやがって。おかげで、こっちはエネルギー不足だぜ」
不満そうに言葉を吐いて、ルチアーノは大きく息を吐く。特に意味のあることを言うわけではないが、恥ずかしさを言葉で吐き出したいのだろう。ここからは見えないが、頬はぷっくりと膨らんでいるはずだ。そんなところを子供みたいだと思うのだけど、余計に怒らせるから口には出さない。
「ルチアーノにも、ちゃんとした睡眠があるんだね。機械だから、全部一緒なんじゃないかと思ってたよ」
「当たり前だろ。君の端末だって、充電しながら操作したら時間がかかるはずだ。バッテリーも痛むし、いいことなんてないんだよ」
「あぁ、そう言われたら、なんか分かった気がする」
つまり、昨日のルチアーノは、画面をつけっぱなしで充電したみたいなものなのだ。充電も不十分だし、動きも重くなっているだろう。システムは機械的な動きをしているのに、人間と同じような反応が出ているのが面白かった。
「分かったかよ。これからは、充電モードになってたら起こせよ」
ルチアーノの声を聞きながら、僕は再びスプーンを動かす。十分も経たないうちに、お皿の中は空っぽになった。食器を持ってシンクに向かうと、水を捻る前に言葉を発する。
「でも、僕はちょっと嬉しかったよ。ルチアーノが、僕の家でうたた寝してくれて」
発した言葉を隠すように、僕は蛇口から水を流す。ソファの上のルチアーノの背中が、驚いたように小さく跳ねた。慌てた様子でこちらを振り向くと、僕の顔を睨み付けてくる。
「はあ? そんなんじゃねーよ!」
彼は否定しているが、頬はほんのり赤く染まっていた。僕の家で油断をしていたことは、彼も自覚しているのだろう。本来であれば、戦闘用のアンドロイドとして生まれた彼は、人前で隙など見せないのだ。リビングで寝顔を見せてくれたということは、心を許してくれたという意味である。
ルチアーノの赤い頬を眺めながら、僕はこっそり口角を上げる。こっそりと思っているのは僕だけで、本当はバレているのかもしれない。怒ってこないのは、羞恥心を堪えているからだろうか。
「ここは僕の家だけど、ルチアーノの家でもあるからね。いつでも眠りに来ていいんだよ」
「要らねーよ。あんまり調子に乗ってると、ぶっ潰すからな」
からかうように言葉を重ねると、彼は威勢のいい言葉を返す。言葉選びとは裏腹に、声色はいつもより柔らかかった。どれだけ隠そうとしても、感情の変化が滲んでしまっているのだろう。そんなところが可愛くて、余計に笑みがこぼれてしまうのだった。