モーニング「今日は、モーニングを食べに行かない?」
ラジオ体操を終え、家へと帰る道中で、僕はルチアーノにそう言った。僕の言葉を受け止めるように、隣を歩いていたルチアーノがこちらを向く。言葉の意味を知らなかったのか、眉は平行に歪められていた。背後に見える空は青く澄んでいて、入道雲が点々と浮かんでいる。
「モーニング?」
耳を貫くような甲高い声で、ルチアーノが言葉を繰り返す。博識な彼にしては珍しく、本当に分からないらしかった。少し誇らしげな気持ちになりながらも、僕は言葉の意味を説明する。
「モーニングって言うのは、喫茶店のサービスだよ。朝の決まった時間に実施されてて、ドリンクを頼むと、セットでパンやゆで卵がついてくるんだ」
「時間帯限定のセットみたいなもんか。僕は聞いたこともないけど、本当にやってるのか?」
「やってるお店もあるんだよ。発祥はこの辺りじゃないから、ルチアーノはあんまり知らないかもしれないね」
言葉を交わしているうちに、家の玄関へと着いていた。片手で鍵を開けると、家の中へと足を踏み入れる。クーラーをつけてはいないものの、室内は少しひんやりとしている。タオルで汗を拭うと、僕は端末を手に取った。
「近くだと、このお店がモーニングをやってるみたいだよ。ドリンクの料金でパンとサラダがついてきて、料金をプラスすることでパンケーキやワッフルに変えたりもできるんだって。ドリンクはジュースでもいいみたいだから、コーヒーが飲めなくても大丈夫だよ」
「悪かったな。コーヒーが飲めなくて」
僕の言葉を聞いて、ルチアーノは不満そうに視線を逸らす。余計な一言を加えたせいで、機嫌を損ねてしまったみたいだ。端末の画面を閉じると、僕は取り繕うように言葉を探す。
「そういう意味じゃなくって…………! よかったら一緒にどうって言いたかったんだよ」
僕の必死な様子を見て、ルチアーノも疑問を感じたようだった。僕に視線を向けると、眉を平行にしたまま尋ねる。
「どうして、そんなにモーニングにこだわるんだよ。パンとコーヒーだけなら、家でも用意できるだろ」
「そうだけど、せっかく早起きをしたんだから、喫茶店に行きたいんだよ。いつも僕が起きる時間だと、モーニングには間に合わないから」
そう。モーニングの提供時間は、その多くが十時から十一時で終わってしまう。僕は昼近くまで眠ってしまうから、こうして早起きをした朝じゃないと、モーニングサービスを受けられないのだ。
僕の返事を聞いて、ルチアーノはにやりと口角を上げる。からかい甲斐のあるネタを見つけて、機嫌を直してくれたのだろう。きひひと甲高い笑い声を上げると、瞳を細めて僕を眺める。
「ふーん。つまり、普段の君は早起きができないから、ラジオ体操のついでにやりたいことをやろうとしてるんだな。ここで断るのもかわいそうだから、特別についていってやるよ」
恩着せがましい言い方だが、ルチアーノは快く認めてくれた。普段から何だかんだ言っているものの、僕のお願いは聞いてくれるのだ。彼の方に身体を向けると、誠意を込めてお礼を言う。
「本当? ありがとう」
「なんだよ。そんなに嬉しかったのか? まあ、君には僕以外に誘う人がいないみたいだからね」
にやにやと笑みを浮かべながら、ルチアーノはからかうように言葉を重ねる。それが照れ隠しであることも、僕には手に取るように分かった。
そのお店は、徒歩で十五分ほど歩いたところに立っていた。さっきよりも高くなった太陽に照らされて、僕の背中は汗びっしょりになってしまう。せっかく新しい服に着替えたのに、こんなに濡れてしまったら台無しだ。Dホイールで行けば楽なのだけれど、朝から騒音を立てるのは憚られたのだ。
古民家風の建物に歩み寄ると、僕は恐る恐る扉を開ける。こういう個人経営のお店は、開いているか分からないことが多いのだ。不安に思いながら中を覗き込むと、若い女の子が姿を表した。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二人です」
「二名様ですね。では、こちらの席にどうぞ」
明るい声で応答すると、女の子はお店の奥へと歩いていく。僕とあまり年が変わらないみたいだから、夏休みのアルバイトなのだろう。僕は昼過ぎまで寝てしまうのに、働く若者たちは早起きだ。そんなことを考えながら、僕は椅子に腰を下ろす。
お店の中は、クーラーで隅々まで冷やされていた。肌を濡らしていた汗が、急速に僕の身体を冷やしていく。喉がからからに乾いていたから、運ばれた水を喉に流し込んだ。機械であるルチアーノは、平然とした顔で窓の外を眺めている。
「ルチアーノは、何を食べたい?」
手元にメニューを広げながら、僕はルチアーノに声をかけた。個人経営のお店らしく、メニューブックは手作り感溢れる装丁だった。市販のクリアファイルブックの中に、ラミネートされた紙が挟み込まれているのだ。何枚かページを捲ると、ドリンクメニューにたどり着いた。
喫茶店らしく、一番上にはコーヒーが並べられていた。一口にコーヒーと言っても、いくつか種類があるらしい。ブラックコーヒーの下に並ぶのは、カフェオレやココアのようなミルク系だ。さらに下に並んでいるのは、品種ごとに分かれた紅茶だった。
「僕はカフェオレにしようかな。ルチアーノはどうする?」
メニューを差し出しながら尋ねるが、ルチアーノは窓の外を眺めたままだ。ちらりとメニューに視線を向けると、すぐに視線を離して答える。
「オレンジジュース」
いかにも興味の無さそうな、ぶっきらぼうな声だった。答えてくれているということは、朝食そのものは嫌ではないのだろう。喫茶店にはあまりぶどうジュースがないから、少し物足りなさを感じているのかもしれない。
「じゃあ、オレンジジュースで注文するね。モーニングは、普通のトーストセットでいい?」
確認するように尋ねると、首を傾けて肯定する。自分のモーニングメニューは、追加で百円かかるワッフルにした。甘いシロップがついているから、カフェオレとよく合うだろう。店員さんに声をかけると、注文内容を伝える。
「カフェオレとワッフルモーニングのセットと、オレンジジュースと普通のモーニングをお願いします」
注文を終えると、僕は再びメニューに視線を向ける。目的もなくページを捲って、そこに並べられたメニューを眺めた。このお店はワッフルとパンケーキが中心らしく、数ページにかけて並べられている。クリームやシロップのたくさんかけられたパンケーキは、見るからにおいしそうだった。
「ここのお店は、ワッフルが売りなんだって。今度は、通常メニューも食べに来たいな」
「君って、本当に甘いものが好きだよな。ちゃんと肉や野菜を食べないと、身体が育たないぞ」
僕の何気ない発言に、ルチアーノが鋭い言葉を投げる。心を見透かされたような気がして、僕は慌てて反論する。
「確かに、僕は甘いものが好きだけど、お菓子ばっかり食べてるわけじゃないよ。ちゃんと夜ご飯はお肉も食べてるし」
「それも、出来合いのものばかりだよな。たまには自炊しないと、栄養が偏るぞ」
さらに鋭い返事が帰ってきて、僕は言葉に詰まってしまった。どう答えるか考えていると、店員さんが料理を運んでくる。ルチアーノの注文したモーニングは、大きなお皿の上にトーストとミニサラダが乗せられていた。僕の頼んだワッフルモーニングは、サラダの代わりにヨーグルトが乗っている。当たり前のようにルチアーノの前に置かれたワッフルを、僕は黙って交換した。
「いただきます」
「……いただきます」
僕が手を合わせると、ルチアーノも同じように挨拶をした。おしぼりで手を拭くと、それぞれの料理に手を伸ばす。トーストにバターを塗るルチアーノを眺めると、僕は机の隅へと手を伸ばした。ケースからフォークとナイフを取り出すと、ワッフルを一口サイズに切っていく。
ワッフルの上には、果物がころころと転がっていた。通常メニューほどの量はないが、それでも十分な食べ応えである。メニューにはミニサイズと書かれていたが、実物は十分大きかった。
生地をシロップに絡めると、果物と一緒に口へと運ぶ。糖分たっぷりのメニューではあるが、甘さはそこまで強烈ではなかった。ワッフルの砂糖を少なめにして、シロップとのバランスを取っているのだろう。果物も瑞々しくて、口の中が幸せに満たされる。
「おいしいね」
視線を向けながら声をかけると、ルチアーノはちらりと視線を向ける。既にトーストのバターは塗り終えていて、手でちぎって口へと運んでいた。ただパンを食べているだけなのに、ルチアーノの仕草は美しく感じる。ついつい見蕩れてしまうと、湿っぽい声が飛んできた。
「なんだよ」
「いや、綺麗だなって」
「はあ?」
脈絡のない言葉だと思ったのか、ルチアーノが眉を平行に歪める。奇妙なものを見るような視線が辛くて、僕は黙って手を動かした。口が甘味でいっぱいになったら、カフェオレで甘さをリセットする。普段は摂取しないカフェインが、頭の中へ回っていく感覚がする。ルチアーノも口の中が乾くのか、時折ジュースを啜っていた。
山盛りに見えたワッフルも、すぐに終わりが見えてきてしまう。少し物足りない気持ちもしたが、それくらいが甘味の適量なのだろう。セットのヨーグルトを手に取ると、デザートスプーンで口に運ぶ。僕の予想通り、このヨーグルトは甘さ控えめだった。
残った果物をスプーンで掬うと、ヨーグルトの中に放り込む。ぐるぐると混ぜると、中身はシロップの混ざった斑模様になった。スプーンで掬い取って口に運ぶと、シロップの甘みが伝わってくる。ヨーグルトをかき混ぜる僕を見て、ルチアーノが呆れた声で言った。
「変な食べ方するなよ。恥ずかしいな」
「シロップが余ってたから、有効活用しただけだよ。残すのももったいないでしょ」
横目で見ながら答えると、彼は小さくため息をつく。既に食べ終わっているようで、空になったグラスをかき回していた。カラカラと氷が回る音が、僕の耳へと入り込んでくる。ヨーグルトの器を空にすると、容器を下ろして手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「……ごちそうさま」
小さな声ではあるが、ルチアーノも同じ言葉を返してくれる。こうしたやり取りもまた、僕たちの日常になりつつあるのだ。レジに向かって会計を済ませると、肩を並べてお店の外に出る。天空から降り注ぐ強い日差しが、今が夏であることを思い出させてくれた。
腕時計を見ると、九時を少し過ぎた頃だった。これから各地のお店が開いて、今日という一日が始まるのだ。昨日はルチアーノが任務だったから、今日の予定は決まっていない。せっかく町に出たのだから、このまま出かけるのもいいだろう。
「ルチアーノは、どこか行きたいところとかある?」
何気なく答えると、彼は顔を上げた。真顔で僕を見上げると、少しの間を開けた後に答える。
「そういう大雑把な質問は、逆に答えに困るだろ」
はぐらかすようなな答えに、僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。彼の言う通りではあるのだが、僕にはこの問いかけしか思い付かなかったのだ。
「そうなんだけど、それしか思い付かなかったから」
弁明するように言葉を返すと、僕は頭を巡らせる。どのように質問すれば、ルチアーノは答えてくれるのだろうか。考えてはみるものの、答えは思い付かない。僕が黙りこんでいると、彼の方から言葉を告げてきた。
「それなら、君の行きたいところに行けばいいんじゃないか? 今日のプランを考えたのは君なんだから」
「いいの?」
「たまには、パートナーの意思を尊重してやらないといけないからな」
にやりと口角を上げながら、ルチアーノはそんなことを言う。上から目線な言い方をしているが、要するに僕の自由を許してくれたのだ。それなら、今日のお出かけのプランは、全て僕が決めてしまおう。よほど変なところに連れていかなければ、ルチアーノも怒ったりはしないのだ。
行き先の候補を思い巡らせながら、僕はルチアーノの手を握る。握り返される手の感触に、確かな信頼を感じた。