湯たんぽ ビルの扉を開けると、冷たい風が流れ込んできた。冬らしく乾いた冷気が、僕の身体の周りを駆け抜けていく。予想以上の冷気に驚いて、僕は慌ててコートを閉じた。少し前まで夏の陽気を残していたのに、一気に寒くなったものだ。ふとそんなことを考えた後に、もうすぐ十二月であることを思い出す。
「おい、とっとと進めよ」
僕が立ち止まっていると、背後から声が飛んできた。思わず振り返ると、仏頂面のルチアーノが僕を見上げている。彼の身を包む白装束を眺めると、僕は首をすくめながら言葉を返した。
「分かってるけど、ちょっと勇気がいるんだよ。ビルの外が、すごく寒くなってるから」
「そんなの、冬なんだから当たり前だろ。異常気象のせいで、頭までおかしくなっちまったのか?」
冷めた瞳で僕を見ながら、ルチアーノは辛辣に言葉を並べる。早く建物から出たいのか、僕の背中を片手でつついた。かれこれ二時間近くショップに居たから、すっかり飽きてしまったのだろう。息を吐いて覚悟を決めると、僕は重たい扉を開けた。
容赦なく吹き付ける鋭い冷気が、正面から僕の身体を包み込む。ここがビルの間であることも、風を強める原因であるようだった。ビルとビルの間で巻き上げられた冷風が、僕たちを巻き込もうと絡み付いてくる。こんなにも冷えるのなら、厚手のコートを着てくればよかった。
「ほら、行くぞ」
そんな僕のことなど気にも止めずに、ルチアーノは手を伸ばしてきた。僕の凍えきった指先に、ルチアーノの温かい指先が触れる。手のひらと手のひらが絡み合うと、その熱ははっきりと伝わってきた。なんとかそこから暖を取ろうと、僕はもう片方の手のひらを重ねる。
「なんだよ」
がっしりと握手されるような体勢のまま、ルチアーノは怪訝そうに僕を見上げた。暗がりに輝く緑の瞳を、僕は正面から受け止める。突き刺さる視線は、手のひらとは裏腹に冷たかった。
「ルチアーノの手は温かいね」
僕が素直な言葉を告げると、ルチアーノは呆れたようにため息をつく。一度僕の手を振り払うと、もう一度片手を握り直した。
「なんだ。そんなことかよ。暖を取りたいなら、変なことしてないでとっとと帰りな」
黙って僕の手を引っ張ると、ルチアーノは路地の奥へと歩いていく。全身を冷たいビル風に晒されながらも、僕は大人しくその後に続いた。周囲に視線を向けると、商店街を通る人々は、皆が暖かそうな格好をしている。中には僕のように季節を間違えてしまった人もいて、寒そうに身体を縮めていた。
「今年も、やっと冬が来たんだね。この前まで夏みたいに暑かったから、冬なんか来ないと思ってたよ」
ルチアーノの手を握りしめながら、僕はそんなことを呟いた。さっきからずっと握っていたから、その手のひらは冷たくなり始めている。もう一度握り直したかったが、彼が嫌がりそうだからやめておくことにした。
「そうだな。近年は異常気象が続いてるから、冬の訪れが遅いんだ。そのうち、一年中夏が続くようになって、地球が壊れちまうかもしれないな」
僕の言葉に応じるように、ルチアーノはそんなことを語る。冗談のような声色だったが、僕には笑うことができなかった。地球がおかしくなっていることは、昨今のニュースで頻繁に取り上げられるほどの大問題なのだ。彼は未来を知っているから、その言葉も真実なのかもしれない。
僕が何も言えずにいると、ルチアーノは小さく鼻を鳴らした。呆れたようにため息をつくと、小さいがはっきりとした声で言う。
「冗談だよ。全く、君は何でも信じるんだな」
「そりゃあ、信じるに決まってるでしょ。僕からしたら、ルチアーノは未来を知ってる超人的存在なんだから」
「だからって、闇雲に信じる奴がいるかよ。そんなんじゃ、この世の中は生きていけないぜ」
鋭い言葉で窘められて、僕は言葉を失ってしまった。僕だって、誰彼構わず信じる訳ではないのだ。相手がルチアーノだからこそ、本当なのかもしれないと思ったのだから。でも、そんなことを語ったところで、彼は納得しないように思えた。
そうこうしている間にも、僕たちは家へと近づいていく。住宅街の小道を抜けると、遠くに家の屋根が見えてきた。吹き付ける寒さから逃れようと、僕は少しずつ歩みを早める。いつの間にか立場が逆転して、僕がルチアーノを引っ張っていた。
震える手で玄関の鍵を開けると、僕は室内へと歩を進めた。後ろ手で扉を閉めると、冷気から身体が隔離される。しかし、家の中に入ったからといって、身体が暖かくなるわけではなかった。冬の冷気に晒された建物は、室内まで冷たく冷えていたのだ。
「やっぱり、家の中も寒いね。これはエアコンが必要かな」
リビングに上がって荷物を置くと、僕はエアコンのリモコンを手に取った。赤外線発信部分を本体へ向けると、暖房のボタンを押してスイッチを入れる。スイッチの入った音が聞こえると、しばらくしてから本体が動き始めた。
リビングに温風が満ちるのを待ちながら、僕は手洗いとうがいを済ませる。水はなかなか温かくならなくて、余計に身体が凍えてしまった。強ばった手で水を止めると、まだ暖まっていないリビングに戻る。
リビングでは、ルチアーノがソファに座っていた。彼には寒さという概念がないのか、寒そうな格好でも平気な顔をしている。隣に座ると、服越しに温もりが伝わってきた。少し迷った末に、僕は小さな声で言葉を発する。
「ねえ、ルチアーノ」
「なんだよ」
隣から聞こえてくる声は、突き放すような響きを持っていた。少し怯みそうになるが、なんとか堪えて言葉を重ねる。
「寒いから、抱き締めていい?」
「はあ? 嫌に決まってるだろ」
僕の要求を聞くと、ルチアーノはあからさまに顔をしかめた。僕の動きを警戒するように、明らかに分かるように身を引く。わざわざそんなことをしなくても、僕は無理矢理抱き締めたりはしないのに。そこまで警戒の態度を見せられると、さすがの僕も傷ついてしまう。
「そんなこと言わないでよ。ちょっとだけだからさ」
なんとか説得を試みるが、彼は意思を変えなかった。さっきと同じように身を引いたまま、鋭い声で言葉を返す。
「嫌なもんは嫌なんだよ。なんで僕が、君の湯たんぽ代わりにならなきゃならないんだよ」
「湯たんぽにするつもりはないんだよ。ただ、ちょっと人肌に触れたくて」
「それが湯たんぽ代わりだって言ってるんだよ。君は、自分の立場を分かってるのか?」
どうやら、今日のルチアーノは、あまり機嫌が良くないらしい。どれだけ頼み込まれたとしても、僕に身体を許したくはないようだった。まあ、夜になればスキンシップができるから、今は大人しく身を引くことにする。
「分かったよ。じゃあ、夜にいっぱいぎゅってするね」
宣言するように言い残すと、僕はソファから立ち上がった。流れで座ってしまったものの、そろそろ夕食を取る時刻だったのだ。ルチアーノに背を向けてキッチンに向かうと、冷蔵庫から焼くだけの餃子を取り出す。
いつの間にか、室内はさっきよりも温かくなっていた。この気温だったら、調理をしているうちに体温が上がるだろう。ルチアーノの体温に触れなくても、この部屋は温もりに満ちているのだ。彼の暖かみを味わうのは、夜も更けた頃でいいと思った。