媚薬 夕食の片付けを終え、給湯器のお湯張りボタンを押すと、僕はソファに腰を下ろした。見るともなしにテレビを眺めながら、背凭れに身体を預けて息を吐く。今日のうちに終わらせておくべき家事は、これで一段落したことになる。後は機械が自動でお湯を張ってくれるから、僕たちはゆっくり待つだけで良かった。
ぼんやりと考え事をしていると、不意にルチアーノが歩み寄ってきた。僕の隣に腰を下ろすと、身体を少しこちら側に向ける。僕の様子を窺っているということは、何か言いたいことでもあるのだろうか。不思議に思いながら様子を見ていると、彼は思いきったように口を開いた。
「今日は、君にプレゼントがあるんだ」
予想外の言葉が飛び出してきて、僕は思わず視線を向ける。隣に座るルチアーノは、いつもより姿勢を正していた。からかうように口角を上げてはいるものの、表情は少し固くなっている。その発言がただ事ではないことは、彼の気配から伝わってきた。
「プレゼント? ルチアーノからなんて珍しいね。急にどうしたの?」
彼の緊張を解くために、僕は素直な感想を告げる。案の定、僕の発言が気に入らなかったのか、ルチアーノは表情を険しくした。鋭い瞳で僕を見上げると、お腹の底から出すような声で言う。
「なんだよ。そんな言い方をされたら、僕がプレゼントすら用意しない薄情者みたいじゃないか。君が異常に贈り物を貢いでるだけで、僕だって褒美はやってるだろ」
彼の贈り物が少なくはないことは、僕だってちゃんと理解していた。政治的な取引や賄賂を除けば、彼は贈り物を贈ったりなどしないのだから。つまり、プレゼントを受け取っているというだけで、僕は大切にされているのだ。
「そうだね。それで、プレゼントってどんなものなの?」
話の続きを催促すると、彼は呆れたように表情を緩めた。脱力した様子のその表情に、さっきまでの緊張は混ざっていない。大きく息をつくと、彼は気の抜けた声で言った。
「分かったよ。君から話を振ってきたのに、催促するなんてせっかちだな」
白装束のポケットに手を突っ込むと、ごそごそと中身を探り始める。しばらくすると、小さな箱を引っ張り出した。それは彼の手のひらに乗るほどのサイズで、赤いリボンがかけられている。一見すると、チョコレートか何かの箱のようだった。
「ほら」
目の前に差し出された箱を、僕は両手で受け取った。ひっくり返して裏側を見てみるが、特に何も書かれていない。箱の軽さから考えて、中身は小さなものなのだろう。封を閉じたリボンに手をかけると、隣でルチアーノが口を開いた。
「丁重に扱えよ。その中に入ってるのは媚薬なんだから」
「媚薬!?」
耳を疑うような言葉に、僕は箱を落としそうになってしまう。慌てて両手で持ち直すと、大きく深呼吸をした。手のひらの上で転がる小さな箱を、両の瞳でまじまじと見つめる。シンプルな包装からでは、中に媚薬が入っているなど想像もできなかった。
「ほら、とっとと開けてみな」
明らかに動揺する僕を眺めながら、ルチアーノはきひひと笑い声を上げる。彼に催促されて、僕は慌ててリボンをほどいた。胸を高鳴らせながら蓋をつまむと、震える手で持ち上げる。中に入っているものを見て、思わず動きを止めてしまった。
「これが、媚薬なの?」
真っ直ぐに視線を落としたまま、僕は静かに言葉を発する。そこに入っていたのは、二粒のチョコレートだったのだ。片方は丸い形をしていて、もう片方は四角い形をしている。しかし、どんな形状であったとしても、チョコレートはチョコレートだった。
ぽかんと口を開ける僕を見て、ルチアーノはきひひと笑い声を上げる。にやにやと目元を細めると、誘惑するかのような声色で言った。
「そうだよ。その昔、チョコレートは媚薬として扱われていたんだ。砂糖の入ってない苦いものを、スパイスと一緒に飲んでたんだぜ。この媚薬を味わえるのは、高貴な人々だけだったんだ」
楽しそうな声で答えると、彼は再び笑い声を上げる。しかし、どんな言葉を並べたとしても、目の前のチョコレートとは関係の無い話だった。様々な刺激に馴れた現代人にとって、当時の媚薬などほとんど効果がないのだ。
「それは、ずっと昔の話でしょ。今は普通にチョコレートを食べてるけど、媚薬効果なんて起きてないよ。ルチアーノにもらったチョコレートだって、普通のチョコレートなんでしょう」
訝しみながら言葉を並べると、彼はにやにやと口元を歪める。問い詰められているとは思えないほどの、裏のありそうな笑顔だった。そんな余裕綽々な態度を見ていると、少し疑いが生まれてくる。そんな僕の心を読んだかのように、彼はさらに言葉を重ねた。
「それはどうかな。このチョコレートに媚薬効果が無いなんて、決めつけるのは早いんじゃないのかい? まあ、せっかくだから食べてみなよ」
彼に誘導されるままに、僕はチョコレートに手を伸ばした。四角い方をつまみ上げると、一気に口の中に放り込む。真っ二つに割るように歯を立てると、中からはガナッシュが溢れだしてきた。甘くて滑らかな中にも、少しピリッとした感触がある。
「これは、スパイスの入ったチョコレートなの? ちょっと痺れる感じがするんだけど」
思ったままを口に出すと、ルチアーノは嬉しそうに口角を上げた。にやにやと笑みを浮かべると、からかうような声色で僕を誉める。
「よく分かったな。君の舌もなかなかに鋭いじゃないか」
「今の話を聞いたら、誰だってそう思うでしょ。昔の媚薬は、チョコレートとスパイスでできてたって言うんだから」
言葉を返しながらも、僕は二つ目のチョコレートに手を伸ばす。こっちも一つ目と同じように、中には甘いガナッシュが入っていた。蕩けるような甘さと同時に、舌を刺すような痺れを感じる。それが何の味であるのかは、僕にはよく分からなかった。
「こっちは、ちょっとよく分からないな。一体何の味なの?」
尋ねると、ルチアーノはきひひと笑い声を上げた。僕に視線を向けると、やはりからかうような声色で誤魔化す。
「それは、後でのお楽しみだよ。いったい、この媚薬はどれくらい効くんだろうな」
「もしかして、変なものが入ってたりしない? 怖いから教えてよ」
さらに問いを投げかけるが、彼は素材を教えようとはしなかった。そんなやり取りをしているうちに、給湯器からメロディが聞こえてくる。お風呂にお湯が入ったのだ。僕の隣から立ち上がると、ルチアーノが楽しそうに声を上げる。
「風呂が入ったな。とっとと行ってくるよ」
そのまま部屋を抜け出すと、着替えを取りに向かってしまう。タイミングが悪いことに、上手くかわされてしまったようだ。まあ、ただのチョコレートみたいだし、そんな変なものではないのだろう。少し不安は残ったが、あまり気にしないことにした。
身体に異変を感じたのは、それから十分ほど経った頃だった。体内で響く心臓の鼓動が、妙にうるさく感じたのである。始めは気のせいだと思っていたそれも、時が経つにつれて大きく激しくなってくる。一度自覚してしまったら、それは耐えられないほどに耳障りになった。
一度異変に気づいたら、違和感は次から次へと浮かんでくる。身体に伝わる自分の体温も、いつも以上に高い気がしたのだ。手のひらで頬に触れてみると、燃えるような熱が伝わってくる。頬に触れている指先だって、微かに震えているように感じた。
大きく深呼吸をすると、僕はソファから腰を上げた。収納から体温計を取り出すと、電源を入れて脇の下に挟む。しばらくそのまま待っていると、機械が微かな音を立てた。小さなモニターに表示された体温は、普段と少ししか変わっていない。
体温計を引き出しに戻すと、僕は再び息をついた。どう考えても、これはルチアーノの持ち込んだチョコレートの仕業だろう。彼が僕に食べさせたチョコレートに、身体の異変が起きるような何かが混ぜられてたのだ。そう考えるしか、この状況を理解する手段はなかった。
真っ直ぐにキッチンへと向かうと、勢いよく冷蔵庫の扉を開ける。中から水を取り出すと、一気に喉の奥に流し込んだ。胃の中のものが原因になっているなら、水分で薄めればましになるかもしれない。冷たいものが体内を流れる感触がしたが、それ以上の変化は起こらなかった。
再びソファに腰を下ろすと、僕は一人で思案する。ルチアーノが僕に食べさせた物体は、いったいなんだったのだろうか。たった二粒で身体が熱くなるなんて、ただのチョコレートだとは思えない。もしかしたら、本当に媚薬効果を持つものかもしれなかった。
一度意識を向けてしまうと、身体はどんどん熱を持っていく。全身が緩やかに火照って、頬が燃えるように熱かった。下半身がドクドクと音を立てたかと思うと、周辺に血液を運んでいく。耐えられないほどではないが、あまり気分はよくなかった。
落ち着かない身体を抱えたまま、僕はルチアーノの帰りを待つ。こうして目的を持って待っていると、数十分が何時間にも感じられた。おまけに今の僕は、身体がおかしな状態になっているのだ。不安と違和感に押し潰されて、余計に時の流れが遅く感じられる。
そんなことだから、背後から足音が聞こえてきた時には、僕は勢いよく後ろを振り返ってしまった。僕の反応を見たルチアーノが、面白いものでも見たかのように笑い声を上げる。からかうような反応から察するに、僕の推測は当たっていたのだろう。真っ直ぐに彼を見上げると、僕は問い詰めるつもりで声を発した。
「ルチアーノ! 僕に何を食べさせたの!?」
しかし、熱を上げる僕とは裏腹に、ルチアーノは余裕綽々な態度だった。楽しそうに口角を上げると、からかいの籠った声色で言葉を返す。
「何って、ただのチョコレートだよ。君もそう言ってたじゃないか」
明らかに誤魔化しているような、追及をかわすような態度だった。やはり、彼が僕のもとに持ち込んだのは、ただのチョコレートではない何かなのだ。彼の持ち込んだものだから、恐ろしい効果を持つものだとしても不思議ではない。
「そんなわけないでしょ! ただのチョコレートだったら、こんなに身体が熱くなったりはしないんだから。ルチアーノだって、分かってるからそんな顔をしてるんでしょ」
火照る身体を押さえつけながら、僕は声を荒らげる。自分が食べさせられたものの正体を知るまでは、安心することができなかったのだ。そんな僕の姿を見ると、彼はさらに口角を上げた。
「落ち着けって。僕が、君に危ないものを食わせるわけないだろ。さっき君が食べたのは、正真正銘のただのチョコレートだよ。ただ、中に入っているガナッシュが、ちょっと特別だっただけだ。まあ、こんなに効果があるなんて、僕も思わなかったけどね」
微かに笑い声を含ませながら、ルチアーノは淡々と言葉を重ねる。彼の話を聞いたことで、僕も少し落ち着いてきた。彼が嘘をつくメリットなど無いから、あれは正真正銘のチョコレートだったのだろう。しかし、だとしたら、僕に異常が起きた原因が分からなかった。
「勿体ぶらないで教えてよ。あのチョコレートには、いったい何が入ってたの? もちろん、変なものじゃないんだよね?」
催促するように尋ねると、彼は呆れたようにため息をついた。ソファの前に歩み寄ると、僕の隣に腰を下ろす。
「だから落ち着けって。あのチョコレートのガナッシュには、度数の強いアルコールが入ってたのさ。君の身体が火照ってるのは、アルコールによる体温上昇の効果なんだ」
「アルコール!? ルチアーノは、僕にお酒を食べさせたの?」
淡々と語るルチアーノとは裏腹に、僕は大きな声を上げてしまった。僕はまだ未成年で、お酒を飲めるような歳ではないのだ。アルコールを摂取したことが知られたら、未成年飲酒で問題にされてしまうかもしれない。
「安心しな。チョコレートに入ってるアルコールくらいじゃ、人間の身体に悪影響は出ないからさ。君の身体が火照ってるのは、体質と思い込みによるものだろうな」
「思い込み?」
「君は、僕に媚薬の正体を知らされるまで、変なものを食べさせられたと思ってたんだろ。君のその思い込みが、君の身体をこんな風にしたのさ」
からかうような声色で言うと、ルチアーノは僕の身体に手を伸ばす。下半身の膨らみに手を当てると、布の上から擦り上げた。微かな刺激が走って、僕は小さく身体を震わせる。そんな僕の姿を見ると、ルチアーノはきひひと笑い声を上げた。
「古代の人間たちが言うように、媚薬の効果は確かだったな。すぐに楽にしてやるから、とっととシャワーを浴びてきな」
ルチアーノに促されるままに、僕は洗面所へと足を運ぶ。身体はまだ火照っているし、ゆっくりお風呂に浸かっている余裕は無さそうだった。まあ、彼も乗り気みたいだし、媚薬の効果に甘えるのも悪くない。着替えを引っ張り出すと、僕はいそいそと服に手をかけた。