悪い夢「君に、話があるんだ」
ある夜、お風呂から上がった僕が寝室に向かうと、ルチアーノはおもむろにそう言った。いつもの彼には似つかない、真剣さを帯びた声色である。異様な雰囲気を感じて、僕も真面目な声で返事をした。
「どうしたの?」
しかし、僕が問いを返しても、彼はなかなか言葉を発さなかった。長い沈黙を誤魔化すように、僕はルチアーノの元へと歩み寄る。彼はベッドの縁に腰かけて、思い詰めた様子で下を向いていた。嫌な雰囲気を感じながらも、僕は彼の隣に腰を下ろす。
「いいかい。落ち着いて聞いてくれよ」
僕が隣に座ったことを確認すると、彼は静かに切り出した。明らかに重要だと分かる言い回しに、思わず背筋を伸ばしてしまう。緊張しながらルチアーノの様子を窺うと、小さく肩が震えているのが見えた。
「分かったよ」
喉の奥から言葉を捻り出して、自分の失敗を自覚する。彼の声色が移ったかのように、僕の声も震えてしまったのだ。僕が緊張を示したことで、ルチアーノも静かに顔を上げる。僕を見つめるその瞳には、一切の表情が映っていなかった。
「今日を最後に、君とのパートナー契約を解消することになったんだ。明日からは、別の人間とタッグを組みな」
数秒の間を空けた後に、ルチアーノは小さな声でそう告げた。聞き間違いなのかと思って、僕は思わず彼を見つめる。しかし、それが聞き間違いでないことも、頭のどこかでは分かっていた。嘘だと言ってほしい一心で、僕は問いを口にする。
「……今、何て言ったの」
「君とのパートナー契約を解除するって言ったんだ」
少し苛立ちを混ぜるかのように、ルチアーノは鋭い声で繰り返す。表情は消えたままだったが、その声は少し震えていた。やはり、この言葉を告げるルチアーノ自身も、タッグ解消に納得していないようである。ほとんどすがるような思いのまま、僕はさらに言葉を重ねた。
「どうして? 僕たちは、一緒にWRGPに出るんじゃなかったの? もう一ヶ月切ってるし、申し込みも済ませちゃったんだよ」
しかし、どれだけ言葉を重ねても、ルチアーノの答えは変わらなかった。少し眉を上げると、突き放すように言葉を続ける。
「仕方ないだろ。もう決まったことなんだから。それに、申し込みの内容くらい、僕ならいくらでも変えられるさ。君にもそれなりのデュエリストをつけてやるから、チームの心配は要らないからな」
「そういう問題じゃないでしょ!」
埒の明かない問答の繰り返しに、今度は僕が声を荒らげる。隣に座っているルチアーノが、驚いたように顔を上げた。そういえば、幼い子供の精神を持っている彼は、大人の威圧的な態度が苦手だと言っていた。しかし、そんなことを気にしている暇は、今の僕にはなかったのだ。
「僕たちは、表向きにはタッグパートナーとして行動してるけど、恋人同士でもあるんだよ。タッグを解消するってことは、恋人関係もなくなるってことなの?」
僕が言葉を並べると、ルチアーノは僅かに表情を変えた。すぐに元の無表情に戻ると、淡々とした声で返事をする。
「そうだよ。始めから、僕たちはそれまでの関係だったんだ。神の許しを得ている間しか、一緒にはいられない運命だったのさ」
突き放すような言葉を受けて、僕は黙って唇を噛んだ。絶望的な状況に追い込まれて、僕の表情まで曇ってしまう。しかし、このまま彼の言葉を受け入れたら、僕たちは離れ離れになってしまうのだ。何としてでも、彼を止めなければならなかった。
「なら、神様にお願いしようよ。ルチアーノと一緒にいられるようにって、僕からもお願いするから。それでもダメだったら、一緒に組織から抜け出そう」
必死に言葉を絞り出すが、ルチアーノは表情を変えなかった。感情を押し殺したような態度のまま、黙って下に視線を向ける。再び少しの間を開けてから、低い声で呟いた。
「そんなこと、できるはずがないって分かるだろ。僕たちの運命は、全部神に決められてるんだから。神がネオドミノシティからの撤退を決めたら、僕たちは帰らないといけないんだよ」
ここまで言われてしまったら、僕には何も言えなかった。現状を変える手段が無いことくらい、僕にははっきり分かっていたのだ。ルチアーノがこの町に来た目的は、神から与えられた任務をこなすためである。つまり、神からの任務が与えられなくなったら、彼はこの地にいる理由を失うのだ。
重苦しい沈黙が、僕たちの間を包み込む。二人とも下を向いたまま、何も言えずに動きを止めていた。沈黙が気まずくなった頃に、ルチアーノが小さな声で呟く。
「ごめん」
その言葉を聞いた瞬間、僕の瞳から涙が流れた。目の奥が熱くなって、次から次へと水滴が零れる。喉の奥から漏れる嗚咽は、どうしても隠すことができなかった。心が悲しみに支配されて、何も考えられなくなってしまう。
僕は、ルチアーノとお別れしなければならないのだ。彼と永遠に離れ離れになって、二度と会うことができなくなる。彼のいない世界に取り残されたとして、僕はどうすればいいのだろう。考えたところで、答えなど出るわけがない。
子供のように泣き続ける僕の姿を、ルチアーノが静かに見下ろしている。表情を隠そうとするその瞳は、悲しげな色を湛えていた。何かを言わなくてはと思うのに、上手く言葉が紡げない。そんな自分への不甲斐なさが、余計に僕の涙を煽っていく。
そこで、僕は目を覚ました。
僕の視界に入るのは、月明かりに照らされた室内である。ベッドの上に横たわっているから、視界は横向きに倒れていた。状況が理解できなくて、首を回して周囲の光景を確かめる。がさごそと揺れる布団の感覚で、自分が眠っていたことを思い出した。
布団の中から頭を出すと、僕は大きく息をつく。さっきまで僕が見ていた光景は、僕の記憶が作り出した夢だったのだ。頬に微かな違和感を感じるのは、眠っているうちに涙を流していたからだろう。まるで現実かと思ってしまうほどに、その夢は恐ろしかった。
布団の中で寝返りを打つと、僕はルチアーノの方へと身体を向ける。彼も眠りについているようで、静かな寝息が聞こえてきた。いつもと変わらない後ろ姿を眺めていると、安心が実感として押し寄せて来る。いてもたってもいられなくなって、彼の小さな身体を抱き締めた。
しばらくすると、ルチアーノの小さな身体から、燃えるような温もりが伝わってくる。二人分の寝間着を隔てているというのに、その熱ははっきりと僕を暖めた。こうして熱に触れていると、彼が存在していることを実感する。悪夢の不安に侵された僕の心を、その温もりは緩やかに溶かしてくれた。
僕の腕の中で、ルチアーノが何度か身じろぎをする。僕に抱き締められたことで、目が覚めてしまったみたいだった。不満そうに鼻を鳴らすと、少しトゲのある声で呟く。
「なんだよ」
「なんでもないよ。ちょっと、人肌が恋しかっただけ」
そう答える僕の声は、少し震えてしまっていた。夢の中で涙を流していたから、無意識のうちに泣いていたのかもしれない。そんな僕の違和感を、ルチアーノが見逃すはずがなかった。
「なんでもない奴の声じゃないだろ。一体何があったんだよ」
僕に身体を拘束されたまま、ルチアーノが尖った声で言う。遠慮のえの字も無いような、直球的な発言だった。彼が同じような状況になっていたら、僕はオブラートに包んでいるのに。でも、そんな彼の言葉選びは、少し僕の心を軽くしてくれた。
「ちょっと、悪い夢を見ちゃったんだ。それで心細くなったから、ルチアーノをぎゅってしたくて」
僕が素直に答えると、ルチアーノは不意に動きを止めた。少しの間沈黙を保つと、意外そうな声で言葉を発する。
「君も、悪い夢を見るんだな」
「そりゃあ、僕だって夢くらい見るよ。悪い夢を見たりして、夜中に泣いちゃうことだってあるんだ。大人に近づいてるからと言って、心まで強くなるわけじゃないんだよ」
諭すように言葉を返すと、彼はおかしそうにくすくすと笑う。僕の手のひらに手を添えると、からかうような声色で言った。
「違うだろ。それは、君がまだまだ子供だってことだ。大人になりきれてないから、そんな夢を見るのさ」
妙に大人びた発言に、僕は返す言葉を失ってしまう。彼にそう言われたら、なんだか一理あるような気がしてきたのだ。彼は子供の感性を持つと同時に、大人の視点で物事を見ることができる。僕たちには絶対に得ることのできないものさしを、彼は持ち合わせているのだ。
「そうかもね。僕は、まだ子供なのかも」
彼の背中に頬を当てながら、僕は小さな声で呟く。他愛の無い会話を交わしているうちに、悲しみはすっかり消え去っていた。彼の甘い温もりを感じながら、僕はゆっくりと目を閉じる。数分もしないうちに、意識は微睡みの中に落ちていった。
いずれやって来る未来のことは、今の僕には分からないのだ。もしかしたら、僕の見た悪い夢が正夢になる日も、遠い未来にはあるのかもしれない。でも、その時のことを心配したところで、僕には何もできないのだ。未来に起こる出来事は、未来の僕たちにしか触れられないのだから。