雪 その日は、朝からやけに冷えていた。肌を刺す冷気は痛みを感じるほどに冷たくて、マフラーや手袋が手放せない。吐く息が白く立ち上っている様子は、いかにも冬といった感じだ。周囲が真っ暗になる時間帯になると、冷気はさらに強くなった。
「今日は寒いね。耳が痛いくらいだよ」
早歩きで大通りを進みながら、僕はルチアーノに声をかける。少し後ろを歩く彼が、呆れたようにこちらに視線を向けた。僕たちの間に距離があるのは、手を繋いでいないからだ。さっきまでは繋いでいたのだが、手袋が滑って離れてしまった。
「当たり前だろ。明日は雪が降るんだから」
口から白い息を吐き出しながら、彼は淡々とした声で言う。人混みでもよく通る高い声が、真っ直ぐに僕の耳に届いてきた。語られた内容にびっくりして、思わず後ろを振り向いてしまう。
「そうなの?」
「そうだぜ。明日は、積雪の予報が出てるんだ。君が起きる頃には積もってるかもしれないな」
口を開けている僕を横目で見ながら、ルチアーノは淡々と言葉を続ける。確かに、しばらくは冷えると言われていたが、そんなことになっていたとは思いもよらなかった。シティは人が密集する町だから、雪が降ったら大変なことになるだろう。僕たちにはあまり関係がないが、現場に関わる人たちが不憫だった。
そんな会話を交わしているうちに、ルチアーノは僕の隣に追い付いてしまう。追い抜かされそうになって、僕は慌てて前を向いた。
しばらく歩き続けると、僕たちの住む住宅街が見えてくる。温かい家が恋しくなって、さらに歩みが早くなってしまった。ほとんど走るような足取りになりながら、自分の家を目指して進んでいく。いつの間にか、再びルチアーノを引き剥がしてしまっていた。
玄関の鍵を開けていると、背後から足音が聞こえてくる。ようやく僕に追い付いたらしいルチアーノが、不満そうな様子で言葉を漏らした。
「なんでそんなに急ぐんだよ。ゆっくり歩いても、家は逃げたりしないぞ」
「だって、寒いんだもん。早く帰って温まりたいんだよ」
手を動かしながら答えると、ようやく玄関の鍵が開いた。冷えきったドアノブを捻ると、室内へと足を踏み入れる。しかし、今日はさすがに寒すぎるようで、室内もかなり冷え込んでいた。風が凌げることを除いたら、屋外かと思うほどの冷たさである。
早歩きで廊下を進むと、真っ直ぐにリビングの中へと向かう。暖房のリモコンに手を伸ばすと、本体に向けて赤外線を飛ばした。控えめな起動音が響いた後に、羽から温風を吐き出し始める。部屋が温まるのを待っている間に、洗面所で手洗いとうがいを済ませた。
荷物を片付けてリビングに入ると、さっきよりも温かくなっていた。エアコンの下で立ち止まると、温かい風が身体を温めてくれる。しばらくそこに立っていたが、なかなか温かくはならなかった。
「何してるんだよ」
エアコンの下で佇む僕を見ると、ルチアーノは呆れたように呟く。身体を清める必要がない彼は、既にソファでくつろいでいた。テレビのリモコンを手に取ると、夕方の情報番組にチャンネルを合わせる。
「寒いから、温まろうと思って」
彼の質問に答えながら、僕はテレビに視線を向けた。ちょうどいい時間帯だったのか、天気予報に関するニュースをやっている。明日の降雪はほぼ確実らしく、キャスターは様々な注意を促していた。シティから近い山奥の町では、既に降雪が始まっているようだ。
しばらくテレビを流し見すると、僕はようやくその場から動いた。再びリモコンを手に取ると、エアコンの設定温度を高くする。これだけ寒い日には、こうでもしないと部屋が温まってくれないのだ。音を経てながら稼働するエアコンを眺めると、重い腰を上げて夕食の仕度に取りかかる。
食器棚から鍋を取り出すと、市販のつゆを流し入れる。今日はあまりにも寒いから、夕食も温かいものにしようと思ったのだ。白菜をザクザクと切り分けると、市販の肉団子と一緒に鍋に放り込む。
白菜が柔らかくなるまで火を通すと、僕は鍋敷きを取り出した。コンロから鍋を持ち上げると、自分の席へと持ち運ぶ。ふとテレビに視線を向けると、再び雪のニュースが流れていた。どうやら、番組終盤に差し掛かったことで、今日一日のニュースを纏めているらしい。
「明日は、どれくらい雪が降るんだろうね」
鍋の中身を口に運びながら、僕は何気なく呟いた。返事を求めていたわけではなかったのだが、ルチアーノは言葉を返してくれる。
「まあ、道が染まるくらいには降るんじゃないのか。午前中は降ってるみたいだし、デュエルは避けた方がいいかもな」
「そっか、じゃあ、明日は雪遊びができるね」
彼の言葉を聞くと、僕は間髪入れずにそう答える。せっかく雪が降るのだから、遊ばなくてはもったいないだろう。空気の冷える田舎ならともかく、シティでの積雪など滅多にないのだ。僕はそう思っていたのだが、ルチアーノは違うようだった。
「はあ? なんでそうなるんだよ。僕の話を聞いてたか?」
あからさまに顔をしかめると、尖った声で言葉を吐く。威嚇するような表情をしているが、僕は怯んだりしなかった。正面から彼を見つめると、説得するように言葉を重ねる。
「聞いてたよ。明日の午前は、デュエルには行かないんだって。だったら、せっかく雪が降るんだから、遊ばないともったいないよ」
思いを込めて熱弁するが、彼にはなかなか響いてくれない。呆れたように目を細めると、諭すような声色で言った。
「子供みたいなことを言うなよ。雪ではしゃぐなんて、大人の振るまいとしてみっともないぞ」
「みっともなくていいよ。僕は、まだ子供なんだから」
「なんだよ。いつもは大人ぶってるのに、こういう時だけ子供のふりしてさ」
ぶつぶつと呟くルチアーノを眺めながら、僕は淡々と食事を続ける。言葉こそ平静に紡いでいるものの、内心では気分が高ぶっていた。ネオドミノシティに雪が降るなんて、年に一度あるかどうかだ。滅多に触れられないイベントなのだから、楽しみにしても仕方がないだろう。
食事を終え、お風呂の準備に取りかかる頃には、ルチアーノも普段通りに戻っていた。ソファに座って雑談を交わしなが、お風呂のお湯張りが終わるのを待つ。キッチンから電子音が聞こえてきたら、ルチアーノから順番に浴室に向かうのだ。今日は特別冷えているから、お風呂の温もりがありがたい。
入浴を済ませて自室へと引き上げると、僕はすぐに布団に潜り込んだ。暖房器具の無い僕の部屋は、屋外かと思うほどに冷えていたのだ。布団の中にでも入っていないと、体温を保つことができない。僕の肌に触れるルチアーノの指まで、金属かと思うほどに冷たかった。
肌を刺すように冷たい指先が、僕のお腹を滑っていく。体温が一気に奪われて、身体が小さく震えてしまった。しばらくすると多少は温まってきたが、やはり冷たいことに変わりはない。そんな指先で肌をなぞられても、あまりいい気持ちにはなれなかった。
「ねえ、ルチアーノ」
「なんだよ」
「今日は、触るのはなしにしない?」
おずおずと切り出すと、ルチアーノは不満そうに僕を見上げる。口から零れる声も、心なしか尖っていた。
「なんでだよ。いつもはべたべた触ってくる癖に」
「だって、今日は寒いんだもん。こんな中でスキンシップなんかしたら、風邪を引いちゃうかもしれないでしょ」
「…………分かったよ。人間ってのは脆い生き物だな」
説得するように言葉を重ねると、彼は歯切れの悪い言葉で引き下がる。納得はしていないが、風邪を引かれるのは嫌なようである。せっかく彼から愛を交わしてくれたのに、僕から拒んでしまうのは申し訳ない。どこかで埋め合わせをしなければいけないだろう。
そんなこんなで、まだ日付が変わっていないような時間帯に、僕たちは眠りにつくことにした。寒いということは、それだけで体力を消費するのだ。僕はすぐにうとうととしはじめて、ルチアーノとの会話も途切れがちになってしまう。触れ合っていた指先をほどくと、彼は静かに背を向ける。
布団の奥深くに潜り込むと、僕はゆっくり目を閉じる。数分もしないうちに、僕の意識は眠りの世界に落ちていった。
翌朝も、凍えるような冷たさで目が覚めた。布団の中に潜り込んでいるのに、手足がやたらと冷えている。温かい靴下を履いて眠っていたはずなのに、いつの間にか脱げてしまっていた。布団も、肌に触れている部分は温かいのだが、それ以外の場所は冷たく冷えている。
肌を刺すような冷気が苦しくて、僕は布団の中に顔を引っ込めた。暖房も効いていない僕の部屋は、氷点下かと思うほどに冷たかったのだ。この空気の中を歩くと思うと、どうしても身体が動かなくなる。しかし、こんなに寒いというのに、ルチアーノはとっくに起き出していた。
十分に温かい空気を堪能してから、僕は思いきって足を動かした。既に少し冷えている足の爪先を、冷たい布団の生地へと滑らせる。冷気に足を取られて、心が挫けそうになった。それでも懸命に寒さに慣れようとするのは、早く外の様子を見たいからだ。
思いきって覚悟を決めると、僕は布団に指をかける。温もりへの未練に負けないうちに、急いで布団を捲り上げた。今年一番の冷たい風が、容赦なく僕の身体を包み込む。急いで下半身を這い出すと、近くに脱ぎ捨てていた上着を手に取った。
しかし、上着を身に付けたとしても、下半身の寒さは変わらない。足早に廊下を進むと、リビングに続く扉を開けた。室内に足を踏み入れると同時に、温かい風が僕の身体を包む。今日は特に冷えているから、その温もりがありがたかった。
「やっと起きたのかよ。雪が楽しみなんて言ってたくせに、ずいぶんと遅いんだな」
ソファに座っていたルチアーノが、呆れたようにこちらを振り向く。既に着替えを終えているようで、いつもと変わらない白装束に身を包んでいた。いくら部屋が温かいと言っても、上着も着ていない姿は少し寒そうだ。そんな彼の横を通りすぎると、僕は閉じられたカーテンに手をかける。
期待に胸を弾ませながら、一気に左右のカーテンを開く。窓の外に広がる光景を見て、僕は思わず息を飲んだ。普段は土色しか見せていない家の庭が、真っ白な雪で染まっているのである。しかも、ただ積もっているだけではなくて、今もひらひらと降り続けている。都会では滅多に見られない光景に、僕は気分が高ぶってしまった。
「見て、雪が降ってるよ!」
ソファに座るルチアーノを振り返ると、僕は窓の外を指さす。目の前の圧倒的な光景に、思わず声が大きくなってしまった。そんな僕とは対照的に、彼は微かに顔をしかめる。視線だけでこちらを見ると、窘めるように言葉を紡いだ。
「そりゃあ、降ってるだろ。今日は雪予報だったんだから」
冷静な言葉を受けても、僕の高ぶりは止まらない。刻々と大人に近づいていると言っても、僕はまだまだ未熟なのだ。雪の降り積もる庭なんて見せられたら、やっぱり遊びたくなってしまう。カーテンをくくると、弾んだ足取りでキッチンへと向かった。
「ねえ、ご飯を食べたら、庭で雪遊びをしようよ」
オーブンにトーストを押し込みながら、僕はルチアーノに声をかける。僕の誘いを予測していたのか、彼は小さくため息をついた。ちらりと僕に視線を向けると、気の抜けた声で答える。
「まだ言ってたのかよ。昨日あれだけ寒がってたのに、雪の庭には出るのか?」
「それとこれとは別なんだよ。遊んでたら、寒さなんて気にならないから」
弾んだ声で答えながら、僕は冷蔵庫に手を伸ばす。中からベーコンと卵を取り出すと、パンに乗せる目玉焼きをつくった。あまりにも寒かったから、飲み物もレンジで温めることにする。
簡単に食事を済ませると、今度は着替えを取りに行った。廊下は強烈な寒さに覆われているから、自然と足取りが早くなってしまう。駆け足で部屋に入ると、引き出しから着替えを取り出していく。雪遊びにも耐えられるように、中には防寒着を何枚も選んだ。
着替えを抱えると、僕は再びリビングに戻る。あまりにも寒すぎて、自室で着替える気にはなれなかったのだ。一応人目は気になるから、キッチンに回り込んで衣服を脱ぐ。矛盾に満ちた行動を取る僕の姿を、ルチアーノが呆れ顔で眺めていた。
ようやく支度を終えると、僕はルチアーノの元まで歩いていく。ここまでに時間をかけてしまったが、僕にとってはここからが本番なのだ。正面から彼と向かい合うと、覚悟を決めて言葉を発する。
「ほら、僕は着替えたよ。ルチアーノも支度して」
詰めるような語調で言うと、彼は不満そうに目を細めた。すぐにいつもの表情に戻ると、大きく息を吐きながら腰を上げる。
「僕も行かないといけないのかよ。面倒だなぁ」
ぶつぶつと小言を漏らしてはいるが、突き放すつもりはないようだった。こうして素直に従ってくれるのは、僕が一度言い出したら聞かないと知っているからだろう。僕がどれだけ雪の日を楽しみにしているのかは、彼もこれまでの経験で知っているのだ。
「今日は、何をして遊ぼうか。これだけ雪が降ってたら、雪合戦もできるかな」
うきうきと足取りを弾ませながら、僕は廊下を歩いていく。僕がこんなセリフを口にするなんて、ルチアーノとの立場が逆転したみたいだ。いつもは彼が僕を誘って、目的の場所に連行していくのだ。僕がルチアーノを引っ張っていくなんて、僕たちの間でも滅多にない。
「なんで、僕まで雪遊びしなきゃなんねーんだよ……。一人でやれよ……」
そんな僕の隣からは、ルチアーノの呟きが聞こえてくる。僕が彼を振り回すなんて、普段であれば絶対にできないことだ。貴重な体験に、思わず口角が上がってしまった。