虫除け「なあ、この『虫除け』ってのは、いったいどういう意味なんだよ」
ある日の夜、僕がシンクで食器を洗っていると、不意にルチアーノがそう言った。手を止めて彼の方へと視線を向けると、ソファに座る後ろ姿が見える。前に向けられた視線の先には、つけっぱなしのテレビが置かれていた。何を言われたのか理解できなくて、僕は間抜けな声を上げてしまった。
「え?」
「だから、言葉の意味を聞いてるんだよ。こいつらが言ってる『虫除け』ってのは、いったいどういう意味なんだ?」
真っ直ぐにテレビを見つめたまま、ルチアーノは淡々と言葉を続ける。彼が向ける視線の先には、ゴールデンタイムのバラエティ番組が映っていた。何かのインタビュー映像らしく、若い男女が話している。食器を置いて水を止めると、僕は彼の近くへと歩み寄った。
ソファの隣で足を止めると、テレビに表示されたテロップに視線を向ける。どうやら、このコーナーでは若いカップルを対象に誕生日の贈り物について尋ねているようだ。今インタビューを受けているカップルは、お互いの誕生日の中間に当たる日にペアリングを買うことにしたのだという。茶化し合いながらアクセサリーショップへと向かう二人の姿が、画面いっぱいに写し出された。
ぼんやりとテレビを眺めながら、僕は思考を巡らせる。記憶から引っ張り出していたのは、さっきのルチアーノの言葉だった。僕の記憶が確かならば、彼は『虫除け』という単語の意味を聞いていたはずである。テレビに映し出されている状況を考えると、彼が疑問に思った理由も理解できた。
「おい、どうしたんだよ」
腕まくりをしたまま佇んでいる僕を見て、ルチアーノが不満そうに言葉を重ねる。間を持たせるように視線を向けると、彼もこちらを見上げていた。僕を捉える両の瞳は、眉が微かに吊り上がっている。僕がすぐに答えを返さなかったことが、彼の気に触ったのだろう。
「えっと、その…………」
しかし、ここまで彼に詰められても、僕はすぐに返事をすることができなかった。カップルが使っていたらしい単語の意味など、彼には教える必要がない気がしたのだ。せっかく知らずに生きてきたのだから、これからも知らないままでいい。下手に知識を得てしまったら、彼はそれをからかいのために使いそうだ。
「なんだよ。分かってるならとっとと言えよ」
言葉を濁している僕を見て、ルチアーノは尖った声で言葉を重ねる。下手に誤魔化そうとしてしまったせいで、余計に好奇心を煽ってしまったらしい。こうなったら、今さら言葉を引っ込めることもできないだろう。面倒を避けたい気持ちもあって、僕は大人しく口を開いた。
「ここで言ってる『虫除け』っていうのは、恋人がいることを示すアイテムのことだよ。先に恋人がいることを示してたら、異性からアプローチされたりはしなくなるでしょ。そうやって異性の関心を拒むためのものを、世間では『虫除け』って言うんだ」
「ふーん。俗世の人間たちは、変なことを言い出すんだな。人間なんて、元から虫と変わらないだろ」
僕の言葉を聞くと、ルチアーノは顔を引っ込める。正面から飛んできた辛辣な言葉に、僕は言葉に詰まってしまった。なんとか気を取り直すと、一応補足の言葉を重ねる。
「……僕もよく知らないけど、ドラマや映画が元になってるんじゃないかな。ほら、よく女の人が恋敵のことを、『悪い虫』って言うでしょ」
「ああ、確かに言ってたな。ホラー映画の、序盤で死ぬカップルの言葉だ」
納得したように言うと、ルチアーノはケラケラと笑い声を浮かべる。満足した様子で息を吐くと、再びテレビに視線を戻した。どうやら、テレビの中のカップルは、無事に指輪を選び終わったらしい。笑みを浮かべるルチアーノの顔を眺めると、僕は再びキッチンへと戻った。
翌日は、ルチアーノが任務に向かう予定になっていた。朝早くに家を出て目的地に向かい、夕方に帰るスケジュールになっているらしい。今回は最高機密に関わるからと、僕の同行は求められなかった。彼の任務は後味の悪い内容が多いから、僕としては嬉しい判断である。
昼近くまで惰眠を貪ると、重い身体を引きずって布団から這い出す。本当はもっと眠っていたかったのだが、起きなくてはいけない理由があったのだ。ショップで注文していた新作のプロテクターが、昨日の夕方に店舗に届いたのだという。こういうのは一人の時の方が気軽だから、今日のうちに受け取っておきたかった。
トーストと玉子で朝食を済ませると、顔を洗って外出着に着替える。部屋の隅に置いてあった鞄を手に取ると、繁華街を目指して家を出た。ここから目的地のショップまでは、徒歩で向かうと三十分くらいかかる。今日は一人での外出になるから、近くまでDホイールで行ってもいいだろう。
鍵を片手にガレージへと向かうと、Dホイールのエンジンをかける。特別製の改造Dホイールは、とんでもなく大きな音を立てた。自分の立てた音にびっくりしながらも、ハンドルを握って機体を発進させる。車道を通って繁華街へと向かうと、いつもの半分以下で辿り着くことができた。
駐車場にDホイールを停めると、大通りを歩いてショップへと向かう。アイテムの予約は大きな店舗を選んだから、今日の目的地はメインストリートにあった。平日でも人の多い歩道を歩くと、大きな看板が見えてくる。ビルの一階と二階をまるまる使ったその店舗が、本日の僕の目的地だった。
受付カウンターに向かうと、端末のページを提示して手続きを進める。昨今はデジタルが普及してきたから、この手の手続きも全部デジタルだ。技術革新の最先端を行くネオドミノシティは、特にデジタルの普及が凄まじい。アナログ文化の根強い田舎で育った僕には、まだまだ慣れないことも多かった。
なんとかアイテムを受け取ると、僕は繁華街へと足を向ける。せっかく一人で外出しているのだから、もっと遊んでいこうと思ったのだ。根が飽き性なルチアーノは、僕の個人的な行き先には付き合ってくれない。カードショップを巡ろうとすると、途中から帰宅を促してくるのだ。
人で溢れる大通りを歩くと、僕は大きめのカードショップに向かう。ここは有名なチェーン店だから、カードの品揃えも幅広いのだ。端末に登録したリストを見ながら、探しているカードがないか確かめる。店内を一周してみたが、めぼしい品は見当たらなかった。
何も買わずに店舗から出ると、今度は次のカードショップへと向かった。デュエルモンスターズのデッキを作るためには、こういう地道な努力が必要になるのだ。通販で買ってもいいのだけど、全てを割り増し金額で買っていたらお金がかかりすぎてしまう。そんなこんなで、僕はショップを巡ることにしていた。
再び歩道へと戻ると、ひとつ先の信号を右に曲がる。さっきまでよりも少し狭く、人の少ない通りに入った。次に僕が目指しているのも、全国的に有名なチェーン店だ。看板を目指して歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「あの、○○○さんですか……?」
誰かに名前を呼ばれた気がして、僕は思わず足を止める。若い女の子の声だったが、聞き覚えのある響きではなかった。声の主の姿を捉えようと、僕は思いきって背後を振り返る。そこに立っていたのは、黒いワンピースに身を包んだ女の子だった。
「そう、ですけど……」
女の子の全身を眺めながら、僕は小さな声で答える。急に声をかけられたことに対して、少し警戒してしまったのだ。というのも、僕の目の前に立っている女の子は、明らかに知り合いではなかったのである。纏っている服装から考えると、デュエリストであるかすら怪しかった。
「やっぱりそうなんですね! ずっとお会いしたいと思ってました!」
しかし、そんな僕の態度など気にせずに、少女は弾んだ声で言葉を重ねる。耳に刺さりそうな甲高い声が、正面から僕の顔へと浴びせられた。高いという点では同じのだが、少女の声は媚びるような響きを持っている。苦手というほどではないのだが、どう接していいのか分からない人種だった。僕が戸惑っていると、彼女はさらに言葉を続ける。
「○○○さんに、渡したいものがあったんです! これ、よかったら使ってください!」
高い声で捲し立てると、彼女は鞄の中に腕を突っ込んだ。ごそごそと音を立てながら中身を探ると、手のひらサイズの包みを取り出す。カラフルなラッピングを施されているところを見ると、雑貨屋のプレゼント包装なのだろう。
両手で包みを持ち直すと、僕の方へと差し出してくる。拒むわけにもいかなかったから、仕方なくそれを受け取った。中身が何なのかは分からないが、あまり重みは感じなかった。
「えっと、ありがとうございます……」
「これからも応援してます! 次の大会も頑張ってください!」
一方的に包みを押し付けると、少女は大通りの方へと去っていく。あまりにも突然のことだったから、何がなんだか分からなかった。受け取った包みを鞄に入れると、僕は目的地へと進路を正す。気を取り直すと、カードショップを目指して歩を進めた。
家に帰る頃には、すっかり日がくれてしまっていた。せっかくの一人での外出だからと、寄り道をしすぎてしまったのである。いつもの弁当屋で夕食を調達すると、Dホイールに乗って家路へと向かう。あまり帰りが遅くなると、ルチアーノは機嫌を損ねるかもしれないのだ。
ガレージにDホイールを停めると、玄関の鍵を開けて室内へと入る。ルチアーノは先に帰っているようで、リビングには煌々と灯りが灯っていた。乱雑に鞄を椅子に置くと、真っ先に窓のカーテンを閉じる。こんなに室内が丸見えだったというのに、当のルチアーノは平然とした態度をしていた。
「おかえり。今日は遅かったな」
「ただいま。繁華街まで行ったから、いろいろ寄り道してたんだ」
ルチアーノに言葉を返すと、僕は廊下へと引き返した。洗面所に向かうと、手洗いうがいをして身体を清める。再びリビングに戻ると、今度は買ってきた食品を電子レンジに押し込む。そうやって忙しく動き回っていると、何かが滑り落ちる音がした。
「おい、鞄が落ちたぞ」
机の方へと視線を向けたルチアーノが、淡々とした声色で言葉を吐く。彼は親切心で教えてくれたのだろうが、今の僕は手が離せなかった。揚げ物を移そうと取り出したお皿で、両手が埋まってしまっているのである。顔だけでルチアーノに向き合うと、僕は声色を作って言った。
「今は手が離せないから、変わりに拾っといて」
「……仕方ないな。今回だけだぞ」
ちらりとこちらに視線を向けると、彼はソファから腰を上げる。面倒臭そうな態度を取ってはいるが、僕の頼みは断れないようだった。ゆっくりとした足取りで椅子の前に向かうと、床に落ちていた鞄に手を伸ばす。ベルト部分を持ち上げようとしたところで、彼は唐突に動きを止めた。
「おい。なんだよ、これ」
目の前に落ちているものを睨み付けると、彼は鋭い声で言葉を吐く。何かを咎めているような、怒りの滲んだ声だった。彼の声色の理由が分からなくて、僕はそちらへと視線を向ける。手にしていた食器を台に置くと、急いで彼の隣に駆け寄った。
「どうしたの? 何かあった?」
「君の鞄に、こんなものが入ってたんだ。こんなの、見るからに贈り物だろ?」
彼が示している先を見て、僕は心臓が止まりそうになってしまった。鞄から零れるようにして落ちていたのは、昼間に女の子からもらった包みだったのだ。とりあえずで鞄に入れたまま、その存在すら忘れてしまっていた。これが異性からもらったものだと知ったら、ルチアーノは機嫌を損ねるだろう。
「それは……」
どう返事をしようかと考えながら、僕は一度言葉を濁す。しかし、その判断は、あまりいいものとは言えなかった。僕が言葉を詰まらせたと見ると、ルチアーノは明らかに態度を変える。指を伸ばして包みを摘まみ上げると、僕の前へと突き出してきた。
「なんだよ。もしかして、やましいことでもあるのか?」
正面から詰め寄られて、僕は自分の失敗を察する。こうして疑いをかけられてしまったら、大人しく経緯を告げるしかなかった。無理に隠し通そうとしても、特殊能力を使われたら簡単に暴かれてしまう。それに、隠そうとしていたことが分かったら、彼は余計に怒りを募らせるだろう。
既に、僕に逃げるという選択肢などなかった。大きく息を吸い込むと、覚悟を決めて言葉を発する。
「それは、通りすがりのファンの子からもらったんだよ。応援してるから、プレゼントだって」
「ふーん。それは、女なのか?」
曖昧に返事をすると、ルチアーノはさらに追及を重ねる。彼にとっては相手の性別こそが、一番知りたかったところなのだろう。面倒なことになったと思いながらも、僕はしぶしぶ真実を伝える。
「……女の子だったよ。あんまり、デュエリストって感じじゃない子だった」
口ごもりながら言葉を告げると、彼はまたしても気配を険しくする。見るからに眉を吊り上げると、尖った声で言葉で僕を睨み付ける。
「そうか。君は、僕に隠し事をしてたんだな。わざわざ鞄の中に隠しておくなんて、悪質なことを考えるじゃないか」
「違うよ! 全然知らない子だったから、もらったことを忘れてたの。それに、隠そうと思ってるなら、リビングに来る前に片付けるでしょ!」
ルチアーノの表情に怯えながらも、僕は必死に言葉を返す。弁明の甲斐もあってか、彼も一応は納得したみたいだ。僅かに表情を緩ませると、持ち上げていた包みを放り出す。鞄の上に落下したそれは、乾いた音を立てた。
「それもそうか。全く、紛らわしいやつだな」
吐き捨てるように告げると、彼は黙ってその場から立ち上がる。足音を立てながら部屋を出ると、廊下を歩いてどこかへと向かった。どうやら押し入れを探っているようで、扉を開け閉めする音が響いてくる。しばらくすると、彼は足音を立てながら帰ってきた。
「ルチアーノ? どうしたの?」
不思議に思って問いかけてみるが、彼は何も答えなかった。黙って僕の前へと歩み寄ると、手に持っていた何かを突きつける。ラベルは手に隠れてしまって読めないが、形状はスプレーのようなものらしい。なんとか文字を読もうとしていると、彼は上のボタンに手を当てた。
スプレーの噴射口から、霧状になった液体が噴き出してくる。それは僕の前を漂うと、あっという間に周囲に蔓延した。急いで目を閉じると、両手を振って霧を振り払う。何らかの香料が入っているようで、ハーブのような香りがした。
「うわっ。何するの!?」
肌に触れる霧の感覚が消えると、僕はゆっくりと瞳を開く。幸いなことに、至近距離での噴射ではなかったから、目に入ったりはしなかったようだ。ルチアーノもその辺りは分かっているから、あえて外してくれたのだろう。優しいのだか厳しいのだが、よく分からない態度だった。
スプレーを机の上に置くと、ルチアーノは大きく鼻を鳴らした。呆然としている僕を残すと、足音を立てながら部屋を出ていく。なんとか気を持ち直すと、僕は残されたスプレーに視線を向けた。ラベルに貼られていたのは、それが虫除けスプレーであることを示す文言だった。
頭の上に疑問符を浮かべながら、僕はスプレーのラベルに視線を向ける。当たり前だが、そこに書かれている注意書きには、人に向けて噴射するのは危険だと記されていた。おそらく、彼のことだから、それを知っていてわざとやったのだろう。それが何を示すのかだけは、いくら考えても分からなかった。