膝枕 お風呂から上がり、簡単に身支度を整えると、僕は自分の部屋へと向かった。疲労で身体が左右に揺れて、時折視界が大きく揺らぐ。歩くことすら精一杯に感じるほどに、身体がずっしりと重くなっていた。足は棒のように強張っているから、明日は確実に筋肉痛になるだろう。
部屋の中に足を踏み入れると、僕は真っ直ぐにベッドへと向かう。一人で眠るには大きいベッドの上には、ルチアーノが腰を下ろしていた。待ち時間の退屈をまぎらわしていたのか、隣には雑誌が積み上げられている。乱雑な仕草で手元に引き寄せると、パラパラとページを捲っていた。
そんなルチアーノの姿を横目で見ながら、僕はベッドの上に倒れ込んだ。勢いよく身体を横たえたから、マットのスプリングが大きく跳ねる。どさどさと音が聞こえてくるのは、積み上げられた雑誌が倒れたのだろう。非難するような視線を向けると、彼は尖った声で言った。
「おい、何するんだよ」
「疲れたから、ベッドで寝ようと思っただけだよ。どこかの誰かさんが引っ張り回すせいで、全身くたくたなんだから」
右斜め上に視線を向けながら、僕は反撃の言葉を返す。彼はベッドの隅に座っているから、ここから見えるのは横顔だけだった。いつもは上から見下ろすことが多いから、このアングルは少し珍しい。思わず見つめていると、彼はちらりとこちらに視線を向けた。
「人間っていうのは、相変わらず脆い生き物だよな。この程度でバテてたら、この先の戦いにはついていけないぜ」
寝そべったままの僕を見下ろしながら、彼は呆れ半分の声で言う。まるで僕のスタミナが足りないとでも言いたげな、横暴すぎる物言いだった。言っておくが、彼の扱うデュエルディスクは、市場に出回っているものとは違うのである。バトルフェイズでダメージを受けると、身体に実際の傷を負ってしまうのだ。
「だからって、朝から晩までデュエルはやりすぎだよ。身体も傷だらけだし、痣だってできてたんだから」
「それくらい、僕たちのデュエルでは日常茶飯事だよ。嫌だったら、もっと上手く避けられるようになるんだな」
唇の端を僅かに歪めると、彼はくすくすと笑い声を上げる。僕がどれだけ本気で訴えたとしても、少しも聞き入れてくれないようだった。とはいえ、これもいつものことだから、これ以上の反論はしないことにする。うっかり機嫌を損ねたりすると、そっちの方が面倒臭いのだ。
「もう、ルチアーノは意地悪だなぁ」
小さな声で呟くと、僕は目の前に視線を向ける。僕よりも少し離れたところに、ルチアーノの小さな背中が見えた。こちらに身体を捻っているから、太腿と膝も微かに見えている。そんな姿を見ているうちに、僕はあることを思い付いてしまった。
「ねえ、ルチアーノ」
「なんだよ」
「膝枕してくれない?」
さりげない風を装って口を開くと、彼は一瞬だけ動きを止めた。ゆっくりとこちらに視線を向けると、眉を潜めながら言葉を返す。
「はあ?」
一切の追撃を突き放すような、冷たくて静かな声である。背筋に冷たい感触が走るが、ここで引くわけにはいかなかった。どうせ機嫌を損ねてしまうのなら、要求を押し付けた方がいい。密かに覚悟を決めると、何事もなかったように口を開いた。
「だから、膝枕をしてほしいんだよ。今日一日頑張ったから、そのご褒美ってことでいいでしょう」
「君は、一体何を言ってるんだよ。君が疲れてるからって、わざわざ僕が身体を貸す必要はないだろ」
「そんなこと言わないでよ。僕はルチアーノの任務に付き合ったんだから、ルチアーノも僕を労ってくれたっていいでしょ」
突き放すような言葉の羅列にも挫けずに、僕は必死に言葉を並べる。今日という今日こそは、どうしても要求を通さないと気が済まなかったのだ。そもそも、僕がこんなにも疲労している理由は、全てルチアーノが原因なのである。彼が無茶な計画を立てなければ、僕の身体はここまで痛め付けられることもなかったのだ。
「君が何を言ったところで、嫌なものは嫌だからな。そんなに枕がほしいなら、僕が取ってやるからさ」
面倒臭そうに言葉を並べながら、彼はベッドの上の方に手を伸ばす。僕が使っている枕を掴み取ると、乱暴な仕草でこちらに押し付けた。しかし、その一瞬の行動を、僕が見逃すはずがない。素早く彼の方へと手を伸ばすと、枕を掴んでいた腕を握りしめた。
「うわっ! 何するんだよ!」
腕を捕まれたルチアーノが、びっくりしたように声を荒らげる。僕の手から逃れようと、力一杯腕を振り回した。しかし、どれだけ抵抗されようと、腕を握る手は緩めない。両手で動きを封じると、僕は駄々を捏ねるように言った。
「嫌だよ。ルチアーノが膝枕してくれるまで、絶対に離してあげないからね」
子供のような主張を繰り返しているうちに、ようやく彼も折れたようである。振り回してしていた腕を止めると、面倒臭そうにため息をついた。
「分かったよ。……一回だけだからな」
どうやら、今回の僕たちの攻防戦は、僕の粘り勝ちに終わったようだ。許可の言葉が出ると同時に、僕も彼の手首から指を離す。ゆっくりと重くなった身体を起こすと、ルチアーノと向かい合う体勢で座り直した。子供のように素直な僕の姿を、彼は冷たい瞳で見つめている。
「そこまでするほどかよ。本当に子供みたいだな」
呆れたように言葉を吐きながらも、彼はその場から腰を上げる。そのまま座り直すのかと思ったのだが、彼が取った行動は違っていた。軽い足取りでソファの上によじ登ると、慣れた様子で僕の隣に腰を下ろす。ちらりとこちらに視線を向けると、半ば突き放すような声で言った。
「ほら」
彼の行動の意図が分からなくて、僕はぽかんと口を開けてしまう。しばらく見つめ合っているうちに、ようやく真意に気づくことができた。膝枕というものに慣れていない彼は、胡座の上に僕の頭を乗せようとしているのである。どう指摘しようか迷っていると、彼は尖った声で言葉を吐いた。
「なんだよ。膝に頭を乗せたいんじゃなかったのか?」
「そうだけど、それはちょっと違うかなって……」
機嫌を損ねそうな予感がして、僕の返事はしどろもどろになってしまう。しかし、はっきりしない言葉を返したことで、ルチアーノは余計に機嫌を損ねたようだった。正面から僕を睨み付けると、見せつけるように鼻を鳴らす。
「はあ? 文句があるなら、とっとと言えよ」
「違うよ。文句があるわけじゃないんだけど……」
まだしどろもどろな語調のまま、僕は膝枕についての説明をする。不満そうに唇を尖らせてはいるものの、ルチアーノは何も言わずに話を聞いてくれた。僕の説明を聞いた上で、彼は再びベッドに腰を下ろす。ぎこちない姿勢ではあるものの、今度は正座の体勢をとってくれた。
「ほら、これでいいんだろ」
「…………ありがとう」
正面に正座するルチアーノを見ているうちに、僕は変に緊張してしまった。改めて向かい合ったことで、自分の要求の恥ずかしさを自覚したのだ。心臓がドクドクと音を立てて、身体が熱を持ってくる。しかし、自分から要求したこともあって、ここで引くことはできなかった。
高鳴る胸を押さえつけると、僕は彼の方へと身体を近づける。横目で様子を窺いながら、そっと膝の上に頭を乗せた。
少しずつ体重を預けると、僕はゆっくりと瞳を閉じる。ルチアーノの身体の温もりが、寝間着越しに僕の顔へと伝わってきた。こうして瞳を閉じていると、その温もりは湯たんぽのようにも感じる。身体が疲れきっていたこともあって、だんだん意識が遠のいてしまった。
ルチアーノの膝に頭を乗せたまま、僕はうとうとと船を漕ぐ。眠気に脳を支配されたことで、緊張はどこかに消えてしまった。一日分の疲労を解消するかのように、僕は眠りの世界へと身を委ねていく。しばらくそうしていると、頭の上から声が聞こえてきた。
「おい」
甲高くて少し鋭い声が、遠くから僕の耳に響いてくる。しかし、眠りの世界に落ちている僕には、その声は届いていなかった。意識の表面をなぞっていくだけで、頭の中に入ってこないのだ。微睡みの中で意識を漂わせていると、今度はさらに大きな声が聞こえてきた。
「おい、起きろって」
「うぅ……ん……」
今度こそ無視するわけにはいかなくて、僕は喉の奥から声を漏らす。はっきりした言葉を発するための気力は、今の僕には残っていなかった。彼の身体に体重を預けたまま、許される限りの惰眠を貪る。しかし、そんな至福の時間も、そう長くは続かなかった。
「おい、起きろよ!」
ルチアーノの小さな手のひらが、真上から僕の頬に触れる。そこそこの力で叩きつけられたようで、肉が弾けるような音が聞こえた。衝撃が顔に伝わって、僕は思わず顔を上げる。急に眠りから引きずり出されたから、心臓が早鐘のように鳴っていた。
「びっくりした……。急に何するの?」
寝惚けたまま頬を膨らませる僕を見て、ルチアーノは不満そうに鼻を鳴らす。僕を膝の上から転がり落とすと、素早くその場から立ち上がった。
「他人の膝の上で寝るなよ。そんなに疲れてるなら、きちんとベッドの上で寝な」
転がっていた枕を元に戻しながら、ルチアーノは尖った声で言う。何の反論もできないほどの、正論すぎる正論だった。彼に膝枕をしてもらえるのは嬉しいが、僕が寝落ちしてしまったら意味がない。重くなった身体を引きずると、僕は布団の中に潜り込んだ。